第六章「窓のない客間」
目が覚めると、行灯の部屋にいました。
畳は青く、床の間には掛け軸と、季節の花。お屋敷の客間、としか言いようのない部屋でした。ただし、窓がありません。障子はあるのに、開けると壁でした。出入りの襖には、こちら側から開ける取っ手がありませんでした。
手首には、組紐が結んでありました。柔らかくて、少しも痛くなくて、お茶を飲むくらいの自由はあって、それでいて、どれだけ探っても結び目が見つかりませんでした。丁寧な、けれど解けない紐です。この部屋の性格を、あの紐が全部言い表していたと思います。
握ったままの手の中に、取り込みかけの赤いリボンが一本、残っていました。私はそれを、袖の中にしまいました。
「ごめんなさいね。手荒な招き方で」
振り向くと、襖も開いていないのに、女の人が座っていました。金色の髪を長く垂らして、扇を持って、この部屋と同じ——上等で、窓のない——微笑み方をする人でした。
「八雲紫。この幻想郷の、管理人のようなものよ」
その部屋には、時間がありませんでした。
行灯は減らず、食事は気づくと置いてあり、眠って起きても朝なのか夜なのかわかりません。三日いたのか、四日いたのか、いまでも正確には言えないのです。紫さんは、何度か来ました。来るたびに、少しずつ、話をしました。談話、と本人は呼んでいました。手首の紐は、談話の間も、解かれませんでした。
教わったことを、順番に書きます。
この世界は結界で囲われていること。忘れられたもの、居場所を失くしたものが、こぼれ落ちてくる受け皿であること。妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治して、その釣り合いの上に暮らしが載っていること。釣り合いは自然に取れているのではなくて、取っている者がいること。
——ああ、と私は思いました。里の祠の、欠けた饅頭。暗くなる前の家路。あの勘定書きの知らない項目に、この人はいま、名前をつけている。上品な言葉で、仕組みの側から。
「けれどね、いまは少し、具合が悪いの」
と、あるとき紫さんは言いました。
「この世界には、要石がいくつかあるのよ。動いてはいけない石が。そのひとつが——いま、外れているの」
どの石ですか、とは聞きませんでした。聞いても、扇の上の目が笑うだけだと、もうわかっていたからです。ただ、外れている、と言ったときの声だけ、他の話のときと湿り気が違いました。
最後の晩の談話は、敵の話でした。
「外の世界はね、いずれこの結界を破るわ。軍勢で、ではないの。敵は兵隊の形をしていない」
紫さんは扇を閉じて、畳の上に、見えない地図を描くように話しました。
「活字。電信。夜を昼にする灯り。敵はそういう顔で来るの。測って、数えて、名前をつけて、説明のつかないものを一つずつ潰していく。癌に似ているわ。体の中で、体のふりをして増えて、気づいたときには、心臓が動いている理由まで置き換わっている。……貴方の育った世界のことよ、早苗さん」
私は、少し考えてから、正直に言いました。
「あそこ、そんな大したものじゃないですよ」
紫さんの扇が、止まりました。
「普通です。テストがあって、進路があって、塾の帰りにおなかがすくんです。夜を昼にする灯り、っていうのは、たぶんコンビニのことだと思いますけど、あれは肉まんを売っているところです。誰も、結界を破ろうなんて思っていません。幻想郷のことを、誰も知らないんです。敵っていうのは、こっちを見ている顔のことでしょう。あそこは、こっちを見てもいないんです」
言ってから、意地悪だったかな、と思いました。でも、嘘をつくわけにはいきませんでした。私は、あそこの住人だったのです。楽園の敵の顔と、模試の帰りの顔と、両方知っているのは、この部屋で私だけでした。
「それにね、紫さん。こんなことしたって、もう手遅れですよ」
これは、言うかどうか迷って、言いました。
「もうすぐ、もうすぐそこまで、人類の英知は来ているんです。文字にならない世界にすら、科学は食い込みます。結界の外がこっちを見つけるのは、軍勢が来るからじゃなくて、ただの、順番なんです」
胸のいちばん奥の抽斗にしまっておいた言い聞かせが、こんなところで役に立つとは思いませんでした。やがて幻の世界に神隠しにあった私すら、科学と人間は救い出してくれるだろう——あの晩の私は、まだ半分くらい、それを信じていたのです。
「だからよ」
と、紫さんは言いました。責める声ではありませんでした。むしろ、やっと本題に入れる、という声でした。
「だから、この世界には備えが要るの。愛してくれる人間が。外で生まれて、外を知っていて、それでもこちら側に立ってくれる人間が。……貴方、幻想郷を愛せるかしら」
「わかりません。来たばかりですから」
「そうね。だから——愛せるように、してあげる」
紫さんは、なんでもないことのように言いました。境界、という言葉を使いました。私と幻想郷の間の境界を、少し、引き直すだけ。痛くも痒くもない。眠っている間に済む。
「猫の親が、子猫を咥えて運ぶでしょう。あれと同じよ。貴方はただ、運ばれるだけでいいの。目が覚めたら、貴方はこの世界を、心から愛しているわ」
私は、手首の紐を見ました。丁寧な、けれど解けない紐。この申し出と、そっくり同じ形をしていました。
「うちの山にも、猿がいました」
と、私は言いました。
「猿の子は、運ばれないんです。自分で、お母さんの背中にしがみつくんです。落ちそうになりながら、自分の手で。……猫の子は、運ばれてるあいだ、どこに行くのか選べないじゃないですか」
「着く場所は、同じよ」
「着き方が違ったら、着く場所も違います」
自分でも、言いながら考えていました。つたなくてもいいから、間違えたくない、とだけ思っていました。
「紫さんの敵は、測って、数えて、説明のつかないものを潰していくんですよね。心臓が動いている理由まで、置き換えてしまうんですよね。……愛してるっていう気持ちを、境界とやらで作れるようにしたら、それ、同じことです。愛が、作れるものになっちゃうんです。説明がついちゃうんです。誰かを好きっていうことの、いちばん説明のつかないところを、あなたが自分の手で潰すんです」
私は息を吸って、最後まで言いました。
「それでは、あなたの敵そのものになる」
長い、長い沈黙がありました。
行灯の芯が、一度だけ鳴りました。紫さんは扇を閉じたまま、私を見ていました。口が、二度、開きかけました。二度とも、言葉になる前に閉じました。千年生きた妖怪の顔から、窓のない微笑みが下りていって、その下から出てきた顔は、意外なほど、ただの困った人の顔でした。
どれだけ経ったのか、紫さんは扇を置きました。
それから、畳に両手をついて、頭を下げました。
「非礼を、お詫びします」
金色の髪が、畳についていました。私はあわてて、いえ、あの、と言いましたが、紫さんは顔を上げるまで、きっちりと礼の長さを守りました。顔を上げると、手首の組紐は、いつのまにか、ほどけて膝の上に落ちていました。
「お強いのね」
「強くないです。理屈っぽいだけです。理系なので」
「……そう」
紫さんは立ち上がって、扇の先で、空気を撫でました。空気が縦に裂けて、裂け目の向こうに、見覚えのある杉木立と、夕方の色が見えました。
「お帰りなさい、風祝の早苗さん。招き方も非礼なら、帰し方も不作法で、ごめんなさいね。——それから」
最後のは、独り言だったのかもしれません。
「貴方のような子が、と言いかけて、やめたわ。この先は、非礼が過ぎるから」
裂け目を出ると、邑はずれの杉木立でした。
夕方ではありませんでした。空が赤いのは、夕焼けではありませんでした。
山が、鳴っていました。
(第六章・了)