Coolier - 新生・東方創想話

私は如何にして心配するのを止めて幻想郷を愛するようになったか

2026/07/07 01:48:06
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第六章「窓のない客間」


 目が覚めると、行灯の部屋にいました。

 畳は青く、床の間には掛け軸と、季節の花。お屋敷の客間、としか言いようのない部屋でした。ただし、窓がありません。障子はあるのに、開けると壁でした。出入りの襖には、こちら側から開ける取っ手がありませんでした。

 手首には、組紐が結んでありました。柔らかくて、少しも痛くなくて、お茶を飲むくらいの自由はあって、それでいて、どれだけ探っても結び目が見つかりませんでした。丁寧な、けれど解けない紐です。この部屋の性格を、あの紐が全部言い表していたと思います。

 握ったままの手の中に、取り込みかけの赤いリボンが一本、残っていました。私はそれを、袖の中にしまいました。

 「ごめんなさいね。手荒な招き方で」

 振り向くと、襖も開いていないのに、女の人が座っていました。金色の髪を長く垂らして、扇を持って、この部屋と同じ——上等で、窓のない——微笑み方をする人でした。

 「八雲紫。この幻想郷の、管理人のようなものよ」




 その部屋には、時間がありませんでした。

 行灯は減らず、食事は気づくと置いてあり、眠って起きても朝なのか夜なのかわかりません。三日いたのか、四日いたのか、いまでも正確には言えないのです。紫さんは、何度か来ました。来るたびに、少しずつ、話をしました。談話、と本人は呼んでいました。手首の紐は、談話の間も、解かれませんでした。

 教わったことを、順番に書きます。

 この世界は結界で囲われていること。忘れられたもの、居場所を失くしたものが、こぼれ落ちてくる受け皿であること。妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治して、その釣り合いの上に暮らしが載っていること。釣り合いは自然に取れているのではなくて、取っている者がいること。

 ——ああ、と私は思いました。里の祠の、欠けた饅頭。暗くなる前の家路。あの勘定書きの知らない項目に、この人はいま、名前をつけている。上品な言葉で、仕組みの側から。

 「けれどね、いまは少し、具合が悪いの」

 と、あるとき紫さんは言いました。

 「この世界には、要石がいくつかあるのよ。動いてはいけない石が。そのひとつが——いま、外れているの」

 どの石ですか、とは聞きませんでした。聞いても、扇の上の目が笑うだけだと、もうわかっていたからです。ただ、外れている、と言ったときの声だけ、他の話のときと湿り気が違いました。




 最後の晩の談話は、敵の話でした。

 「外の世界はね、いずれこの結界を破るわ。軍勢で、ではないの。敵は兵隊の形をしていない」

 紫さんは扇を閉じて、畳の上に、見えない地図を描くように話しました。

 「活字。電信。夜を昼にする灯り。敵はそういう顔で来るの。測って、数えて、名前をつけて、説明のつかないものを一つずつ潰していく。癌に似ているわ。体の中で、体のふりをして増えて、気づいたときには、心臓が動いている理由まで置き換わっている。……貴方の育った世界のことよ、早苗さん」

 私は、少し考えてから、正直に言いました。

 「あそこ、そんな大したものじゃないですよ」

 紫さんの扇が、止まりました。

 「普通です。テストがあって、進路があって、塾の帰りにおなかがすくんです。夜を昼にする灯り、っていうのは、たぶんコンビニのことだと思いますけど、あれは肉まんを売っているところです。誰も、結界を破ろうなんて思っていません。幻想郷のことを、誰も知らないんです。敵っていうのは、こっちを見ている顔のことでしょう。あそこは、こっちを見てもいないんです」

 言ってから、意地悪だったかな、と思いました。でも、嘘をつくわけにはいきませんでした。私は、あそこの住人だったのです。楽園の敵の顔と、模試の帰りの顔と、両方知っているのは、この部屋で私だけでした。

 「それにね、紫さん。こんなことしたって、もう手遅れですよ」

 これは、言うかどうか迷って、言いました。

 「もうすぐ、もうすぐそこまで、人類の英知は来ているんです。文字にならない世界にすら、科学は食い込みます。結界の外がこっちを見つけるのは、軍勢が来るからじゃなくて、ただの、順番なんです」

 胸のいちばん奥の抽斗にしまっておいた言い聞かせが、こんなところで役に立つとは思いませんでした。やがて幻の世界に神隠しにあった私すら、科学と人間は救い出してくれるだろう——あの晩の私は、まだ半分くらい、それを信じていたのです。




 「だからよ」

 と、紫さんは言いました。責める声ではありませんでした。むしろ、やっと本題に入れる、という声でした。

 「だから、この世界には備えが要るの。愛してくれる人間が。外で生まれて、外を知っていて、それでもこちら側に立ってくれる人間が。……貴方、幻想郷を愛せるかしら」

 「わかりません。来たばかりですから」

 「そうね。だから——愛せるように、してあげる」

 紫さんは、なんでもないことのように言いました。境界、という言葉を使いました。私と幻想郷の間の境界を、少し、引き直すだけ。痛くも痒くもない。眠っている間に済む。

 「猫の親が、子猫を咥えて運ぶでしょう。あれと同じよ。貴方はただ、運ばれるだけでいいの。目が覚めたら、貴方はこの世界を、心から愛しているわ」

 私は、手首の紐を見ました。丁寧な、けれど解けない紐。この申し出と、そっくり同じ形をしていました。

 「うちの山にも、猿がいました」

 と、私は言いました。

 「猿の子は、運ばれないんです。自分で、お母さんの背中にしがみつくんです。落ちそうになりながら、自分の手で。……猫の子は、運ばれてるあいだ、どこに行くのか選べないじゃないですか」

 「着く場所は、同じよ」

 「着き方が違ったら、着く場所も違います」

 自分でも、言いながら考えていました。つたなくてもいいから、間違えたくない、とだけ思っていました。

 「紫さんの敵は、測って、数えて、説明のつかないものを潰していくんですよね。心臓が動いている理由まで、置き換えてしまうんですよね。……愛してるっていう気持ちを、境界とやらで作れるようにしたら、それ、同じことです。愛が、作れるものになっちゃうんです。説明がついちゃうんです。誰かを好きっていうことの、いちばん説明のつかないところを、あなたが自分の手で潰すんです」

 私は息を吸って、最後まで言いました。

 「それでは、あなたの敵そのものになる」




 長い、長い沈黙がありました。

 行灯の芯が、一度だけ鳴りました。紫さんは扇を閉じたまま、私を見ていました。口が、二度、開きかけました。二度とも、言葉になる前に閉じました。千年生きた妖怪の顔から、窓のない微笑みが下りていって、その下から出てきた顔は、意外なほど、ただの困った人の顔でした。

 どれだけ経ったのか、紫さんは扇を置きました。

 それから、畳に両手をついて、頭を下げました。

 「非礼を、お詫びします」

 金色の髪が、畳についていました。私はあわてて、いえ、あの、と言いましたが、紫さんは顔を上げるまで、きっちりと礼の長さを守りました。顔を上げると、手首の組紐は、いつのまにか、ほどけて膝の上に落ちていました。

 「お強いのね」

 「強くないです。理屈っぽいだけです。理系なので」

 「……そう」

 紫さんは立ち上がって、扇の先で、空気を撫でました。空気が縦に裂けて、裂け目の向こうに、見覚えのある杉木立と、夕方の色が見えました。

 「お帰りなさい、風祝の早苗さん。招き方も非礼なら、帰し方も不作法で、ごめんなさいね。——それから」

 最後のは、独り言だったのかもしれません。

 「貴方のような子が、と言いかけて、やめたわ。この先は、非礼が過ぎるから」




 裂け目を出ると、邑はずれの杉木立でした。

 夕方ではありませんでした。空が赤いのは、夕焼けではありませんでした。

 山が、鳴っていました。

(第六章・了)

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