第二部「幻想郷」
第四章「人質」
霧が晴れると、そこは山の上でした。
湖は、ちゃんとついてきていました。見慣れた岸辺の形のまま、ただし十分の一くらいの大きさになって、朝日の色をした水がまだ少し傾いだまま、ゆっくり水平に戻っていくところでした。社もあります。鳥居も、拝殿も、離れも。引っ越しというより、神社のまわりの世界だけが、そっくり入れ替わったみたいでした。
空気が、濃いのです。
標高は明らかに高いのに、息を吸うたび、肺の奥に何かがちゃんと届く感じがしました。理科の言葉では説明できません。しいて言うなら、ずっとイヤホンで聴いていた曲を、初めて生の楽器で聴いたときの感じです。神奈子様と諏訪子様は、鳥居の下に並んで立っていました。お二人の輪郭は、夏の終わりのあの薄さが嘘みたいに、朝の光の中でくっきりと濃かった。
「着いたぞ」
と神奈子様が言いました。声まで濃くなっていました。
包囲されたのは、その日の昼前です。
最初は、杉の木立の影が動いたのだと思いました。違いました。白い髪に狼の耳の人たちが、湖をぐるりと囲む尾根の上に、等間隔に立っていたのです。数えて、途中でやめました。手には皆、刀か槍を持っていて、誰も一歩も動かず、誰も目をそらしませんでした。
「山を降りよ」
と、いちばん近くの一人が言いました。よく通る、感情のない声でした。
「ここは天狗の山だ。ここから先へは、何人であろうと、一人たりとも通しはしない」
神奈子様が、前へ出ました。
そのときの神奈子様を、私はたぶん、一生忘れません。
背中の注連縄が音を立ててほどけて、風が、湖の水面を丸ごと持ち上げるように吹き上がりました。そして空から——どこから来たのか、いまでもわかりません——柱が降ってきたのです。皮を剥いだだけの、途方もなく大きな樅の柱が四本、社を囲む四つの角に、地響きを立てて突き立ちました。湖の水が縁で跳ねて、虹が四つ、一瞬だけかかりました。
「ここはもう、うちの境内だ」
神奈子様の声は、怒鳴っていないのに、尾根の向こうまで届いているのがわかりました。
「この山の畏れは、うちが頂くことにした。取り分の相談なら聞こう。嫌なら——攻めてくるといい。軍神の商売は、久しぶりだがな」
尾根の上の狼たちは、動きませんでした。にらみ合いは、そのまま日暮れまで続きました。
私はと言えば、御柱の根元に立って、自分の神様を見上げていました。座敷で湯呑みを持っていた人と同じ人だと、頭ではわかっています。でも、そこに立っているのは知らない横顔でした。うれしそうなのです。困っている顔の何倍も、生きている顔なのです。
「いいねえ、いいねえ」
諏訪子様は、いつのまにか御柱のてっぺんに座って、足をぶらぶらさせていました。
「ひさしぶりだねえ、こういうの!」
帽子の下の目が、お祭りの子供の目でした。私はそれを見て、よかった、と思いました。よかった、と思ったすぐ後ろに、名前をつけそこねた小さな影が、一つ落ちました。この話は、あとでもう一度出てきます。
にらみ合いは、三日続きました。
狼の人たちは交代で立ち続け、夜は松明が尾根をぐるりと一周しました。烏の羽の音が、昼も夜も、雲の上を行き来していました。神奈子様は動じません。「先に痺れを切らしたほうが負けさ」。でも私は、松明の数を毎晩数えて、増えていくのを知っていました。
四日目の朝、私は言いました。
「私が、話をしに行きます」
お二人は、そろって反対しました。当たり前です。でも私には、つたないなりの理屈がありました。
「神様が出て行ったら、それは交渉じゃなくて果たし合いになります。向こうも引けなくなります。人間の私が行くのが、一番角が立ちません。それに」
それに、私は交渉の材料としては軽いのです。攫っても脅しても、神様は困るけれど、山は儲かりません。軽いから、通れるのです。……そういうことを、もっとたどたどしく言いました。神奈子様は長いこと黙って、最後に、行け、とだけ言いました。
尾根への坂を、私は一人で登りました。両手は空けて、手ぶらだとわかるように広げて。狼の人たちは槍を交差させて、それから、私の後ろに神様がついてきていないことをたしかめると、目配せをして、私を通しました。
連れて行かれたのは、尾根の向こうの張り出しに設けられた、陣幕の中でした。
床几に、女の人が一人、座っていました。狼の人たちとは装束が違います。羽織の肩がまっすぐで、軍人のような着方でした。長い髪をひとつに括って、私が入っても、書き付けから顔を上げるまでに、たっぷり三呼吸ありました。
「座れ。話は聞く」
私は座って、教わったとおりの名乗りをしました。
「私は風祝の早苗です。八坂神奈子様と、洩矢諏訪子様の、お世話をしています」
「飯綱丸龍。この山の大天狗で、いまはこの包囲の総司令だ」
総司令、という言葉が妙に事務的に響いて、私は少しだけ、緊張がほどけました。飯綱丸さんは書き付けを置いて、私をじっと見ました。
「山の上に、いきなり社が湧いた。湖つきでだ。挙げ句、あの軍神は山の畏れを寄越せと言う。……笑い話なら上等の部類だがな。だが天狗は笑い話で山を渡さない。そちらの言い分は」
「戦いになったら、困ります。それだけです」
「ほう」
「神様たちは、向こうの世界で細って、やっとここへ来たんです。着いた早々、焼けた山と焼けた邑を取り合うのは、誰の得にもなりません。畏れの取り分のことは、私にはわかりません。でも、殺し合いより安い決め方が、きっとあります」
飯綱丸さんは、しばらく黙っていました。値踏みをする目でしたが、嫌な目ではありませんでした。やがて、指を二本立てました。
「条件は二つだ。一つ——お前がこの邑に留まる。人質だ。神は、人の子を邑に住まわせている限り、山に手を出さない。そういう見立てが立てば、こちらも矛を収める理屈が立つ。二つ——里からの信仰は、山が取り次ぐ。社への直参りはさせない。上がりの割り前は、追って詰める。……この二つを呑むというのなら、戦は、考えないでやってもいい」
「人質というのは、殺されるための係ですか」
「保証のための係だ」
飯綱丸さんは、事もなげに言いました。
「客分として扱う。ただし、約定が破れたときは——話は別だがな。それと、これは私の一存では決まらん。山の上の御方の、天魔様の印が要る条々だ。返事は急がんでいい。持ち帰れ」
持ち帰った返事は、拝殿の梁を震わせました。
「それなら戦争だ」
神奈子様は、条件を最後まで聞き終わる前に言いました。
「畏れの上前を撥ねられて、おまけに早苗を差し出せだと。舐められたものだな。いいだろう、軍神の商売の作法を、あの山賊どもに——」
「神奈子様」
私は、途中で口を挟みました。生まれて初めてだったと思います。
「私、行きます」
「早苗」
「人質って、聞いてきましたけど、要するに下宿です。邑に住んで、ごはんを食べて、いてくれればいいそうです。それで戦争が一つ消えるなら——それで済むなら、安いものです」
「お前を担保に入れて立つ社に、何の値打ちがある」
「担保じゃありません。ご近所づきあいの、最初の一歩です」
我ながら、つたない言い換えだと思いました。神奈子様は取り合いませんでした。話は平行線のまま、私はそっと座敷を出て、庭で蛙を数えていた諏訪子様のところへ行きました。
「諏訪子様。神奈子様の説得を、お願いできませんか」
「さなえは、こわくないの」
「こわいです。でも、戦争のほうが、もっとこわいです」
諏訪子様は帽子のつばの下から私を見上げて、それから、にっと笑いました。
「まかせて。ああ見えて、押すとこと引くとこの見極めは、私のほうが年季が入ってるんだ」
三日後、私は風呂敷包み一つで、天狗の邑へ下りました。
道々、白狼の人が二人、前と後ろについて歩きました。護送なのか護衛なのか、聞きませんでした。たぶん、どちらでもあるのだと思います。
坂の途中で一度だけ振り返ると、湖と、社と、四本の御柱が見えました。あんなに大きかった御柱が、杉の木立の間で、もう、お祭りの飾りみたいに小さく見えました。
私は前を向いて、知らない人たちの邑へ、歩いていきました。
(第四章・了)