Coolier - 新生・東方創想話

私は如何にして心配するのを止めて幻想郷を愛するようになったか

2026/07/07 01:48:06
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第二部「幻想郷」


第四章「人質」


 霧が晴れると、そこは山の上でした。

 湖は、ちゃんとついてきていました。見慣れた岸辺の形のまま、ただし十分の一くらいの大きさになって、朝日の色をした水がまだ少し傾いだまま、ゆっくり水平に戻っていくところでした。社もあります。鳥居も、拝殿も、離れも。引っ越しというより、神社のまわりの世界だけが、そっくり入れ替わったみたいでした。

 空気が、濃いのです。

 標高は明らかに高いのに、息を吸うたび、肺の奥に何かがちゃんと届く感じがしました。理科の言葉では説明できません。しいて言うなら、ずっとイヤホンで聴いていた曲を、初めて生の楽器で聴いたときの感じです。神奈子様と諏訪子様は、鳥居の下に並んで立っていました。お二人の輪郭は、夏の終わりのあの薄さが嘘みたいに、朝の光の中でくっきりと濃かった。

 「着いたぞ」

 と神奈子様が言いました。声まで濃くなっていました。

 包囲されたのは、その日の昼前です。

 最初は、杉の木立の影が動いたのだと思いました。違いました。白い髪に狼の耳の人たちが、湖をぐるりと囲む尾根の上に、等間隔に立っていたのです。数えて、途中でやめました。手には皆、刀か槍を持っていて、誰も一歩も動かず、誰も目をそらしませんでした。

 「山を降りよ」

 と、いちばん近くの一人が言いました。よく通る、感情のない声でした。

 「ここは天狗の山だ。ここから先へは、何人であろうと、一人たりとも通しはしない」

 神奈子様が、前へ出ました。

 そのときの神奈子様を、私はたぶん、一生忘れません。

 背中の注連縄が音を立ててほどけて、風が、湖の水面を丸ごと持ち上げるように吹き上がりました。そして空から——どこから来たのか、いまでもわかりません——柱が降ってきたのです。皮を剥いだだけの、途方もなく大きな樅の柱が四本、社を囲む四つの角に、地響きを立てて突き立ちました。湖の水が縁で跳ねて、虹が四つ、一瞬だけかかりました。

 「ここはもう、うちの境内だ」

 神奈子様の声は、怒鳴っていないのに、尾根の向こうまで届いているのがわかりました。

 「この山の畏れは、うちが頂くことにした。取り分の相談なら聞こう。嫌なら——攻めてくるといい。軍神の商売は、久しぶりだがな」

 尾根の上の狼たちは、動きませんでした。にらみ合いは、そのまま日暮れまで続きました。

 私はと言えば、御柱の根元に立って、自分の神様を見上げていました。座敷で湯呑みを持っていた人と同じ人だと、頭ではわかっています。でも、そこに立っているのは知らない横顔でした。うれしそうなのです。困っている顔の何倍も、生きている顔なのです。

 「いいねえ、いいねえ」

 諏訪子様は、いつのまにか御柱のてっぺんに座って、足をぶらぶらさせていました。

 「ひさしぶりだねえ、こういうの!」

 帽子の下の目が、お祭りの子供の目でした。私はそれを見て、よかった、と思いました。よかった、と思ったすぐ後ろに、名前をつけそこねた小さな影が、一つ落ちました。この話は、あとでもう一度出てきます。




 にらみ合いは、三日続きました。

 狼の人たちは交代で立ち続け、夜は松明が尾根をぐるりと一周しました。烏の羽の音が、昼も夜も、雲の上を行き来していました。神奈子様は動じません。「先に痺れを切らしたほうが負けさ」。でも私は、松明の数を毎晩数えて、増えていくのを知っていました。

 四日目の朝、私は言いました。

 「私が、話をしに行きます」

 お二人は、そろって反対しました。当たり前です。でも私には、つたないなりの理屈がありました。

 「神様が出て行ったら、それは交渉じゃなくて果たし合いになります。向こうも引けなくなります。人間の私が行くのが、一番角が立ちません。それに」

 それに、私は交渉の材料としては軽いのです。攫っても脅しても、神様は困るけれど、山は儲かりません。軽いから、通れるのです。……そういうことを、もっとたどたどしく言いました。神奈子様は長いこと黙って、最後に、行け、とだけ言いました。

 尾根への坂を、私は一人で登りました。両手は空けて、手ぶらだとわかるように広げて。狼の人たちは槍を交差させて、それから、私の後ろに神様がついてきていないことをたしかめると、目配せをして、私を通しました。




 連れて行かれたのは、尾根の向こうの張り出しに設けられた、陣幕の中でした。

 床几に、女の人が一人、座っていました。狼の人たちとは装束が違います。羽織の肩がまっすぐで、軍人のような着方でした。長い髪をひとつに括って、私が入っても、書き付けから顔を上げるまでに、たっぷり三呼吸ありました。

 「座れ。話は聞く」

 私は座って、教わったとおりの名乗りをしました。

 「私は風祝の早苗です。八坂神奈子様と、洩矢諏訪子様の、お世話をしています」

 「飯綱丸龍。この山の大天狗で、いまはこの包囲の総司令だ」

 総司令、という言葉が妙に事務的に響いて、私は少しだけ、緊張がほどけました。飯綱丸さんは書き付けを置いて、私をじっと見ました。

 「山の上に、いきなり社が湧いた。湖つきでだ。挙げ句、あの軍神は山の畏れを寄越せと言う。……笑い話なら上等の部類だがな。だが天狗は笑い話で山を渡さない。そちらの言い分は」

 「戦いになったら、困ります。それだけです」

 「ほう」

 「神様たちは、向こうの世界で細って、やっとここへ来たんです。着いた早々、焼けた山と焼けた邑を取り合うのは、誰の得にもなりません。畏れの取り分のことは、私にはわかりません。でも、殺し合いより安い決め方が、きっとあります」

 飯綱丸さんは、しばらく黙っていました。値踏みをする目でしたが、嫌な目ではありませんでした。やがて、指を二本立てました。

 「条件は二つだ。一つ——お前がこの邑に留まる。人質だ。神は、人の子を邑に住まわせている限り、山に手を出さない。そういう見立てが立てば、こちらも矛を収める理屈が立つ。二つ——里からの信仰は、山が取り次ぐ。社への直参りはさせない。上がりの割り前は、追って詰める。……この二つを呑むというのなら、戦は、考えないでやってもいい」

 「人質というのは、殺されるための係ですか」

 「保証のための係だ」

 飯綱丸さんは、事もなげに言いました。

 「客分として扱う。ただし、約定が破れたときは——話は別だがな。それと、これは私の一存では決まらん。山の上の御方の、天魔様の印が要る条々だ。返事は急がんでいい。持ち帰れ」




 持ち帰った返事は、拝殿の梁を震わせました。

 「それなら戦争だ」

 神奈子様は、条件を最後まで聞き終わる前に言いました。

 「畏れの上前を撥ねられて、おまけに早苗を差し出せだと。舐められたものだな。いいだろう、軍神の商売の作法を、あの山賊どもに——」

 「神奈子様」

 私は、途中で口を挟みました。生まれて初めてだったと思います。

 「私、行きます」

 「早苗」

 「人質って、聞いてきましたけど、要するに下宿です。邑に住んで、ごはんを食べて、いてくれればいいそうです。それで戦争が一つ消えるなら——それで済むなら、安いものです」

 「お前を担保に入れて立つ社に、何の値打ちがある」

 「担保じゃありません。ご近所づきあいの、最初の一歩です」

 我ながら、つたない言い換えだと思いました。神奈子様は取り合いませんでした。話は平行線のまま、私はそっと座敷を出て、庭で蛙を数えていた諏訪子様のところへ行きました。

 「諏訪子様。神奈子様の説得を、お願いできませんか」

 「さなえは、こわくないの」

 「こわいです。でも、戦争のほうが、もっとこわいです」

 諏訪子様は帽子のつばの下から私を見上げて、それから、にっと笑いました。

 「まかせて。ああ見えて、押すとこと引くとこの見極めは、私のほうが年季が入ってるんだ」




 三日後、私は風呂敷包み一つで、天狗の邑へ下りました。

 道々、白狼の人が二人、前と後ろについて歩きました。護送なのか護衛なのか、聞きませんでした。たぶん、どちらでもあるのだと思います。

 坂の途中で一度だけ振り返ると、湖と、社と、四本の御柱が見えました。あんなに大きかった御柱が、杉の木立の間で、もう、お祭りの飾りみたいに小さく見えました。

 私は前を向いて、知らない人たちの邑へ、歩いていきました。

(第四章・了)

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