第七章「一日戦争」
山が鳴る、というのがどういうことか、その日まで知りませんでした。
地面の底で、大太鼓を布でくるんで叩いているような音がします。杉木立の上の空が、ときどき、雷でもないのに白く明滅します。焦げた匂いのする風が、尾根の方から吹き下ろしてきます。私は邑への道を走りました。走りながら、行灯の部屋で数えそこねた日にちが、外でどれだけの厚みになっていたのかを、考えないようにしていました。
邑は、灯が消えていました。
軒はどこも戸を閉ざして、石段の広場に、白狼の人たちが隊列を組んで並んでいました。槍の穂先が、明滅のたびに一斉に光ります。子供と年寄りは、洞の方へ列を作って登っていきます。あの規律正しい、太鼓で朝が始まる邑が、まるごと一つの武器になっていました。
「――ちょっと!」
物陰から腕をつかまれて、荷小屋の裏に引き込まれました。紫の格子の袖に、頭の横で結んだ髪。会ったことはありません。でも、新聞の題字の横の似顔絵で知っていました。
「花果子念報の……」
「姫海棠はたて。そんなことより、あんた、どこにいたのよ!」
押し殺した声のまま、はたてさんは私を上から下まで検分して、五体満足なのを確かめると、今度は突き飛ばすみたいに手を離しました。
「消えたのよ、あんた。夕方に、洗濯物ごと。文のばか、真っ青になって——でも上には言えないじゃない、そんなの。人質を失くしましたなんて、首が飛ぶわよ、比喩抜きで」
「それで、どうしたんですか」
「居ることにしたの」
はたてさんは、目をそらしました。
「私の念写、あんたの写真なら山ほどあるから。庭先のやつ、日付を変えて念報に載せて。飯綱丸様も、知ってて黙認。三日は、もったんだけどね」
「……神様に、ばれたんですね」
「蛙の。今朝がた、いきなり尾根の砦がまるごと水浸しになって、それが開戦。うちの隊も文も、もう出てる」
蛙の神様、と聞いたとき、胸の奥の温かいところが、ぎゅっと縮みました。怒っているのです。私のために。私はそれが、うれしくて、こわくて、申し訳なくて、どの順番で感じればいいのかわかりませんでした。
「あんた、これからどうするの。言っとくけど、あんたはいま、逃げた人質なんだからね。見つかったら、その場で――」
はたてさんは、手刀で自分の首を軽く叩きました。
「私はあんたを見てない。いい? 見てないったら見てない。……文の家、まだあの子がいるわよ。行きな」
文さんの家は、真っ暗でした。
囲炉裏に火も入っていない板の間に、霊夢さんが一人で座っていました。膝を抱えて、窓の外の明滅を見ていました。私が戸を開けると、慌てて顔を袖でこすりました。こすったって、わかります。泣いていたのです。どれくらい前から泣いていたのかは、わかりません。聞きませんでした。
「……なんだ。あんたか」
「ただいま、です」
私は上がり込んで、袖の中から、少しくたびれた赤いリボンを出しました。
「これ。取り込みそこねて、持って行っちゃいました。すみません」
霊夢さんはリボンを受け取って、しばらく手の中で見て、それから、いつもの倍の時間をかけて、髪に結びました。手つきは丁寧なのに、結び目は少し、曲がっていました。
「戦争を止める方法って、ないんでしょうか」
と、私は言いました。霊夢さんは窓の外を見たままでした。
「……幻想郷には、戦いのルールがあるわ。決闘の作法。派手にやって、当たっても死なない、続きのある喧嘩。——それは、私が考えたもの」
ああ。
この人が、そうだったのか。
驚きは、一拍だけでした。むしろ、いろんなものが静かに順番に、あるべき棚に収まっていく音がしました。文さんが名字を言わなかったこと。里の茶屋で聞いた、東の果ての神社が空だという噂。紫さんの、外れた要石。氷の上の道はいいね、と言った夜の声。誰も掃除しなくていい、と。
「そのルールで、この戦争を」
「無理よ」
霊夢さんは、リボンの端を指で弾きました。
「あれはね、巫女が立ち会って、初めて回るの。それに、あっちはもう本気よ。本気の神様に、作法の紙切れなんて」
そこで言葉を切って、霊夢さんは初めてこちらを向きました。
「あんた、山に戻る気でしょう」
「神様たちのところへは、行きます。ここも危ないですから、霊夢さんも、奥の洞に」
「……ふん」
それきりでした。私は戸口で一度だけ振り返りました。霊夢さんは、もう窓の外を見ていました。曲がった結び目のリボンが、明滅のたびに、暗がりの中で赤くなりました。
神社までの道は、戦場の縁を通っていました。
緻密なことは、書きません。書けるほど近くで見なかったし、近くで見たものについては、書きたくないからです。覚えているのは、尾根の上をゆっくり動く白い隊列と、雲の下で渦を巻く烏の群れと、谷ひとつ向こうで、水の柱が杉より高く立ち上がって、砦のあった場所を洗い流していくところです。音は、あとから来ました。
御柱の内側に駆け込んだとき、最初に気づいたのは諏訪子様でした。
「さなえ!」
帽子が飛びました。諏訪子様は御柱のてっぺんから一直線に降りてきて、私のお腹に頭からぶつかって、そのまま、ぎゅうっとしがみつきました。小さい体が、震えていました。
「さなえ、さなえ。無事だった。無事だったんだ」
「ごめんなさい。心配かけました。あの、私、攫われてただけで、ひどいことは何も」
「わすれられるのはね、いいの」
諏訪子様は、私のお腹に顔を押しつけたまま言いました。
「神様だから。わすれられるのは、仕方ないの。でもね、とられるのは、だめ。それだけは、だめなの」
夏の縁側と同じ声で、ぜんぜん違うことを言っていました。私は諏訪子様の帽子を拾って、かぶせてあげることしかできませんでした。
「無事か、早苗」
神奈子様は、拝殿の階の上に立っていました。鎧も兜もないのに、立ち姿そのものが陣でした。無事です、と答えると、神奈子様は一度だけ、深くうなずきました。それで安否の話は終わりでした。
「天狗どもは、お前が消えたのを隠して、写真でごまかした。攫ったのが誰かは、この際もう問題じゃない。預けた娘を失くして、失くしたことを偽って取り繕った——それが全部だ」
「神奈子様、あの、決闘の作法があるそうです。当たっても死なない、続きのある——」
「遊戯の作法で止まる段は、過ぎた」
神奈子様は、静かに言いました。怒鳴られたほうが、まだ楽だったと思います。
「早苗。始めた戦は、勝って終えるしかないんだ。途中で退いた神は、侮られる。侮られた神は、この山では二度と立てない。私らはもう、こちら側の理で生きている。……お前はここにいろ。ここが一番安全だ。それとな」
神奈子様は、私の目を見ました。
「お前は約定の人質だった。その人質が邑から消えて、戦になった。天狗の法では、お前はもう咎人だ。戻れば、死ぬ。わかるな」
わかります、と私は言いました。嘘ではありません。わかることと、従うことは、別の抽斗に入っているというだけです。
その晩、私は拝殿の裏で、湖を見ていました。
水面に、尾根の火が映っていました。きれいでした。きれいだと思ってしまうことが、いやでした。
このままなら、神様たちはたぶん、勝ちます。勝って、山を頂いて、畏れられて、細らなくて済むようになります。そのために焼かれる砦と、洞に避難している子供たちと、締切前の顔で出撃していった新聞記者と、暗い家で結び目を曲げた人が、あちら側の皿に載ります。
誰も悪くないのです。びっくりするくらい、誰も悪くないのです。愛が一つと、面子が一つと、優しい嘘が一つ。それだけで、山はこんなに上手に燃えるのです。
私は、あの包囲の朝に言った言葉を、もう一度、今度は自分にだけ言いました。
それで済むなら、安いものです。
誰にも言わずに、そう決めました。
(第七章・了)