Coolier - 新生・東方創想話

私は如何にして心配するのを止めて幻想郷を愛するようになったか

2026/07/07 01:48:06
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第七章「一日戦争」


 山が鳴る、というのがどういうことか、その日まで知りませんでした。

 地面の底で、大太鼓を布でくるんで叩いているような音がします。杉木立の上の空が、ときどき、雷でもないのに白く明滅します。焦げた匂いのする風が、尾根の方から吹き下ろしてきます。私は邑への道を走りました。走りながら、行灯の部屋で数えそこねた日にちが、外でどれだけの厚みになっていたのかを、考えないようにしていました。

 邑は、灯が消えていました。

 軒はどこも戸を閉ざして、石段の広場に、白狼の人たちが隊列を組んで並んでいました。槍の穂先が、明滅のたびに一斉に光ります。子供と年寄りは、洞の方へ列を作って登っていきます。あの規律正しい、太鼓で朝が始まる邑が、まるごと一つの武器になっていました。

 「――ちょっと!」

 物陰から腕をつかまれて、荷小屋の裏に引き込まれました。紫の格子の袖に、頭の横で結んだ髪。会ったことはありません。でも、新聞の題字の横の似顔絵で知っていました。

 「花果子念報の……」

 「姫海棠はたて。そんなことより、あんた、どこにいたのよ!」

 押し殺した声のまま、はたてさんは私を上から下まで検分して、五体満足なのを確かめると、今度は突き飛ばすみたいに手を離しました。

 「消えたのよ、あんた。夕方に、洗濯物ごと。文のばか、真っ青になって——でも上には言えないじゃない、そんなの。人質を失くしましたなんて、首が飛ぶわよ、比喩抜きで」

 「それで、どうしたんですか」

 「居ることにしたの」

 はたてさんは、目をそらしました。

 「私の念写、あんたの写真なら山ほどあるから。庭先のやつ、日付を変えて念報に載せて。飯綱丸様も、知ってて黙認。三日は、もったんだけどね」

 「……神様に、ばれたんですね」

 「蛙の。今朝がた、いきなり尾根の砦がまるごと水浸しになって、それが開戦。うちの隊も文も、もう出てる」

 蛙の神様、と聞いたとき、胸の奥の温かいところが、ぎゅっと縮みました。怒っているのです。私のために。私はそれが、うれしくて、こわくて、申し訳なくて、どの順番で感じればいいのかわかりませんでした。

 「あんた、これからどうするの。言っとくけど、あんたはいま、逃げた人質なんだからね。見つかったら、その場で――」

 はたてさんは、手刀で自分の首を軽く叩きました。

 「私はあんたを見てない。いい? 見てないったら見てない。……文の家、まだあの子がいるわよ。行きな」




 文さんの家は、真っ暗でした。

 囲炉裏に火も入っていない板の間に、霊夢さんが一人で座っていました。膝を抱えて、窓の外の明滅を見ていました。私が戸を開けると、慌てて顔を袖でこすりました。こすったって、わかります。泣いていたのです。どれくらい前から泣いていたのかは、わかりません。聞きませんでした。

 「……なんだ。あんたか」

 「ただいま、です」

 私は上がり込んで、袖の中から、少しくたびれた赤いリボンを出しました。

 「これ。取り込みそこねて、持って行っちゃいました。すみません」

 霊夢さんはリボンを受け取って、しばらく手の中で見て、それから、いつもの倍の時間をかけて、髪に結びました。手つきは丁寧なのに、結び目は少し、曲がっていました。

 「戦争を止める方法って、ないんでしょうか」

 と、私は言いました。霊夢さんは窓の外を見たままでした。

 「……幻想郷には、戦いのルールがあるわ。決闘の作法。派手にやって、当たっても死なない、続きのある喧嘩。——それは、私が考えたもの」

 ああ。

 この人が、そうだったのか。

 驚きは、一拍だけでした。むしろ、いろんなものが静かに順番に、あるべき棚に収まっていく音がしました。文さんが名字を言わなかったこと。里の茶屋で聞いた、東の果ての神社が空だという噂。紫さんの、外れた要石。氷の上の道はいいね、と言った夜の声。誰も掃除しなくていい、と。

 「そのルールで、この戦争を」

 「無理よ」

 霊夢さんは、リボンの端を指で弾きました。

 「あれはね、巫女が立ち会って、初めて回るの。それに、あっちはもう本気よ。本気の神様に、作法の紙切れなんて」

 そこで言葉を切って、霊夢さんは初めてこちらを向きました。

 「あんた、山に戻る気でしょう」

 「神様たちのところへは、行きます。ここも危ないですから、霊夢さんも、奥の洞に」

 「……ふん」

 それきりでした。私は戸口で一度だけ振り返りました。霊夢さんは、もう窓の外を見ていました。曲がった結び目のリボンが、明滅のたびに、暗がりの中で赤くなりました。




 神社までの道は、戦場の縁を通っていました。

 緻密なことは、書きません。書けるほど近くで見なかったし、近くで見たものについては、書きたくないからです。覚えているのは、尾根の上をゆっくり動く白い隊列と、雲の下で渦を巻く烏の群れと、谷ひとつ向こうで、水の柱が杉より高く立ち上がって、砦のあった場所を洗い流していくところです。音は、あとから来ました。

 御柱の内側に駆け込んだとき、最初に気づいたのは諏訪子様でした。

 「さなえ!」

 帽子が飛びました。諏訪子様は御柱のてっぺんから一直線に降りてきて、私のお腹に頭からぶつかって、そのまま、ぎゅうっとしがみつきました。小さい体が、震えていました。

 「さなえ、さなえ。無事だった。無事だったんだ」

 「ごめんなさい。心配かけました。あの、私、攫われてただけで、ひどいことは何も」

 「わすれられるのはね、いいの」

 諏訪子様は、私のお腹に顔を押しつけたまま言いました。

 「神様だから。わすれられるのは、仕方ないの。でもね、とられるのは、だめ。それだけは、だめなの」

 夏の縁側と同じ声で、ぜんぜん違うことを言っていました。私は諏訪子様の帽子を拾って、かぶせてあげることしかできませんでした。

 「無事か、早苗」

 神奈子様は、拝殿の階の上に立っていました。鎧も兜もないのに、立ち姿そのものが陣でした。無事です、と答えると、神奈子様は一度だけ、深くうなずきました。それで安否の話は終わりでした。

 「天狗どもは、お前が消えたのを隠して、写真でごまかした。攫ったのが誰かは、この際もう問題じゃない。預けた娘を失くして、失くしたことを偽って取り繕った——それが全部だ」

 「神奈子様、あの、決闘の作法があるそうです。当たっても死なない、続きのある——」

 「遊戯の作法で止まる段は、過ぎた」

 神奈子様は、静かに言いました。怒鳴られたほうが、まだ楽だったと思います。

 「早苗。始めた戦は、勝って終えるしかないんだ。途中で退いた神は、侮られる。侮られた神は、この山では二度と立てない。私らはもう、こちら側の理で生きている。……お前はここにいろ。ここが一番安全だ。それとな」

 神奈子様は、私の目を見ました。

 「お前は約定の人質だった。その人質が邑から消えて、戦になった。天狗の法では、お前はもう咎人だ。戻れば、死ぬ。わかるな」

 わかります、と私は言いました。嘘ではありません。わかることと、従うことは、別の抽斗に入っているというだけです。




 その晩、私は拝殿の裏で、湖を見ていました。

 水面に、尾根の火が映っていました。きれいでした。きれいだと思ってしまうことが、いやでした。

 このままなら、神様たちはたぶん、勝ちます。勝って、山を頂いて、畏れられて、細らなくて済むようになります。そのために焼かれる砦と、洞に避難している子供たちと、締切前の顔で出撃していった新聞記者と、暗い家で結び目を曲げた人が、あちら側の皿に載ります。

 誰も悪くないのです。びっくりするくらい、誰も悪くないのです。愛が一つと、面子が一つと、優しい嘘が一つ。それだけで、山はこんなに上手に燃えるのです。

 私は、あの包囲の朝に言った言葉を、もう一度、今度は自分にだけ言いました。

 それで済むなら、安いものです。

 誰にも言わずに、そう決めました。

(第七章・了)

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