第八章「処刑台」
夜明け前に、私は湖を発ちました。
書き置きはしませんでした。書けば、止められます。装束の帯を締め直して、教わったとおり、風に目方を預けて、谷を一つ、低く飛びました。うまく飛べました。こんな朝なのに、というべきか、こんな朝だから、というべきか、体は羽のように言うことを聞きました。
捕まったのは、邑の手前の沢です。
最初から、隠れる気はありませんでした。白狼の人たちが槍を構えて降りてきたとき、私は先に両手を上げて、地面に降りて、膝をつきました。人質の早苗です、戻りました、と言いました。縄を打たれました。あの組紐と違って、ちゃんと痛い縄でした。正直で、いっそ好ましいくらいでした。
引き立てられた先は、邑を見下ろす崖の上の陣でした。
旗が何本も立っていて、伝令の烏が出たり入ったりしていました。陣幕の奥の床几に、飯綱丸龍さんが座っていました。あの日と同じ姿勢でした。ただ、目の下に、あの日はなかった影がありました。
「……戻ったか、咎人」
「はい」
「逃げた人質が、自分の足で戻る。戻れば斬る、と伝わっていなかったか」
「伝わっていました」
「では、命乞いか。それとも神の使いで、停戦の口上でも持ってきたか」
「どちらでもありません」
飯綱丸さんは、書き付けの筆を置きました。周りの天狗たちが、ちらちらとこちらを見ていました。私は、縛られたまま、聞きました。
「考えてきたことがあるんです。話しても、いいですか。……遺言みたいなものなので、聞き流してくれて、いいので」
「申せ」
私は、順番に話しました。つたなかったと思います。でも、行灯の部屋のときと同じで、間違えたくない、とだけ思って話しました。
外の世界で、私の神様たちが飢えていたこと。祈りが軽くなって、風で飛ぶようになったこと。こちらに来て、人間の里で、道端の祠に欠けた饅頭が供えてあるのを見たこと。子供が暗くなる前に走って帰ること。あれは掛け金で、この世界の暮らしには、私の育った世界にはない項目が、勘定書きに一行、印刷される前から刷り込まれていること。
「畏れてもらえなくなったら、こっちに来ればいい——なんて、妖怪も、神様も、ずるいです。畏れる側は、引っ越せないのに。饅頭を供える側は、逃げる場所がないのに。私、最初にそれに気づいたとき、すごくいやでした。うちの神様たちまで、こっちに来たとたん、いきいきと脅す側に回ったのが、いやでした」
陣の中が、静かになっていました。私は続けました。
「でも、ずるい、で言い切れたら、楽だったんです。うちの神様たちは、ずるをしてでも生きていてほしい人たちです。細って、透けて、それでも私のかき氷のにおいを、おいしいおいしいって嗅いでいた人たちなんです。それから、この山の皆さんは——人質の私に、ごはんと、藁草履と、布団をくれました。ずるい仕組みの中に、ずるくない人ばっかり住んでいる。私がこっちに来て一番困ったのは、それです。憎みたかったのに、間に合わなかった」
「だから、命乞いはしません。約定が破れた形になっているのは、私のところです。私の首で帳尻が合うのなら、合わせてください。——それで済むなら、安いものです」
長い沈黙がありました。
飯綱丸さんは、床几から立ち上がりました。そして、私ではなく、陣幕の外の副官に向かって言いました。
「触れを出せ。全隊、攻めをやめ、守りに徹せよ。人質は戻った。攻め続ける名分は、これで消えた」
陣が、ざわりと揺れました。伝令の烏が三羽、弾かれたように飛び立ちました。ほどなく、尾根のどこかで法螺貝が鳴って、別の尾根がそれに応えて、地面の底の太鼓の音が——あの、山の鳴る音が——一つ、また一つ、間遠になっていきました。
「ありがとうございます」
と、私は言いました。心から言いました。飯綱丸さんは、こちらを向きました。それまでで一番、軍人の顔でした。
「礼を言うな。職務だ。……そして、これも職務だ。約定を破った咎の沙汰は、すでに下りている。処刑の命令書には、天魔様の印が捺してある。軍権は戦を止められるが、あの印は、私には覆せない」
「はい」
「……許してくれ」
その一言だけ、職務の声ではありませんでした。私は、なるべくちゃんと聞こえるように、はい、ともう一度言いました。
処刑台は、邑の広場に組まれました。
組み立ての鑿の音を、私は荷小屋の中で聞いていました。台に上がったのは、昼過ぎです。空は薄曇りで、焦げた匂いは、もうほとんどしませんでした。後ろ手の縄のまま板の上に膝をつくと、広場の縁に、邑の人たちが集まっているのが見えました。草履をくれた人も、味噌を分けてくれた隣の家の人もいました。誰も、こちらを見て笑っていませんでした。それで十分でした。はたてさんが、いちばん後ろの屋根の上に、紫の袖を握りしめて立っていました。
こわくなかった、と書いたら、嘘になるでしょうか。
嘘にならないと思います。本当に、こわくなかったのです。
私はずっと、十円玉のことを考えていました。私に起きる奇跡は、いつも決まっています。宝くじは当たりません。起きるのは、確率がゼロではないけれど、まず起きないはずの、小さなことだけです。処刑が中止になることは、あります。歴史の教科書にも、あります。確率は、ゼロではないのです。
それにもう一つ、あの晩から、考えていたことがありました。もしも私が、この世界に——攫われてでも、脅されてでもなく、ちゃんと——受け入れられたのなら。この世界の理が、私をもう住人だと認めているのなら。
奇跡を、引き起こせるはずなのです。
白狼の人が、私の横に立ちました。抜き身の剣が、薄曇りの光を集めるのが、目の端に見えました。私は目を閉じませんでした。閉じたら、十円玉が倒れる気がしたからです。
剣が、上がりました。
そのとき、広場の空気が、横に裂けました。
スキマではありません。風です。人垣の頭の上を、悲鳴みたいな風が一直線に走って、黒い影が、処刑台の前の地面に、転がるように降り立ちました。
「ちゅ——」
射命丸文さんは、息が続いていませんでした。膝に手をついて、二回、大きくあえいで、それから、片手に握りしめた書状を、頭の上に突き上げました。
「中止ッ! その儀、中止! 天魔様、直々の——御沙汰である!」
広場が、凍りました。検分の天狗が駆け寄って、書状を開いて、印を確かめて、飯綱丸さんのところへ走りました。飯綱丸さんは、印を長いこと見ていました。それから、剣の人に、短くうなずきました。
剣が、鞘に戻りました。縄が、切られました。
なぜ、とは、誰も言いませんでした。文さんは地べたに座り込んだまま、まだ肩で息をしていて、何も説明しませんでした。飯綱丸さんも、印の由来を、一言も口にしませんでした。ただ、書状は本物で、印は本物で、私は生きている——広場にあったのは、それだけでした。
空が、静かになりました。
(第八章・了)