Coolier - 新生・東方創想話

私は如何にして心配するのを止めて幻想郷を愛するようになったか

2026/07/07 01:48:06
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第三章「殉死」


 大事な話は、二学期が始まる前の晩にありました。

 離れの座敷に、お膳も何もなしで、私と、神奈子様と、諏訪子様が座りました。夏の終わりの虫が鳴いていました。神奈子様は、前置きをしませんでした。

 「渡ることにした。社ごと、湖ごとだ」

 どこへ、とは聞きませんでした。そういう場所がこの世のどこかにあるのだと、聞く前から、胸の奥の温かいところが知っていた気がします。代わりに私は、どうして、と聞きました。神奈子様はしばらく黙って、それから、湯呑みの中を見ながら話しました。

 「この国は、いい国になったんだ。飢えない。流行り病で村が一つ消えることも、もうない。雨は、降っても降らなくても、誰も私らに頼まない。人が困らなくなった分だけ、祈りは軽くなった。軽い祈りは、風で飛ぶ」

 「人間はな、早苗。神様がいてほしい、と思っている。同じ頭で、いるはずがない、とも思っている。昔はその二つの間に、畏れという橋が架かっていた。いてほしくて、いるはずがなくて、それでも夜道はこわい——そのこわさの上を、祈りは渡ってきたんだ。今はもう、橋桁も残っていない」

 「行く先は、忘れられたものの行き着く土地だ。結界で囲われた、古い日本の切れ端さ。そこでは妖怪がまだ本物で、神様は——」

 「ちゃんと、こわがってもらえるの」

 と、諏訪子様が続けました。その晩の諏訪子様は、めずらしく、はしゃいでいませんでした。ずっと前から知っていた話を、順番が来たから聞いている、という座り方でした。

 「早苗。お前は、残れ」

 神奈子様は私をまっすぐ見て言いました。

 「向こうへ渡れば、私らは知らない人間の畏れで立てるようになる。お前の中に間借りをする必要は、なくなるんだ。……お前は、普通の女の子に戻れる。学校で嘘の練習をしなくていい。減らないお供えを、朝晩並べなくていい」

 「ついてくれば、こちらのお前は消える。神隠しだ。骨も出ない行方不明だ。学校も、家も、名前も、置いていくことになる。だから、残れ。これが、私らがお前にしてやれる、最後のことだ」

 「さなえには、進路ってやつがあるんでしょ」

 と諏訪子様が言いました。「エンジニア。かみっぺらに書くやつ」

 私は、はい、ともいいえ、とも言えませんでした。その晩は、それで解散になりました。




 それから何日か、私は普通に学校へ行きました。

 二学期の進路調査票が配られました。一学期のは希望調査でしたが、今度のは本物です。保護者の判子の欄があって、三者面談の日程が裏に刷ってあります。隣の席の子は、夏休みのあいだに志望を決めたそうで、シャープペンがすらすら動いていました。

 私は、書けませんでした。

 変な話です。お二人が渡ってしまえば、私の毎日から、隠すことがなくなります。渡り廊下で一人でしゃべっている、と言われることも、カウンセラーのしおりをもらうことも、なくなる。工学部に行って、仕組みが最後までわかっているものを作る人になって、いつか神様のことを、子供のころの思い出話にする——ずっと欲しかった「普通」が、向こうから歩いてくるのです。全部、もらえるのです。

 なのに、書けませんでした。

 湖沿いの道を、自転車を押して帰りながら、私は離れの座敷を想像しました。障子を開けます。夕方で、薄暗くて、畳の上には誰もいません。こたつも、蚊取り線香も、片付いています。私は「ただいま」を言いません。言う相手がいないからです。想像はそれだけで、それだけのことが、湖の底みたいに冷たかった。

 わかってしまったのです。

 私は、お二人の役に立ちたくて一緒にいたのではありませんでした。役目は、あとから来たのです。先にあったのは、もっと単純で、もっとどうしようもないことでした。




 その晩、私は離れに行って、連れて行ってください、と言いました。

 神奈子様は、烈火のごとく怒りました。せっかく、と言いかけて、言葉を切って、それからもう一度、諭す声になりました。お前は向こうでは何の役にも立たない、風祝の勤めはもう要らないのだ、と。私は、はい、と言いました。

 「はい、じゃない。わかっているのか。必要ないんだぞ、お前は」

 「必要とされてないのは、わかりました」

 自分の声が震えているのがわかりましたが、言葉は、思っていたよりするすると出てきました。

 「必要だから行くんじゃ、ないんです。行かなくていい、と言われて、初めてわかったんです。私、行きたいんです。お二人と一緒にいたいんです。理由はそれだけで、それだけしか、ないんです。……ごめんなさい。エンジニアより、そっちなんです」

 長い沈黙がありました。先に動いたのは諏訪子様で、畳を三歩で跳んできて、私のお腹のあたりに頭からぶつかりました。そのまま、ぐりぐりと押しつけて、何も言いませんでした。

 「……馬鹿な子だ」

 神奈子様はそれだけ言いました。叱る声のつもりだったのだと思います。あんまりそう聞こえなかったので、私は謝りませんでした。




 支度は、少ししかありませんでした。

 装束と、櫛と、湯呑みを一つ。向こうへ持っていけるのは、それくらいです。折りたたみの携帯は、机の抽斗にしまいました。充電の切れる日のことを考えて、電源は自分で切りました。その上に、白紙のままの進路調査票を重ねて、抽斗を閉めました。私という人間がこちらの世界に提出するはずだった書類は、あれで全部です。

 夕飯のとき、台所に向かって、いつもより長く、おいしかったです、と言いました。それ以上のことは、しませんでした。できませんでした。上手にお別れをする方法は、神隠しには、ないのです。

 こわくないと言えば、嘘になります。だから一度だけ、理系の私が、私に言い聞かせました。——世界は、いつか全部説明がつくようになる。幻でも、神隠しでも、そういうものの居場所にも、いつか科学は届く。届いたそのときに、私はきっと、見つけてもらえる。

 一度だけ唱えて、胸のいちばん奥の抽斗にしまいました。




 出発は、夜明け前でした。

 湖には霧が出ていました。岸に立つと、水と空の境目がなくて、世界の端が留め具を外したみたいに、ゆるんでいました。振り返ると、町の灯りはもう、霧の向こうでにじんでいました。

 「手を」

 と神奈子様が言いました。右手を神奈子様が、左手を諏訪子様が握りました。二つとも、ちゃんと温かい手でした。

 歩き出すと、湖の面が、ゆるやかな坂道みたいに傾いて見えました。のぼっているのか、くだっているのか、わかりません。足の下で水は水のままで、でも沈まないのです。仕組みは、わかりませんでした。わからないままでいい、とその朝だけは思いました。

 私たちは手をつないだまま、誰にも見送られずに、ゆっくりと、霧の中を歩いていきました。

(第三章・了/第一部「現世」・了)

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