第三章「殉死」
大事な話は、二学期が始まる前の晩にありました。
離れの座敷に、お膳も何もなしで、私と、神奈子様と、諏訪子様が座りました。夏の終わりの虫が鳴いていました。神奈子様は、前置きをしませんでした。
「渡ることにした。社ごと、湖ごとだ」
どこへ、とは聞きませんでした。そういう場所がこの世のどこかにあるのだと、聞く前から、胸の奥の温かいところが知っていた気がします。代わりに私は、どうして、と聞きました。神奈子様はしばらく黙って、それから、湯呑みの中を見ながら話しました。
「この国は、いい国になったんだ。飢えない。流行り病で村が一つ消えることも、もうない。雨は、降っても降らなくても、誰も私らに頼まない。人が困らなくなった分だけ、祈りは軽くなった。軽い祈りは、風で飛ぶ」
「人間はな、早苗。神様がいてほしい、と思っている。同じ頭で、いるはずがない、とも思っている。昔はその二つの間に、畏れという橋が架かっていた。いてほしくて、いるはずがなくて、それでも夜道はこわい——そのこわさの上を、祈りは渡ってきたんだ。今はもう、橋桁も残っていない」
「行く先は、忘れられたものの行き着く土地だ。結界で囲われた、古い日本の切れ端さ。そこでは妖怪がまだ本物で、神様は——」
「ちゃんと、こわがってもらえるの」
と、諏訪子様が続けました。その晩の諏訪子様は、めずらしく、はしゃいでいませんでした。ずっと前から知っていた話を、順番が来たから聞いている、という座り方でした。
「早苗。お前は、残れ」
神奈子様は私をまっすぐ見て言いました。
「向こうへ渡れば、私らは知らない人間の畏れで立てるようになる。お前の中に間借りをする必要は、なくなるんだ。……お前は、普通の女の子に戻れる。学校で嘘の練習をしなくていい。減らないお供えを、朝晩並べなくていい」
「ついてくれば、こちらのお前は消える。神隠しだ。骨も出ない行方不明だ。学校も、家も、名前も、置いていくことになる。だから、残れ。これが、私らがお前にしてやれる、最後のことだ」
「さなえには、進路ってやつがあるんでしょ」
と諏訪子様が言いました。「エンジニア。かみっぺらに書くやつ」
私は、はい、ともいいえ、とも言えませんでした。その晩は、それで解散になりました。
それから何日か、私は普通に学校へ行きました。
二学期の進路調査票が配られました。一学期のは希望調査でしたが、今度のは本物です。保護者の判子の欄があって、三者面談の日程が裏に刷ってあります。隣の席の子は、夏休みのあいだに志望を決めたそうで、シャープペンがすらすら動いていました。
私は、書けませんでした。
変な話です。お二人が渡ってしまえば、私の毎日から、隠すことがなくなります。渡り廊下で一人でしゃべっている、と言われることも、カウンセラーのしおりをもらうことも、なくなる。工学部に行って、仕組みが最後までわかっているものを作る人になって、いつか神様のことを、子供のころの思い出話にする——ずっと欲しかった「普通」が、向こうから歩いてくるのです。全部、もらえるのです。
なのに、書けませんでした。
湖沿いの道を、自転車を押して帰りながら、私は離れの座敷を想像しました。障子を開けます。夕方で、薄暗くて、畳の上には誰もいません。こたつも、蚊取り線香も、片付いています。私は「ただいま」を言いません。言う相手がいないからです。想像はそれだけで、それだけのことが、湖の底みたいに冷たかった。
わかってしまったのです。
私は、お二人の役に立ちたくて一緒にいたのではありませんでした。役目は、あとから来たのです。先にあったのは、もっと単純で、もっとどうしようもないことでした。
その晩、私は離れに行って、連れて行ってください、と言いました。
神奈子様は、烈火のごとく怒りました。せっかく、と言いかけて、言葉を切って、それからもう一度、諭す声になりました。お前は向こうでは何の役にも立たない、風祝の勤めはもう要らないのだ、と。私は、はい、と言いました。
「はい、じゃない。わかっているのか。必要ないんだぞ、お前は」
「必要とされてないのは、わかりました」
自分の声が震えているのがわかりましたが、言葉は、思っていたよりするすると出てきました。
「必要だから行くんじゃ、ないんです。行かなくていい、と言われて、初めてわかったんです。私、行きたいんです。お二人と一緒にいたいんです。理由はそれだけで、それだけしか、ないんです。……ごめんなさい。エンジニアより、そっちなんです」
長い沈黙がありました。先に動いたのは諏訪子様で、畳を三歩で跳んできて、私のお腹のあたりに頭からぶつかりました。そのまま、ぐりぐりと押しつけて、何も言いませんでした。
「……馬鹿な子だ」
神奈子様はそれだけ言いました。叱る声のつもりだったのだと思います。あんまりそう聞こえなかったので、私は謝りませんでした。
支度は、少ししかありませんでした。
装束と、櫛と、湯呑みを一つ。向こうへ持っていけるのは、それくらいです。折りたたみの携帯は、机の抽斗にしまいました。充電の切れる日のことを考えて、電源は自分で切りました。その上に、白紙のままの進路調査票を重ねて、抽斗を閉めました。私という人間がこちらの世界に提出するはずだった書類は、あれで全部です。
夕飯のとき、台所に向かって、いつもより長く、おいしかったです、と言いました。それ以上のことは、しませんでした。できませんでした。上手にお別れをする方法は、神隠しには、ないのです。
こわくないと言えば、嘘になります。だから一度だけ、理系の私が、私に言い聞かせました。——世界は、いつか全部説明がつくようになる。幻でも、神隠しでも、そういうものの居場所にも、いつか科学は届く。届いたそのときに、私はきっと、見つけてもらえる。
一度だけ唱えて、胸のいちばん奥の抽斗にしまいました。
出発は、夜明け前でした。
湖には霧が出ていました。岸に立つと、水と空の境目がなくて、世界の端が留め具を外したみたいに、ゆるんでいました。振り返ると、町の灯りはもう、霧の向こうでにじんでいました。
「手を」
と神奈子様が言いました。右手を神奈子様が、左手を諏訪子様が握りました。二つとも、ちゃんと温かい手でした。
歩き出すと、湖の面が、ゆるやかな坂道みたいに傾いて見えました。のぼっているのか、くだっているのか、わかりません。足の下で水は水のままで、でも沈まないのです。仕組みは、わかりませんでした。わからないままでいい、とその朝だけは思いました。
私たちは手をつないだまま、誰にも見送られずに、ゆっくりと、霧の中を歩いていきました。
(第三章・了/第一部「現世」・了)