結び
天魔様の御座所に、紫様は戸口から入らなかった。
廊下で案内を待つ私の横で、空間が裂けて、紫様はそのまま向こうへ入ってしまわれた。取り次ぎの天狗が青くなったが、誰も咎めはしなかった。咎められる相手ではないからか、あるいは、無礼の勘定はとうに別の帳面でついているからか。私は隣の間に通されて、障子一枚を隔てて控えた。
障子越しに、衣擦れの音がした。それから、畳に手をつく音がした。
私は自分の耳を疑った。あの紫様が、頭を下げている。
「報連相。次からはしっかりしてください」
向こうの声は、そう言った。慇懃で、軽くて、羽のように柔らかい声だった。肩を二度、たたく音が続いた。声は、笑っていた。目は、笑っていない——障子越しでも、それだけは気配でわかった。私は計算の式神である。その私の毛が、計算より先に逆立った。
談判というものは、あの座敷では行われなかったのだと思う。行われたのは、詫びが一つと、受領が一つ。それだけだった。何の詫びで、何の貸し借りなのか、紫様は道々、一言も言われなかった。私も聞かなかった。聞いても、扇の上の目が笑うだけだと知っている。
帰路は、よく晴れていた。
「巫女は東の社に戻りました。山の騒ぎで、里の畏れの実入りは、いくらか持ち直しております。新しい神々の商いも、当面は山の内で収まりましょう。それでも——帳尻は、まだ合いません。式の立て直しが、これで済んだとは、私には思えません。紫様。幻想郷は、これで保つのですか」
紫様は、しばらく黙って歩かれた。土の道を、傘もささずに、スキマも使わずに。
「わからないわ」
それきりだった。
叱られなかったことが、答えの代わりだった。計算の合わないことを、合わないまま懐に入れて歩く——そういう歩き方を、私はこの秋、初めて主人から教わったのかもしれなかった。
傘のいらない、いい日和だった。私は職掌に従い、この日のことをみな帳面に記した。ただ、あの座敷の、畳に手をつく音のことだけは——今度も、書かずにおいた。
(結び・了/本編・了)