第二章「衰弱する神々」
夏のお祭りは、日曜日に繰り上げになりました。平日では人が集まらないから、と氏子の寄り合いで決まったのだそうです。
それでも、集まったのは二十人ほどでした。町内の役員のおじいさんたちと、そのお嫁さんたちと、犬の散歩のついでに寄ってくれた人が少し。露店は出ません。何年か前までは綿あめの屋台が一つだけ来ていたのですが、子供が来ないので、来なくなりました。
私は白い装束を着て、祝詞をあげて、お神酒とお米と、氏子さんの畑の野菜を御前に並べました。なすときゅうりが多いのは、夏だからです。かごの数は、去年より一つ減りました。
式のあいだ、神奈子様は拝殿の奥に座っていらっしゃいました。背筋を伸ばして、目を閉じて、二十人ぶんのまばらな柏手を、とても大事なものみたいに聞いていました。
片付けのとき、神奈子様が小さく歌っているのが聞こえました。古い歌です。ときどき歌っているのですが、言葉は半分も聞き取れません。節は波みたいにゆっくり上がって下がって、終わりのところだけ、「——かみのまにまに」と聞こえました。どういう歌なのですか、といつだったか聞いたら、「お前が生まれるずっと前の歌さ」としか教えてくれませんでした。
祝詞をあげているとき、近ごろ、自分の声の下にもう一つ、声が重なっている感じがします。
説明がむずかしいのですが——合唱で、隣の人の声と自分の声がぴったり合った瞬間、どちらがどちらかわからなくなる、あの感じに似ています。式が終わったあとも、しばらく、胸の奥が火鉢を抱えたみたいに温かいのです。温かさには、なんとなく性格があります。どっしりと重たいのが神奈子様で、ぴょんぴょん跳ねるのが諏訪子様です。
昔は、お祭りの日だけでした。
近ごろは、なんでもない日にもあります。
七月の三者面談の前に、担任の先生と二人だけの面談がありました。成績の話が終わったあと、先生は少しためらってから言いました。
「東風谷、最近、疲れてないか」
「疲れてないです」
「保健の先生がな。おまえが渡り廊下のところで、その、一人で……誰かと話しているみたいだったって」
「携帯です」
と私は言いました。すみません、校内では禁止でしたよね、と付け足して、頭を下げました。先生はほっとした顔になって、水曜にカウンセラーの先生が来ているから、悩みがあったらな、と案内のしおりみたいな言い方をして、面談は終わりました。
嘘は、得意です。正確に言うと、嘘のほうを本当らしく話す練習を、小さいころからずっとしてきました。見えるんです、と正直に言ったことは一度だけあります。ずっと昔のことです。そのとき大人たちの顔がどんなふうになったかを覚えているので、二度は言いませんでした。
夏休みに入ったころ、縁側で諏訪子様と夕涼みをしました。
私はかき氷を食べていました。諏訪子様のぶんも作って、隣に置いてありました。それが溶けて、ただの甘い水になっていくのを、諏訪子様はにこにこして眺めていました。
「さなえのつくるやつ、いいにおいがする」
「召し上がれたらいいのに」
「においで十分。……あのね、さなえ」
諏訪子様は庭の暗がりのほうを見たまま、蚊取り線香の煙を指でつついて言いました。
「神様はね、みんながわすれたら、いなくなっちゃうの」
「……はい」
「けろっとね。いつのまにか。だあれも気づかないうちに」
こわい話をする口調ではありませんでした。かくれんぼのルールを教えてくれるときと同じ声でした。私が何か言うより先に、諏訪子様は「氷、ぜんぶ水になっちゃった」と笑って、話はそれきりになりました。
私は、お供えを増やしました。
おこづかいで買える範囲の、いいお酒の小さい瓶。桃。いただきものの水ようかん。朝と晩、神棚と離れの御前に並べます。お供えしたものは、翌朝も、ひとかけらも欠けずにそこにあります。神様は湯気や香りを召し上がるのだと、小さいころに教わりました。だから、減らなくていいのです。
減らなくていいのですが——香りはぜんぶ差し上げているのに、お二人が少しずつ薄くなっていくのは、どうしてなのでしょう。
薄く、というのは、たとえです。たとえですが、ほかに言いようがないのです。夏の終わりには、明るい昼間だと、諏訪子様の肩ごしに障子の桟がうっすら見える日がありました。私は見なかったことにしました。これは、慣れませんでした。
三人でお膳を囲んでも、箸が動いているのは私だけです。
好きなものを好きなだけ差し上げて、それでも、それは神様の食べものにはならないのです。誰のせいでもありません。誰のせいでもない、というのが、いちばんこたえました。
八月の終わりの夜、台風が来ました。
雨戸がずっと鳴っていて、眠れなくて、私は水を飲みに起きました。廊下の突き当たりの座敷の障子が細く開いていて、神奈子様が、雨戸の隙間から外の暗い空を見ていました。
風の神様ですから、荒れる空を見るのは好きなのだと思います。でも、その夜の横顔は、好きなものを見ている顔ではありませんでした。長い長い割り算が、やっと割り切れたときのような、静かな顔でした。
「神奈子様?」
「起こしたか。なに、風の音を聞いていただけさ」
おやすみ、と言われて、私は布団に戻りました。
翌朝、台風は諏訪を逸れて、空はいやになるくらいの快晴でした。神奈子様は縁側の日なたに、昨夜と同じ姿勢で座っていました。ひと晩じゅう、そのままだったのかもしれません。
「早苗」
と、神奈子様は空を見たまま言いました。
「近いうちに、大事な話がある。諏訪子と、お前にだ」
それだけでした。でも私には、もうわかっていたような気がします。長い割り算が、割り切れてしまったことが。
(第二章・了)