終章「帰還」
湖の社に着いたのは、夕暮れでした。
鳥居の下で、諏訪子様が待っていました。待っていた、というのは正確ではないかもしれません。でも、私が坂を上りきる前に飛びついてこられたのですから、待っていたのだと思うことにします。お腹に頭。ぐりぐり。いつものです。私はもう、よろけない足の置き方を覚えていました。
「よく帰った」
神奈子様は縁側にいて、それだけ言って、大きな手を一度、私の頭に載せました。載せて、すぐに引っ込めて、それから、妙にそわそわと台所の方へ行ってしまいました。
夕食は、びっくりするようなものでした。
囲炉裏に、鍋がかかっていたのです。神奈子様が魚を焼いていました。片面が炭でした。諏訪子様はおにぎりを握ったそうで、お皿の上に、大きさのばらばらな、三角というよりは石垣に近い形のものが五つ、並んでいました。お二人は、召し上がりません。それはこれまでと同じです。ただ、この夜は、私の前にだけお膳があって、お二人が両側から、食べる私をじっと見ているのでした。
「どうだ」
「……おいしいです」
魚は半分炭でした。おにぎりは中の梅干しが全部いっぺんに出てきました。おいしいです、は、それでも嘘ではありませんでした。この家の食卓で、誰かがちゃんとお腹いっぱいになるのは、考えてみれば、初めてのことだったのです。
「そうか」と神奈子様は言って、盃を傾けました。「山の畏れは、悪くない。濃くて、辛口だ」
「さなえ、それでね、あのね」
諏訪子様が、次のおにぎりを私のお膳に積みながら、今日あったことを順番に話し始めました。私は聞きながら食べて、食べながら笑って、途中で一度だけ、泣きそうになったのを、お茶で流しました。誰にも気づかれなかったと思います。気づかれていたかもしれません。
翌朝は、早く目が覚めました。
誰にも言われていないのに、体が勝手に起きるのです。井戸の水で顔を洗って、参道を掃きました。掃くそばから杉の葉が落ちてくるので、切りがありません。切りがないのは、いいことです。息が白くて、箒の音だけがして、湖から朝の霧が上がってきます。
拝殿に上がって、祝詞をあげました。
人質の条はなくなって、取り次ぎの条もなくなって、つまり私の勤めは、講和の紙のどこにも書いてありません。誰にも頼まれていない祝詞でした。あげはじめると、声の下に、あの温かい声がすぐに重なりました。どっしりしたのと、跳ねるのと、両方です。外の世界のときより、ずっと近くで。
祝詞を終えて顔を上げると、湖が霧の下で光っていました。
ふいに、あの冬の朝のことを思い出しました。凍った諏訪湖。せり上がった氷の道。私にだけ見えた、点々と続く、大きなものの渡った跡。あのとき私は手袋の甲で目をこすって、見なかったことにしたのでした。慣れていますと、そういう顔で。
いまは、こすりません。
ここでは、見えたものを、見えました、と言っていいのです。言った先から、はいはい、と返事があるのです。それがどんなに途方もないことか、たぶん、見えなかった人には——見えてしまった人にしか、わからないと思います。
見えることが、そのまま、家になるのでした。
うちには、神様がいます。
ここが、その、うちです。
(終章・了)