Coolier - 新生・東方創想話

私は如何にして心配するのを止めて幻想郷を愛するようになったか

2026/07/07 01:48:06
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終章「帰還」


 湖の社に着いたのは、夕暮れでした。

 鳥居の下で、諏訪子様が待っていました。待っていた、というのは正確ではないかもしれません。でも、私が坂を上りきる前に飛びついてこられたのですから、待っていたのだと思うことにします。お腹に頭。ぐりぐり。いつものです。私はもう、よろけない足の置き方を覚えていました。

 「よく帰った」

 神奈子様は縁側にいて、それだけ言って、大きな手を一度、私の頭に載せました。載せて、すぐに引っ込めて、それから、妙にそわそわと台所の方へ行ってしまいました。

 夕食は、びっくりするようなものでした。

 囲炉裏に、鍋がかかっていたのです。神奈子様が魚を焼いていました。片面が炭でした。諏訪子様はおにぎりを握ったそうで、お皿の上に、大きさのばらばらな、三角というよりは石垣に近い形のものが五つ、並んでいました。お二人は、召し上がりません。それはこれまでと同じです。ただ、この夜は、私の前にだけお膳があって、お二人が両側から、食べる私をじっと見ているのでした。

 「どうだ」

 「……おいしいです」

 魚は半分炭でした。おにぎりは中の梅干しが全部いっぺんに出てきました。おいしいです、は、それでも嘘ではありませんでした。この家の食卓で、誰かがちゃんとお腹いっぱいになるのは、考えてみれば、初めてのことだったのです。

 「そうか」と神奈子様は言って、盃を傾けました。「山の畏れは、悪くない。濃くて、辛口だ」

 「さなえ、それでね、あのね」

 諏訪子様が、次のおにぎりを私のお膳に積みながら、今日あったことを順番に話し始めました。私は聞きながら食べて、食べながら笑って、途中で一度だけ、泣きそうになったのを、お茶で流しました。誰にも気づかれなかったと思います。気づかれていたかもしれません。




 翌朝は、早く目が覚めました。

 誰にも言われていないのに、体が勝手に起きるのです。井戸の水で顔を洗って、参道を掃きました。掃くそばから杉の葉が落ちてくるので、切りがありません。切りがないのは、いいことです。息が白くて、箒の音だけがして、湖から朝の霧が上がってきます。

 拝殿に上がって、祝詞をあげました。

 人質の条はなくなって、取り次ぎの条もなくなって、つまり私の勤めは、講和の紙のどこにも書いてありません。誰にも頼まれていない祝詞でした。あげはじめると、声の下に、あの温かい声がすぐに重なりました。どっしりしたのと、跳ねるのと、両方です。外の世界のときより、ずっと近くで。




 祝詞を終えて顔を上げると、湖が霧の下で光っていました。

 ふいに、あの冬の朝のことを思い出しました。凍った諏訪湖。せり上がった氷の道。私にだけ見えた、点々と続く、大きなものの渡った跡。あのとき私は手袋の甲で目をこすって、見なかったことにしたのでした。慣れていますと、そういう顔で。

 いまは、こすりません。

 ここでは、見えたものを、見えました、と言っていいのです。言った先から、はいはい、と返事があるのです。それがどんなに途方もないことか、たぶん、見えなかった人には——見えてしまった人にしか、わからないと思います。

 見えることが、そのまま、家になるのでした。

 うちには、神様がいます。

 ここが、その、うちです。

(終章・了)

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