Coolier - 新生・東方創想話

私は如何にして心配するのを止めて幻想郷を愛するようになったか

2026/07/07 01:48:06
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第九章「白紙講和」


 講和の座は、御柱の下に設けられました。

 こちらは神奈子様と諏訪子様と、末席に私。あちらは飯綱丸さんと、書記の烏天狗と、白狼の護衛が二人。天魔様は、来ませんでした。誰もそれを不思議がらないので、そういうものなのだと思いました。

 条々は、あっけないものでした。人質は、なし。信仰の取り次ぎも、なし。償いも、双方なし。山の境も、社の湖も、戦の前のまま。書記の人が読み上げる条文は、どれもこれも「なし」と「元のまま」でできていて、まるで、戦争そのものを白い紙で包んで、なかったことにして返すみたいでした。

 「……これでは、うちが山に居座るだけ得ではないか。魂胆は何だ」

 と神奈子様が聞いたくらいです。飯綱丸さんは、書き付けから顔も上げませんでした。

 「私は職務を果たすだけだ。条々の思し召しは、山の上に聞いてもらうしかない。……聞けるものならな」

 あとで知ったのですが、あの戦争では、死んだ者が一人もいなかったのだそうです。砦が二つ流されて、怪我人は出て、それでも、死者はゼロ。開戦から矛を収めるまで、一日と少し。花果子念報は「山の一日戦争、白紙で終わる」という見出しを打って、その号だけは文々。新聞に部数で勝った、と、これは文さんが悔しそうに言っていました。

 帰り際、神奈子様が独り言のように言いました。

 「取り次ぎなしなら、信仰は自前で稼ぐまでさ。里への出店、河童への貸し、やりようはいくらでもある。——なに、面白くなってきた」

 諏訪子様は私の隣で、にやにやしながら聞いていました。私はまだ知りませんでした。この「やりよう」が後にどんな騒ぎになるのかは、また別のお話です。




 邑の家の荷物は、風呂敷一つでした。来たときと同じです。

 人質の条がなくなったので、私は湖の社に戻ります。そして、もう一人の同居人も、その朝、荷物をまとめていました。といっても、霊夢さんの荷物は、私よりさらに少なくて、お祓い棒が一本と、着替えの包みだけでした。

 「帰るんですね」

 「……ん」

 霊夢さんは、東の方の空を見ました。それから、なんでもないことみたいに言いました。

 「歩いて帰るわ。遠いのよね、歩くと。三日はかかる」

 「飛ばないんですか」

 「飛ぶのは、やめてるの。しばらく」

 やめてる、という言い方を、私は変だと思いませんでした。思わなかったことにしました。その代わり、前の晩からずっと考えていたことを、実行しました。

 私は霊夢さんの正面に立って、風祝の、いちばんちゃんとした姿勢を取りました。祝詞をあげるときの姿勢です。霊夢さんが、何よ、という顔をしました。

 「霊夢さん。ご報告があります。実は私、処刑台で、奇跡を一つ、余らせたんです」

 「……はあ?」

 「中止の書状は、天魔様が出してくれました。私の奇跡の出番が、なくなっちゃったんです。奇跡は生ものですから、取っておけません。だから、あなたにあげました。ゆうべのうちに、こっそり」

 私は、息を吸って、言い切りました。

 「私が、奇跡を起こしました。あなたはもう、空を飛べます」

 嘘です。

 私はゆうべ、何もしていません。祝詞ひとつ、あげていません。生まれてから今日までで、いちばん堂々とついた嘘でした。だから絶対に、目をそらしませんでした。十円玉が立つあいだは、まばたきをしてはいけないのです。

 霊夢さんは、長いこと私を見ていました。呆れた顔から、何かを探す顔になって、最後は、どの顔でもなくなりました。それから、ふいと横を向きました。

 「……そう。なら、早く着くわね」

 「はい」

 「掃除もしなきゃだし。きっと荒れてるわ」

 「はい。……たぶん、すごく」

 「あんたのせいじゃないでしょ、それは」

 霊夢さんは、ふん、と鼻を鳴らして、包みを背負いました。戸口を出て、二歩歩いて、立ち止まって、振り向かずに言いました。

 「じゃあね。……あんたとは、次、どこで会うのかしらね」

 その問いに答える言葉を、私は自分で考えたつもりでした。でも口から出てきたのは、考えた文章より、ずっと座りのいい形をしていました。

 「巫女が二人。幻想郷は一つ。また会うことになるわ。その時には、博麗の巫女に会いに行く。あるいは、博麗の巫女に、成りに行く。そのときが、はじめましてよ」

 霊夢さんは、振り向きました。

 目を丸くして、それから——この山に来てから見たなかで、初めて、ちゃんと笑いました。

 「言うようになったじゃない。……いいわ。はじめまして、ね。約束」

 「約束です」

 「せいぜい修行しなさい、二人目」

 霊夢さんは言い捨てて、庭先の真ん中まで歩いて、空を見上げて——飛びました。

 助走も、ためらいも、ありませんでした。赤いリボンが一度だけ大きく翻って、体はもう杉のてっぺんの上にいて、そこから東へ、一直線でした。きれいでした。私よりずっと上手でした。伝令の烏天狗が追い抜かれて、二度見をして、道を譲りました。小さくなっていく赤い点を、私は見えなくなるまで見送りました。目は、そらしませんでした。最後まで、まばたきもしませんでした。

 隣に、ふわりと文さんが降りてきました。

 文さんはしばらく黙って、私と同じ東の空を見ていました。それから、帳面をぱたんと閉じて、言いました。

 「……ま、いい記事にはならないですね、これは」

 「書かないんですか」

 「書きません。うちは事実しか載せない新聞なので。——奇跡の勘定なんて、裏の取りようがありませんから」

 文さんの目は、まだ東の空を見ていました。私も、もう一度だけ、見ました。空は高くて、秋の始まりの色をしていて、赤い点は、もうどこにもありませんでした。

(第九章・了/第二部「幻想郷」・了)

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