第一部「現世」
第一章「御神渡り」
その年の冬、諏訪湖は全部凍りました。
朝のニュースで「御神渡りが確認されました」と言っていたので、私は登校前に、自転車で湖まで回り道をしました。堤防の上はよく晴れて、風が耳を切るように冷たくて、湖は白い平らな野原みたいになっていました。その真ん中を、大きな亀裂がひとすじ、対岸までせり上がりながら走っていました。
テレビでは気象台の人が説明していました。氷が昼にゆるんで、夜に締まって、伸びたり縮んだりを繰り返すうちに、ある朝、耐えきれなくなった氷が音を立てて割れて、盛り上がる。それが御神渡りです、と。土地の言い伝えでは、神様が湖を渡った跡ということになっています。
科学の説明は、きれいだと思います。私は理系クラスですし、ああいう説明を聞くと、世界がちゃんと計算どおりに動いていることに、ほっとします。膨張と収縮。応力と破断。全部、教科書の中に入っている言葉です。
ただ。
堤防に立ってその亀裂を見たとき、私にはそれが、渡った跡に見えました。
うまく言えません。亀裂は亀裂です。でも、雪をかぶった氷の上に、亀裂とは別に、点々と、何か大きなものが歩いたようなへこみが——まっすぐ対岸まで——続いているように見えたのです。隣で写真を撮っていたおじさんは、亀裂にしかレンズを向けていませんでした。誰も騒いでいませんでしたから、きっと、誰にも見えていなかったのだと思います。
こういうとき、私は手袋の甲で目をこすって、見なかったことにします。
慣れています。
学校に着くと、ホームルームで進路希望の調査票が配られました。「2007年度 進路希望調査」と上に印刷された、薄いわら半紙のプリントです。第一志望、第二志望。国公立か私立か。将来就きたい職業。
私は理系で、行きたい方向も決まっています。工学部です。機械とか、電気とか、プログラムとか——仕組みが最後までちゃんとわかっているものを、作る側の人になりたいのです。職業の欄には「エンジニア」と書けます。書ける欄が、ちゃんと用意されているのです。世の中に必要だと認められた仕事は、ぜんぶあの小さな枠の中に入ります。
「風祝」と書ける欄は、ありません。
風祝というのは、うちの神社で、神様のお世話をする役目の名前です。ずっとずっと昔から一人ずつ受け継がれてきた役目で、いまは私の番です。でも、それは調査票に書く種類のことではないのです。誰にも聞かれたことがないので、誰にも話したことがありません。
「早苗、決まってていいなあ」
隣の席の子が、私の欄をのぞいて言いました。その子の紙はまだ白くて、シャープペンの先が第一志望の枠の上で止まったまま、小さく円を描いていました。
「決まってるところしか、書いてないよ」
と私は言いました。嘘ではありません。
放課後は塾でした。冬期講習の続きの、数学と英語です。窓の外が暗くなって、蛍光灯に照らされた問題集の紙が黄色っぽく見えてくると、一日がちゃんと終わりに近づいている感じがします。
帰り際、ポケットの中で折りたたみの携帯が震えました。隣の席の子からで、「志望どこにした?」とだけ書いてあるメールでした。返事は明日でいいや、と思って、ぱたんと閉じました。
その帰り道に、私のちょっと変な特技の話をします。
私は、くじ運がいいのです。というより——偶然が、ときどき私の側に立ってくれるのです。
その日は、コンビニで肉まんを買って帰るかどうかを決めるのに、十円玉を投げました。表なら買う、裏ならまっすぐ帰る。手の甲で受けそこねた十円玉は歩道に落ちて、転がって、アスファルトのひび割れのところで——立ちました。
縁で、まっすぐに。
私はしゃがんで、立っている十円玉をしばらく見てから、つまんで財布に戻しました。あたりは暗くて、通りには誰もいませんでした。
昔からです。あみだくじで変なところにだけ線が繋がるとか、雨の予報の遠足の日、私の学年の出発の時間だけ雲が切れるとか。宝くじが当たるような、大きくて便利なことは起きません。起きるのはいつも、十円玉が立つような——確率がゼロではないけれど、まず起きないはずの、小さなことばかりです。
どちらでもないなら、答えられません、と言われたような気がして、肉まんは買わずに帰りました。
家に帰ると、玄関まで夕飯の匂いがしていました。台所で誰かが鍋を鳴らしています。私は「ただいま」とだけ言って、鞄を置いて、廊下のいちばん奥の、神棚のある座敷に顔を出しました。
「さなえ、おかえり!」
諏訪子様が畳の上に寝そべったまま、首だけこちらに向けました。その向こうで神奈子様が、背筋を伸ばして座って、湯呑みを持っています。座敷はもう薄暗いのに、お二人のいるあたりだけ、なんとなく輪郭がはっきりして見えます。昔からそうです。
「見た? 湖」
と諏訪子様が言いました。
「見ました。御神渡り、今年は出たって」
「ふうん」
諏訪子様はにやにやして、それきり何も言いませんでした。私は少し迷ってから、聞いてみました。
「渡ったんですか? 諏訪子様が」
「さあ。どうだったかなあ」
「湖が凍るのは、いい冬だ」
神奈子様はそれだけ言って、湯呑みを傾けました。いい冬、の「いい」がどういう意味なのか、私にはわかりませんでしたが、聞き返す前に、台所から私を呼ぶ声がしました。
「はあい」
と返事をして、私は座敷の障子を閉めました。お二人は夕飯には来ません。来たことがありません。それもまた、昔からです。
うちには、神様がいます。
ただそれだけの、いつもの夕方でした。
(第一章・了)