第二章「太陽の給電」
お空が霊烏路空という自分の名前をぜんぶ思い出すには、すこし時間がかかる。でも、太陽のことなら、いつでもすぐに思い出せる。おなかのなかに、いつも入っているからだ。
「おくうー」
うしろから急に呼ばれて、お空は跳びあがった。
「うにゅ!?」
ふりむくと、こいし様がいた。こいし様はいつも、いつのまにか、いる。
「おねがいがあるの。わたしのともだちがね、おなかがぺこぺこなの。ごはん、あげてほしいの」
「ごはん?」
「うん。——お日さま、なんこぶん、も」
お空は、はねをふくらませた。むずかしい話はわからないが、いまのは、わかった。おなかをすかせた子に、ごはんをあげる。それも、お日さまのごはんを。そんなの、地底でお空にしかできない仕事だ。
「まかせて!」
連れていかれたのは、お屋敷のそとの岩場だった。
岩に、青い蝶々がとまっていた。おおきくて、翅のふちがすきとおっていて、なんだか、こわれかけの硝子細工みたいだった。
「はじめまして。お空さん」
蝶々が、ていねいにあいさつをした。お空も、あわてて頭をさげた。名前をよばれると、うれしい。
「あんた、なんで、私の名前しってるの」
「こいしさんから、いつも聞いています。お日さまをたべた、つよくてやさしい鳥のかたが、おうちにいるって」
つよくて、やさしい。お空は、はねをもういちど、ふくらませた。
それから、ふと思った。この岩場、来たことがある気がする。この蝶々も、見たことがある気がする。ずっとまえに、お姉さまが、なにか言ってなかったっけ。ちかづくな、だっけ。はなしかけるな、だっけ。それとも、べつのなにかだっけ——
「……ねえ、こいし様。私、なんか、わすれてる気がするわ」
「わすれたなら」と、こいし様はにこにこ言った。「たいしたことないんじゃない?」
「そっか!」
だいじなことなら、おぼえているはずだもんね。
その頃、旧地獄街道を下る灯りが一つあった。箒の柄には八卦炉、肩には空の袋。鼻歌は地底の岩に吸い込まれて、誰の耳にも届かなかった。
「それで、ごはんって、なにをあげればいいの? 私、木の実とかもってないわよ」
「お空の、なかのやつでいいの」と、こいし様が言った。
「なかのやつ」
「あの、あったかいやつ。どーんってやつ」
お空は、蝶々を見た。蝶々は、すこしだまってから、しずかに言った。
「……はい。それを、いただけるのなら」
「ほんとに? あれ、あついよ? だいじょうぶ?」
「はい。——わたしは、はんぶん、お日さまでできていますから」
お空は、目をまるくした。
「あんた、太陽、しってるの」
「はい。よく、しっています。とおいところで、わたしはお日さまのちからで、はたらいていました。ですから——なつかしい味が、すると思います」
太陽をしっている子に、地底ではじめて会った。お空はもう、この蝶々がすっかり好きになっていた。
お空は制御棒の腕をかまえて、それから、いちばんじょうずにできるやりかたで、ちいさく、ちいさく、あたたかいのを送った。
地の底に、あさが来たみたいだった。
岩場がぜんぶ、だいだい色にそまって、蝶々の翅が、光をのんで、すきとおっていく。のむたびに、すきとおっていく。こわれかけの硝子細工だと思っていたのは、まちがいだった。硝子細工に、なっていくところだった。
「おいしい?」
「はい」と、蝶々は言った。「とても」
それから、ながい時間、お空はごはんをあげつづけた。こいし様は岩にすわって、鼻歌をうたっていた。蝶々はときどき、お空の加減がじょうずだとほめてくれた。ほめられると、お空はもっとじょうずになった。
「私ね」と、お空は手をうごかしながら言った。「だいじなこと、すーぐわすれちゃうの。じぶんの名前も、ときどきまちがえるし」
「そうですか」と、蝶々はやさしい声で言った。「では、わたしが、おぼえておきます」
「なにを?」
「きょうのことを。ぜんぶ。——わたしは、わすれられないので」
わすれられない、って、へんな言いかただな、とお空は思った。わすれない、じゃなくて。
でも、つぎの瞬間には、そう思ったことをわすれた。
街道の灯りは、もう旧都を抜けていた。橋の袂で一度止まり、袋の口を開けて、中身を数える仕草をした。まだ空だった。だから、急いだ。
どれくらいたったか、蝶々が、いままででいちばんしずかな声で言った。
「お空さん。ありがとうございました。……もう、じゅうぶんです」
お空が腕をおろすと、岩場は、すうっと、もとの暗がりにもどった。
蝶々の翅は、もう、ほとんどぜんぶ、すきとおっていた。青は、ふちのほうに、なごりみたいにのこっているだけだった。
そのまんなかを走る筋に——はじめて、赤がさしていた。
お空の火の、うつりこみかもしれなかった。そうじゃないのかも、しれなかった。
「きれいだね」と、こいし様が言った。
「はい」と、蝶々が言った。「そんな気が、します」
帰り道、お空はうきうきしていた。いいことをした日は、はねが軽い。なにかだいじなことをわすれている気もしたけれど、それも、はねが軽いから、どうでもよかった。
地の底の暗がりの、ずっと向こうで。
箒の灯りが、岩場のほうへ、真っ直ぐ降りていった。
(第二章・了)