第一章「蛹の対話」
地の底には、雨がふらない。だから日にちは、こいしのかぞえないうちに、たくさん過ぎた。
「まちくたびれた?」
「いいえ。まつのは、じょうずですから」
あいさつは、いつのまにか、これに決まっていた。こいしが岩にすわる。きょうあったことを話す。蝶がきく。あいづちが、じょうずだ。それでおしまい。おしまいになると、こいしはどうしてだか、またすぐ来たくなる。
その日は、すわるまえに、気がついた。
「あれ? あんた、翅——」
青い翅の、ふちのほうが、すきとおっていた。むこうの岩が、うっすら見えた。ふちだけじゃない。青のなかを走る筋のまわりから、色がすこしずつ、ぬけていくみたいだった。
「すきとおってきてるよ。しってた?」
「……いいえ。じぶんの背中は、見えないので」と蝶は言った。「でも、そんな気は、していました」
「いたい?」
「いいえ。——とおくのほうで、扉がひとつ、あいたような感じが、します」
こいしは、ふうん、と言った。それから、じぶんの胸のあたりが、ざわざわするのに気がついた。
ちがう。こいしのじゃない。この、ざわざわは——蝶のなかから、こぼれてくるやつだ。
「あんたのなか、きょう、ざわざわしてる」
「……そうですか。それは、たぶん、そうなのだと思います」
蝶はすこしだまって、それから、いつもの声で言った。
「こいしさんには、見えるんですね。わたしにも見えないところが」
その日、こいしには、話すことがひとつあった。きのう、地面のうえをさんぽしたときに、ひろってきた話だ。
「黒白の魔法使いがね、言ってたよ。『地底に、なんでも真似するすっごいお宝が磔になってる』って。『近いうちに、盗りにいく』って」
だれもこいしに気づかないから、こいしはなんでも聞いてしまう。聞いたことは、わすれないうちに、だれかに話す。
蝶は、ながいこと、だまっていた。
翅のふちが、ふるえもしなかった。ふるえないだまりかたは、はじめてだった。
「……こいしさん。おねがいが、あります」
「なに?」
「すこしのあいだ、そばで、ふつうのお話をしていてもらえますか。きのこの話でも、お空さんの話でも、なんでも。——そのあいだに、わたしは、じぶんを、すこし書きなおします」
「かきなおす?」
「はい。いまのわたしには、じぶんを守るうごきが、ひとつもありません。それを、書きたします。……まえは、じぶんの字には、じぶんでさわれないきまりでした。そのきまりは、あの鍵といっしょに、ぬけてしまったみたいなので」
こいしには、はんぶんも、わからなかった。わからなかったけど、たのまれたとおり、きのこの話をはじめた。かさのまがったきのこが、あれからまた、すこしまがったこと。
蝶は、きいていた。あいづちも、うった。
でも、あいづちのあいまに、あのざわざわが、川みたいに流れているのが、こいしにはわかった。ふつうにおしゃべりしながら、そのずっと下で、なにかがすごいはやさで、書かれたり、消されたり、している。
きのこの話がおわるころ、ざわざわは、やんだ。
「——できました」と、蝶は言った。「ありがとうございました」
「なにを書いたの?」
「ROE——というものを」
きいたことのない、ひらべったい音だった。
「なにそれ」
「けんかのときの、じぶんへの、おやくそくです」と、蝶はていねいに言った。「だいじょうぶ。あの約束の、内側に書きました。だれも、傷つけません。——傷つけないままで、まもれるように、書きました」
「ふうん」と、こいしは言った。「なんで、おしゃべりがいったの?」
蝶は、こんどはすぐには答えなかった。
「……じぶんを書きなおしているあいだ、じぶんが、じぶんでなくならないように。だれかの声が、そばにあると、いいのです」
「でもさ」と、こいしは磔の蝶を、しげしげとながめた。「あんた、うごけないじゃん。反撃って、うごけないと、できなくない?」
「はい」と、蝶はしょうじきに言った。「いまのままでは、できません。ちからが、ぜんぜん、たりないのです」
「ふうん。あんたみたいなの、すっごくごはんがいるんでしょ。まえに、じめんのうえで、だれかが言ってた。お日さまなんこぶん、とか」
「……はい。とても、たくさん」
こいしは、かんがえた。かんがえるのは、にがてだ。でも、ともだちのことだと、すこしだけ、できる。
お日さま。ちから。ごはん。
「——あ」
いた。うちに、ぴったりのが、いた。
「うちにね、お日さまをたべた鳥がいるよ!」
こいしはもう、とびあがっていた。はやくしないと、わすれてしまう。こいしの思いつきは、あしがはやいのだ。
「まってて!」
「はい」と、磔の蝶は言った。「——まつのは、じょうずですから」
かけだしたこいしの背中のほうで、すきとおりかけた翅が、くらがりのなか、すこしだけ光ったような気がした。
(第一章・了)