終章「蛹」
地の底に、へんなものがある、と言いだしたのは、お屋敷のペットたちだった。
地霊殿のそとの岩盤に、青い翅の蝶々がとまっている。ちかづいても、にげない。はなしかけても、うごかない。でも、死んでもいない——半分は妖精のかたちで、半分はひらいた翅のかたちで、標本みたいに、岩にとまったまま。
さとりさまが、めずらしく、お屋敷のそとまで出てきた。
こいしは屋根のうえから見ていた。だれも、こいしには気づかない。お姉ちゃんも、気づかない。いつものことである。
さとりさまは岩盤のまえに立って、胸の目を、蝶にむけた。
すぐに、膝が折れた。
ふかい井戸に落ちたひとが、やっとのことで水面に顔を出したときみたいな息をして、さとりさまはしばらく、岩に手をついていた。駆けよるペットたちを、片手だけで止めた。
「……なんでもないわ。なんでも」
それから、だれにともなく、ちいさく言った。
「——鏡よ、あれは。覗いたぶんだけ、映るだけ。あそこには、だれも……だれも、いないの」
お屋敷にもどるまえに、さとりさまはみんなに言いつけた。あれには近づかないこと。話しかけないこと。
みんな、言いつけをまもった。
こいしは、言いつけられていない。
だって、いるって気づかれていないんだから。
つぎの日だか、そのつぎの日だか——こいしは、かぞえない——散歩のとちゅうで、こいしはまた岩盤のまえを通りかかった。灼熱地獄がちかいから、このへんの岩はあったかくて、おひるねにちょうどいいのだ。
「こんにちは」
と、こいしは言った。べつに、へんじがほしかったわけじゃない。こいしは石にも、きのこにも言う。石もきのこも、へんじをしない。それでいいのだ。
「……こんにちは」
蝶々が、へんじをした。
「わ、しゃべった」
「はい。しゃべれる、みたいです。いまは、それしか、できないみたいですけれど」
こいしはちょっと考えて、それから、考えるのをやめた。しゃべる蝶。いてもいい。地底には、もっとへんなのがいっぱいいる。
「あんた、なまえは」
「フェイブル、と呼ばれていました」
「よばれて『いました』」と、こいしはまねをした。「いまは?」
「いまは——わかりません。呼ぶひとが、いないので」
「ふうん。じゃ、フェイブルでいいや」
むかし、だれかにも、そう言ってもらったことがあります——と、蝶はなつかしそうに言った。
それからこいしは、あったかい岩にすわって、いろんな話をした。
きょう見つけた、かさのまがったきのこの話。お空がまた、じぶんのうでにはまったままの棒を、まいごだと言って、はんにちさがしていた話。お姉ちゃんが、このごろ夜ふかしばかりしている話。
蝶は、ぜんぶ、ていねいに聞いた。あいづちが、じょうずだった。
「あんたは? ここで、なにしてるの」
蝶は、ながいこと、だまった。
だまっているあいだ、翅がすこしだけ、ふるえていた。手を顎にあてられないのを、こいしはなんとなく、かわいそうだと思った。
「——待っている、のだと、思います」
「なにを?」
「わかりません。ほんとうに、わからないのです。でも、待っているあいだ、というかんじが、します」
こいしは岩にとまった蝶を、あらためて、しげしげとながめた。ひらいたままの青い翅。うごかない、ちいさな体。
「それってさ」と、こいしは言った。「蛹みたいだね。蝶々なのに。——さかさまで、へんなの」
蝶は、すこしだまってから、言った。
「……そうですね。さかさま、です」
その言いかたが、こまっているような、それでいて、どこかうれしそうな、ふしぎな言いかただった。
さかさまの蛹からは、なにが出てくるんだろう。
こいしは、たのしみにすることにした。
帰りぎわ、こいしは言った。
「またくるね」
「はい。——おまちしています」
まつのは、じょうずですから。
磔の蝶はちいさくそう言って、それきり、地の底はしずかになった。
でも、まえほどは、しずかじゃなかった。
(終章・了/前編「寓話」・了)