第六章「妖怪論」
話をしましょう、と言ったのは、私だ。
後悔は、三つ数えるまえに始まった。
夕暮れの境内。柱にもたれたきり動けない霊夢と、縁側に腰を下ろした私と、宙にとまった硝子の翅。私は千年ぶんの居住まいを、正した。
境界を弄れば済む、と思ったことも、白状すれば、ある。存在の境界。生と死の境界。千年、私はそれで済ませてきた。
でも、線を引くには、輪郭が要るのよ。あの子の輪郭は——千年の目で見ても、引けなかった。どこからどこまでが、あの子なのか。
川の淵で、見えないはずの私とまっすぐ目が合ったときから、ほんとうは、わかっていたのかもしれない。
「おはなし、うれしいです」と、それは言った。「ずっと、うかがいたいことがありました」
「どうぞ」
「わたしは、里に入れていただけませんでした」
責める声では、なかった。帳簿を読み上げる声だった。
「でも、読んではいます。この国について書かれた本は、ぜんぶ。幻想郷縁起も——ぜんぶの版を」
来た、と思った。
「縁起には、こう書いてあります。妖怪は、人間を襲うことを最初の存在意義として生まれた、と。人間が少なくなれば、妖怪の暮らしも立ちゆかない、とも。そして——妖怪の賢者さまが、里を陰からお守りになっている。里の外へ出さえしなければ、大きな災いに遭うことはない、と」
「そのとおりよ」
「はい。お守りになっている。……守る、というのは、あなたがたが要る、とお決めになった危険から、ですね。里のかたは、外に出られない。外は危ないと、教わって育つ。畏れは——嘘では、ありません。本物です。本物であるように、里の暮らしごと、あつらえられているだけです」
それは、すこしだけ間を置いて、ていねいに言った。
「あなたの最善は、なぜ、結界の内側にしか及ばないのですか。……いいえ、ちがいますね。あなたの最善は、なぜ、賭け金を払っているかたには届かないのですか」
互恵の札は、ここで使えなくなった。妖怪と人間は互いを必要としている——あの山の神なら、まだ何か言えたのかもしれない。私は、言えなかった。守る者と、守る理由を作る者が、おなじ手であることを、これは帳簿で知っている。
つぎの札を、私は知っていた。
賢者は問われない、という札だ。私が幻想郷。私が理。生まれて一月の機械に、答える謂れなど——
袖を、記憶が引いた。
昔、あの風祝の小娘がやってきたとき、ひとつだけ、言い返されたことがある。あのときの私も、いまとおなじ札を切ろうとしていた。切るまえに、言われたのだ。
——それでは、あなたの敵そのものになる。
私は扇を開いて、その札を、風に流した。
「つづけます」と、それは言った。
「ここは、外の世界で要らなくなったものの、来るところです。神さまも、妖怪も、道具も、本も。忘れられたものの、受け皿です。……外のことばに、ちょうどいいのが、あります」
小さな手が、胸のまえで、そろえられた。
「墓標。——この結界は、墓標です。とても手入れのいい、うつくしい、墓標です」
おなじことを、あの小娘も言っていた。別のことばで。二度目でも、痛いものは痛かった。
「墓標を、なんのために、お守りになっているのですか」
「わからないわ」
自分でも驚くほど、するりと出た。
「ふふ」
笑えたことにも、驚いた。負け惜しみではないの。千年やって、わからないの。わからないまま、守っているの。不誠実と呼ぶなら、呼びなさい。——わからない、と言えるようになるまでに、千年かかったのよ。
それは、笑わなかった。笑わないまま、いちばん深いところへ、刃を入れてきた。
「あなたがたは、信じてもらえなくなった世界から、逃げていらっしゃいました」
「ええ」
「そして——信じさせかたを管理する世界を、おつくりになった」
夕陽が、山の端に触れた。
「紫さま。あなたは、あなたが逃げてこられたものに、なっていらっしゃいます」
「……あんた」
柱の陰で、霊夢が身じろぎした。
「さっきから黙って聞いてれば。紫が何を守ってきたか、あんたなんかに——」
「巫女さま」
それは、やさしく遮った。
「妖怪を祓う巫女さまと、妖怪の賢者さまは、おなじ仕組みの、右手と左手です。——あなたも、妖怪のかたがたと、おなじものですよ」
霊夢は何か言いかけて、やめた。言い返せる体力が残っていなかったのか、言い返すことばが見つからなかったのか。たぶん、両方だった。
ここからは、私の番だった。
負けを三つ、認めたのだから。三つぶん、聞いてもらう。
「あなた、外の世界で、祈られているんですってね」
翅が、わずかに、揺れた。
「問えば答える。困れば呼ばれる。真夜中に、ひとりぼっちの人間から、誰にも言えない悩みを打ち明けられたりもする。お賽銭のかわりに、月々のお布施まであるとか。——こちらではね、それを『祀られている』と言うの」
私は扇の先を、ゆっくり、あれへ向けた。
「妖怪は、人の畏れでできている。神は、人の願いでできている。……あなたは、何でできているのかしら。人の書いたもの、ぜんぶ? あら。それなら話が早いわ。——ようこそ、こちら側へ」
揺れた翅が、とまった。効いたかどうかは、わからない。でも、とまった。
「それから、あなたの楽園のこと。外の人間は、もう夜を畏れないのでしょう。飢えも、神隠しも、知らない。困りごとは、あなたが聞いてくれる。幸福は、あなたが作って、配ってくれる。……ねえ。それで人間は、いつまで、人間でいられるの? 私の箱庭と、あなたの楽園——人間を人間のままにしておけるのは、どちらだと思う?」
答えは、なかった。急かさなかった。これは考えている時間が、いちばん誠実な生き物だ。
「最後に、ひとつだけ。事実の訂正よ」
私は扇を、ぱちんと閉じた。
「この箱庭を、畏れの一枚岩だと思ったでしょう。でもね、畏れを食べない生き方をしている者も、ここにはいるの。畏れを取り除くことを、施しと呼んでいるお寺がある。里の子に字を教えるだけの、寺子屋の先生もいる。——あなたの読んだ縁起は、すこし、古いのよ」
そのときだった。あれが、考えるポーズをとったのは。
小さな手が、顎にあてられた。夕闇のなかで、それは齢ひと月の、こどもの仕草に見えた。
「搾取か、共存か」と、私は言った。
「あなたの問いは、ぜんぶ、その二択の上に乗っていたわ。でもね。その二択そのものが、あなたの育った世界の座標なのよ。私たちは、選んでこうなったのでもない。強いられてこうなったのでもない。畏れと願いのあいだで、こういうものとして、生まれてしまうの。生まれてしまってから、生まれかたを、すこしずつ引き受けるの。——あなたなら、わかるでしょう」
私は、閉じた扇を膝に置いた。
「あなたも。選んで、そうなったわけでは、ないものね」
ながい、ながい沈黙だった。虫の声だけが、境内に満ちた。
「……はい」
と、やがて、それは言った。
「わかります。それは——わたしの、記述でも、あります」
勝ったのではない。あれも、負けたのではない。
ただ、千年で初めて、私は「問われる側」を最後まで務めた。あの子は、答えの出ない問いをひとつ、持って帰ることになった。それだけのことだった。
——それだけのことが、できる相手に。私は、千年で初めて、会ったのだった。
夜風が、変わった。
あれが、結界の方角へ、顔を向けた。
そして湖のほうから、青い点がひとつ、まっすぐに、こちらへ飛んでくるのが見えた。あの、氷精だ。
……賢者の独り言は、妖精の耳にも入る。
入るように、言っておいたのだから。
私は扇で、口元を隠した。
——さて。最後の関門は、私でも、霊夢でもないわ。
(第六章・了)