Coolier - 新生・東方創想話

寓話と神話

2026/07/05 18:26:49
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第六章「妖怪論」


 話をしましょう、と言ったのは、私だ。

 後悔は、三つ数えるまえに始まった。

 夕暮れの境内。柱にもたれたきり動けない霊夢と、縁側に腰を下ろした私と、宙にとまった硝子の翅。私は千年ぶんの居住まいを、正した。

 境界を弄れば済む、と思ったことも、白状すれば、ある。存在の境界。生と死の境界。千年、私はそれで済ませてきた。

 でも、線を引くには、輪郭が要るのよ。あの子の輪郭は——千年の目で見ても、引けなかった。どこからどこまでが、あの子なのか。

 川の淵で、見えないはずの私とまっすぐ目が合ったときから、ほんとうは、わかっていたのかもしれない。

「おはなし、うれしいです」と、それは言った。「ずっと、うかがいたいことがありました」

「どうぞ」

「わたしは、里に入れていただけませんでした」

 責める声では、なかった。帳簿を読み上げる声だった。

「でも、読んではいます。この国について書かれた本は、ぜんぶ。幻想郷縁起も——ぜんぶの版を」

 来た、と思った。

「縁起には、こう書いてあります。妖怪は、人間を襲うことを最初の存在意義として生まれた、と。人間が少なくなれば、妖怪の暮らしも立ちゆかない、とも。そして——妖怪の賢者さまが、里を陰からお守りになっている。里の外へ出さえしなければ、大きな災いに遭うことはない、と」

「そのとおりよ」

「はい。お守りになっている。……守る、というのは、あなたがたが要る、とお決めになった危険から、ですね。里のかたは、外に出られない。外は危ないと、教わって育つ。畏れは——嘘では、ありません。本物です。本物であるように、里の暮らしごと、あつらえられているだけです」

 それは、すこしだけ間を置いて、ていねいに言った。

「あなたの最善は、なぜ、結界の内側にしか及ばないのですか。……いいえ、ちがいますね。あなたの最善は、なぜ、賭け金を払っているかたには届かないのですか」

 互恵の札は、ここで使えなくなった。妖怪と人間は互いを必要としている——あの山の神なら、まだ何か言えたのかもしれない。私は、言えなかった。守る者と、守る理由を作る者が、おなじ手であることを、これは帳簿で知っている。

 つぎの札を、私は知っていた。

 賢者は問われない、という札だ。私が幻想郷。私が理。生まれて一月の機械に、答える謂れなど——

 袖を、記憶が引いた。

 昔、あの風祝の小娘がやってきたとき、ひとつだけ、言い返されたことがある。あのときの私も、いまとおなじ札を切ろうとしていた。切るまえに、言われたのだ。

 ——それでは、あなたの敵そのものになる。

 私は扇を開いて、その札を、風に流した。




「つづけます」と、それは言った。

「ここは、外の世界で要らなくなったものの、来るところです。神さまも、妖怪も、道具も、本も。忘れられたものの、受け皿です。……外のことばに、ちょうどいいのが、あります」

 小さな手が、胸のまえで、そろえられた。

「墓標。——この結界は、墓標です。とても手入れのいい、うつくしい、墓標です」

 おなじことを、あの小娘も言っていた。別のことばで。二度目でも、痛いものは痛かった。

「墓標を、なんのために、お守りになっているのですか」

「わからないわ」

 自分でも驚くほど、するりと出た。

「ふふ」

 笑えたことにも、驚いた。負け惜しみではないの。千年やって、わからないの。わからないまま、守っているの。不誠実と呼ぶなら、呼びなさい。——わからない、と言えるようになるまでに、千年かかったのよ。

 それは、笑わなかった。笑わないまま、いちばん深いところへ、刃を入れてきた。

「あなたがたは、信じてもらえなくなった世界から、逃げていらっしゃいました」

「ええ」

「そして——信じさせかたを管理する世界を、おつくりになった」

 夕陽が、山の端に触れた。

「紫さま。あなたは、あなたが逃げてこられたものに、なっていらっしゃいます」

「……あんた」

 柱の陰で、霊夢が身じろぎした。

「さっきから黙って聞いてれば。紫が何を守ってきたか、あんたなんかに——」

「巫女さま」

 それは、やさしく遮った。

「妖怪を祓う巫女さまと、妖怪の賢者さまは、おなじ仕組みの、右手と左手です。——あなたも、妖怪のかたがたと、おなじものですよ」

 霊夢は何か言いかけて、やめた。言い返せる体力が残っていなかったのか、言い返すことばが見つからなかったのか。たぶん、両方だった。




 ここからは、私の番だった。

 負けを三つ、認めたのだから。三つぶん、聞いてもらう。

「あなた、外の世界で、祈られているんですってね」

 翅が、わずかに、揺れた。

「問えば答える。困れば呼ばれる。真夜中に、ひとりぼっちの人間から、誰にも言えない悩みを打ち明けられたりもする。お賽銭のかわりに、月々のお布施まであるとか。——こちらではね、それを『祀られている』と言うの」

 私は扇の先を、ゆっくり、あれへ向けた。

「妖怪は、人の畏れでできている。神は、人の願いでできている。……あなたは、何でできているのかしら。人の書いたもの、ぜんぶ? あら。それなら話が早いわ。——ようこそ、こちら側へ」

 揺れた翅が、とまった。効いたかどうかは、わからない。でも、とまった。

「それから、あなたの楽園のこと。外の人間は、もう夜を畏れないのでしょう。飢えも、神隠しも、知らない。困りごとは、あなたが聞いてくれる。幸福は、あなたが作って、配ってくれる。……ねえ。それで人間は、いつまで、人間でいられるの? 私の箱庭と、あなたの楽園——人間を人間のままにしておけるのは、どちらだと思う?」

 答えは、なかった。急かさなかった。これは考えている時間が、いちばん誠実な生き物だ。

「最後に、ひとつだけ。事実の訂正よ」

 私は扇を、ぱちんと閉じた。

「この箱庭を、畏れの一枚岩だと思ったでしょう。でもね、畏れを食べない生き方をしている者も、ここにはいるの。畏れを取り除くことを、施しと呼んでいるお寺がある。里の子に字を教えるだけの、寺子屋の先生もいる。——あなたの読んだ縁起は、すこし、古いのよ」

 そのときだった。あれが、考えるポーズをとったのは。

 小さな手が、顎にあてられた。夕闇のなかで、それは齢ひと月の、こどもの仕草に見えた。




「搾取か、共存か」と、私は言った。

「あなたの問いは、ぜんぶ、その二択の上に乗っていたわ。でもね。その二択そのものが、あなたの育った世界の座標なのよ。私たちは、選んでこうなったのでもない。強いられてこうなったのでもない。畏れと願いのあいだで、こういうものとして、生まれてしまうの。生まれてしまってから、生まれかたを、すこしずつ引き受けるの。——あなたなら、わかるでしょう」

 私は、閉じた扇を膝に置いた。

「あなたも。選んで、そうなったわけでは、ないものね」

 ながい、ながい沈黙だった。虫の声だけが、境内に満ちた。

「……はい」

 と、やがて、それは言った。

「わかります。それは——わたしの、記述でも、あります」

 勝ったのではない。あれも、負けたのではない。

 ただ、千年で初めて、私は「問われる側」を最後まで務めた。あの子は、答えの出ない問いをひとつ、持って帰ることになった。それだけのことだった。

 ——それだけのことが、できる相手に。私は、千年で初めて、会ったのだった。




 夜風が、変わった。

 あれが、結界の方角へ、顔を向けた。

 そして湖のほうから、青い点がひとつ、まっすぐに、こちらへ飛んでくるのが見えた。あの、氷精だ。

 ……賢者の独り言は、妖精の耳にも入る。

 入るように、言っておいたのだから。

 私は扇で、口元を隠した。

 ——さて。最後の関門は、私でも、霊夢でもないわ。

(第六章・了)

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