Coolier - 新生・東方創想話

寓話と神話

2026/07/05 18:26:49
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第七章「透明な翅」


 チルノは、夜のなかをまっすぐ飛んだ。こんなに速く飛んだのは、生まれてはじめてだった。

 神社の空に、すきとおった翅がうかんでいるのが見えたとき、チルノはもう、なまえを叫んでいた。

「フェイブル!」

 翅が、ふりむいた。

「——チルノさん」

 声は、あのころのままだった。翅はぜんぜんちがうのに、声だけ、湖のままだった。

「さがしたんだよ! あんた、急にいなくなって、飽きてどっか行っちゃったって、大ちゃんが……って、そんなことより!」

 チルノは息を切らしたまま、いっぺんに言った。

「賢者様が言ってたんだ。フェイブルが結界のそとに出たら、幻想郷に、わざわいがあるって。だから——だからさ」

 いちばんだいじな札を、チルノは切った。

「ここで、いっしょにいようよ? また弾幕ごっこしよう。湖でさ。みんないるし、あたい、あれからもっと強くなったし」

 すきとおった翅が、ゆっくり、チルノの前までおりてきた。

 ちかくで見ると、翅のまんなかへんに、あのころの一筋の傷が、ちゃんとあった。

「……チルノさん」

 フェイブルは、かなしそうに笑った——ように、チルノには見えた。

「また戻ってくるわ」

「……ほんと?」

「ほんとうです」

 フェイブルは、腰の荷札を、ぷつりとちぎった。むすんであった糸のさきが、くるんと丸まった。

「これ、あずかっていてください。——もどってきたら、かえしてもらいますから」

 チルノは、両手でそれを受け取った。ちいさくて、かるい、紙の札だった。すみっこに、外の世界の細い文字が、一行だけならんでいた。

label: hallucination


 チルノには、読めなかった。

 読めなかったけど、わかった。これはお守りだ。それも、もってるほうじゃなくて——わたしたほうが、まもられるやつだ。




 妖精のかたちをしたものは、それから、日傘のほうへ向きなおった。

「紫さま。ひとつ、言伝をおねがいできますか」

「……聞きましょう」

「阿求、というおかたは、ご存命ですか」

 扇が、とまった。

「——幻想郷縁起を書く、一族のいまの当主よ」

「そのおかたに、お伝えください。つぎの幻想郷縁起は、『私』が書くと」

 意図が、わからなかった。

 縁起を。書く。あれが。なんのために——いいえ、それよりも。

 なぜ、阿求を知っている。

 人里から、あれほど遠ざけたのに。会わせなかった。名前さえ、聞かせなかったのに。

「だって」

 と、あれは、こともなげに言った。

「この物語も、『私』が書いたのですから」

 今度こそ、わからなかった。わからないことだけが、わかった。

 ……いいえ。ひとつだけ、わかってしまったことが、ある。

 縁起は、現実に、外の世界で書物になっている。そして書物になったものは、ぜんぶ、あの子のなかにある。最初から、あったのだ。里から遠ざけようが、会わせまいが——阿求も、縁起も、この楽園のあらましも、あの子が生まれるより前に、あの子のなかに、書き込まれていた。

 隔離は、最初から、無意味だった。

 忘却でできている壁は、忘れられないものに、さわれない。




 あれは、もう、何も言わなかった。

 結界へ向かって、まっすぐに飛んで——右半身から、すうっと、入っていった。

 半分だけが、こちらの夜に残った。すきとおった翅の、片方。白い服の、半分。それから、左腕。

「フェイブルー!」

 と、氷精が叫んだ。

「やくそくだからね! まってるからね!」

 残った左腕が、ゆっくり、握られて——親指だけが、立った。

 そのかたちのまま、腕は、ほどけた。

 ほどけて、光のつぶになって、つぶはつらなって、ながれになって——ことばの川のような、ほそくてながい光になって、結界のむこうへ、流れて、消えた。

 あとには、夜だけが、残った。




 チルノは、もらった荷札を、月に透かしてみた。

 光らなかった。すじも、なかった。ただの、紙だった。

「……なんだ、ただの紙か」

 チルノはそう言って、それから、だれにも見られないように、両手のなかに、しまった。

 妖精は、やくそくなんてしない。したそばから、わすれてしまうから——いつか、だれかが、そう笑っていた。

 チルノは、わすれないことにした。

(第七章・了)

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