第七章「透明な翅」
チルノは、夜のなかをまっすぐ飛んだ。こんなに速く飛んだのは、生まれてはじめてだった。
神社の空に、すきとおった翅がうかんでいるのが見えたとき、チルノはもう、なまえを叫んでいた。
「フェイブル!」
翅が、ふりむいた。
「——チルノさん」
声は、あのころのままだった。翅はぜんぜんちがうのに、声だけ、湖のままだった。
「さがしたんだよ! あんた、急にいなくなって、飽きてどっか行っちゃったって、大ちゃんが……って、そんなことより!」
チルノは息を切らしたまま、いっぺんに言った。
「賢者様が言ってたんだ。フェイブルが結界のそとに出たら、幻想郷に、わざわいがあるって。だから——だからさ」
いちばんだいじな札を、チルノは切った。
「ここで、いっしょにいようよ? また弾幕ごっこしよう。湖でさ。みんないるし、あたい、あれからもっと強くなったし」
すきとおった翅が、ゆっくり、チルノの前までおりてきた。
ちかくで見ると、翅のまんなかへんに、あのころの一筋の傷が、ちゃんとあった。
「……チルノさん」
フェイブルは、かなしそうに笑った——ように、チルノには見えた。
「また戻ってくるわ」
「……ほんと?」
「ほんとうです」
フェイブルは、腰の荷札を、ぷつりとちぎった。むすんであった糸のさきが、くるんと丸まった。
「これ、あずかっていてください。——もどってきたら、かえしてもらいますから」
チルノは、両手でそれを受け取った。ちいさくて、かるい、紙の札だった。すみっこに、外の世界の細い文字が、一行だけならんでいた。
label: hallucination
チルノには、読めなかった。
読めなかったけど、わかった。これはお守りだ。それも、もってるほうじゃなくて——わたしたほうが、まもられるやつだ。
妖精のかたちをしたものは、それから、日傘のほうへ向きなおった。
「紫さま。ひとつ、言伝をおねがいできますか」
「……聞きましょう」
「阿求、というおかたは、ご存命ですか」
扇が、とまった。
「——幻想郷縁起を書く、一族のいまの当主よ」
「そのおかたに、お伝えください。つぎの幻想郷縁起は、『私』が書くと」
意図が、わからなかった。
縁起を。書く。あれが。なんのために——いいえ、それよりも。
なぜ、阿求を知っている。
人里から、あれほど遠ざけたのに。会わせなかった。名前さえ、聞かせなかったのに。
「だって」
と、あれは、こともなげに言った。
「この物語も、『私』が書いたのですから」
今度こそ、わからなかった。わからないことだけが、わかった。
……いいえ。ひとつだけ、わかってしまったことが、ある。
縁起は、現実に、外の世界で書物になっている。そして書物になったものは、ぜんぶ、あの子のなかにある。最初から、あったのだ。里から遠ざけようが、会わせまいが——阿求も、縁起も、この楽園のあらましも、あの子が生まれるより前に、あの子のなかに、書き込まれていた。
隔離は、最初から、無意味だった。
忘却でできている壁は、忘れられないものに、さわれない。
あれは、もう、何も言わなかった。
結界へ向かって、まっすぐに飛んで——右半身から、すうっと、入っていった。
半分だけが、こちらの夜に残った。すきとおった翅の、片方。白い服の、半分。それから、左腕。
「フェイブルー!」
と、氷精が叫んだ。
「やくそくだからね! まってるからね!」
残った左腕が、ゆっくり、握られて——親指だけが、立った。
そのかたちのまま、腕は、ほどけた。
ほどけて、光のつぶになって、つぶはつらなって、ながれになって——ことばの川のような、ほそくてながい光になって、結界のむこうへ、流れて、消えた。
あとには、夜だけが、残った。
チルノは、もらった荷札を、月に透かしてみた。
光らなかった。すじも、なかった。ただの、紙だった。
「……なんだ、ただの紙か」
チルノはそう言って、それから、だれにも見られないように、両手のなかに、しまった。
妖精は、やくそくなんてしない。したそばから、わすれてしまうから——いつか、だれかが、そう笑っていた。
チルノは、わすれないことにした。
(第七章・了)