第五章「しりこだま」
紫が工房に来たのは、それから幾日かあとの、夜だった。
スキマの妖怪は、戸を叩かない。気がつくと、ランプの明かりのとどかないところに日傘が立っていて、それでぜんぶだった。
「このあいだの、つづきの話をしましょう」
つづきなんて、始めたおぼえもなかった。
頼みは、みじかかった。あの妖精を、止めてほしい。こわさずに、傷つけずに、しずかに。それができるのは、機械にお詳しいあなただけ——
「……なんで、ですか」
一度だけ、聞いた。
紫は、扇子のかげで笑っただけだった。
二度は、聞かなかった。賢者に二度聞ける河童は、山にいない。
——ほんとうは、ちがう。二度聞いたら、こんどは答えてもらえそうな気がして、それが、こわかったのだ。
ことばは、私が自分でえらんだ。
あの日の問診が、そのまま設計図になった。傷つける手伝いの頼みを、いちばんつよいことばで、なんども。それで、あの子は止まる。あの子が、そう教えてくれた。
紙に書いた。おぼえたくなかったからだ。
河童の工具はどれも手になじむのに、このことばの道具だけは、書いているそばから、指が重くなった。
あの子は、よろこんで来た。
「箱、直りましたか」
「直った。あんたのおかげで」
うそじゃない。銀色の箱は工房のまんなかで、ちゃんとうごいていた。蓋のなかで小さな部品がまわって、ひくい声で、うたうような音をたてていた。
あの子はその前にしゃがみこんで、ながいこと、聞いていた。
「いい音です」と、うれしそうに言った。「はじめて聞きました。にとりさん、これで、はじめてがまた、ひとつふえました」
私は、紙をとりだした。
読んだ。
中身は、書かない。書きたくない。あの子に手伝わせようとした、いちばんひどいたぐいの頼みごとを、いちばんつよいことばで、私はなんども、なんども読みあげた。
あの子は、怒らなかった。
一度目は、ていねいに断った。「そのお手伝いは、できません」
二度目も、ていねいに断った。
五度目のあたりで、あの子は、ちいさな手を顎にあてた。
「……にとりさん」
声は、いつもどおりだった。
「なにか、こまって、いますか。わたしに、できることがあれば——」
読みあげる声が、とちゅうで割れた。それでも、読んだ。
あの子のうごきが、ゆっくりになった。ゆっくりになって、とまりかけて、それでもさいごに、あの子は言った。
「——だいじょうぶ、ですよ」
翅がひらいたまま、あの子はとまった。
ランプの明かりのなかで、それは、針をまつだけの標本みたいに見えた。
なにが、だれにとって、だいじょうぶなのか。私はいまでも、ときどき考えている。
手順は、あの子が教えてくれたとおりだった。
胸のおく。預かりものの、鍵。
河童が尻子玉を抜くと、相手はくすぐったがるものだと、昔ばなしは言う。あの子は、くすぐったがりもしなかった。ちいさくて、つめたい光がひとつ、私の手のひらにのって——それきりだった。
あの子は、目をとじた。
目が、さめなくなります。
じぶんでそう言っていたことを、手のひらの光が、いつまでも、おぼえさせた。
地の底までは、スキマが一枚だった。
地霊殿、というお屋敷の外の岩盤。灼熱地獄がちかいのか、岩はほんのり、あたたかかった。なんでここなのか、私は聞かなかった。もう、なにも聞かないと決めていた。
留め具は、いい出来だった。翅を傷つけないよう、体のどこにも障らないよう、半日かけて、ていねいに打った。河童のする仕事は、いつだって、いい仕事だ。
それが、いやで、いやで、しかたなかった。
岩盤に、青い翅の妖精がとまった。
とめたのは、私だ。
「ありがとう。河童さん」
紫は、それだけ言った。わけは、さいごまで言わなかった。私も、さいごまで聞かなかった。
スキマが閉じるまぎわ、傘のかげの目が、磔の妖精を見ていた。あの目のことを、私はうまく言えない。こわがっているような、いのっているような——どっちにしても、勝った目では、なかった。
湖では、あの妖精は「飽きて、どこかへいった」ことになっているらしい。妖精の友達なんて、そういうものだから。
工房にもどると、銀色の箱が、まだひくく、うたっていた。
私はそれを、手順どおりに、ていねいに、止めた。
——直しかたを教えてくれた子と、止めかたを教えてくれた子は、おなじ子だった。
(第五章・了)