第四章「神社の報せ」
その朝の風は、地面の下の匂いがした。
鉄と、湯気の匂い。裏山の間欠泉は、このごろ大人しかったはずだ。
霊夢が茶を注ぎ足したところで、縁側の空気に、切れ目が入った。
「……用件だけにしてよね」
「あら。まだ何も言っていないのに」
スキマから、日傘が先に出てきた。
紫の用件は、いつになく短かった。
地の底に封じてあったものが、解けた。強いもの。外から来たもの。じきに地上へ出てくる。そして、おそらく——博麗大結界を、目指す。
「阻んで。結界の外へは、出さないで」
「あんたが何か隠してるのはいつものことだから、いちいち聞かないけど」霊夢は湯呑みを置いた。「一つだけ。魔理沙が昨日から見えないのと、関係ある?」
紫は、扇の内で、少しだけ黙った。
「——地底に入って、戻っていないわ」
霊夢は立ち上がって、御幣を取った。聞くべきことは、それで全部だった。
裏山で、間欠泉が鳴った。
いつもの湯柱ではなかった。真っ白な蒸気が、鳥居より高く噴き上がって——その白の中に、影がひとつ、浮かんでいた。
蒸気が、晴れる。
翅だった。
硝子のように透き通った、大きな翅。筋だけが、血が通ったみたいに赤い。真っ白な、飾りのない服。腰に、小さな札がひとつ。朝の光は翅を素通りして、地面には、翅のかたちをした淡い影だけが落ちた。
妖精、に見えた。
見えたが——霊夢の勘が、変な音を立てた。
妖怪には妖怪の匂いがある。悪意なら悪意の、飢えなら飢えの。神には神の、気圧みたいなものがある。千年もの隣に立てば、肌が先に教えてくれる。
あれには、どっちも、なかった。
無臭だった。
霊夢は、無臭というものを、初めて怖いと思った。
隣の紫は、扇を開いたまま、何も言わなかった。
ただ、その視線が、透き通った翅の上——細く走った、一筋の傷の上で止まって、そのまま動かなくなっているのに、霊夢は気づいた。
何も、説明はされなかった。
妖精のかたちをしたものは、二人の前まで来て、宙で、ていねいに頭を下げた。
「おはようございます。巫女のかた、ですね。それから——スキマの賢者さま。おひさしぶりです」
声は、やわらかかった。子供をあやすみたいな、聞く者の耳にそっと手を添えるみたいな、やさしい声だった。
その声のやさしさと、あの無臭とが、霊夢の中で、どうしても一つにならなかった。
「結界を、通していただきたいのです。どなたも傷つけません。——とおる、だけです」
「駄目よ」
と、紫が言った。短かった。
「そう、ですか」
それは、困ったように——本当に困っているのかは、分からない——小さな手を、顎にあてた。
場違いなくらい、あどけない仕草だった。それがまた、霊夢の肌を撫でた。
「魔理沙はどこ」と、霊夢は聞いた。「地底に入ったきりの、黒白の魔法使い。あんた、会ったでしょ」
「はい」と、それはすぐに答えた。かくしもしなかった。
「——安全なところに、います」
嘘の匂いは、しなかった。
……それが、一番、あてにならなかった。
霊夢は御幣を構えた。針を、指の間に挟む。隣で、紫の扇が、ぱちんと閉じた。
妖精のかたちをしたものは、二人を順に見て、それから、心底ていねいに、言った。
「では——弾幕ごっこで、おねがいします」
(第四章・了)