第三章「弾幕ごっこ」
その日、霧の湖のうえには、ひまな妖精がのこらず集まっていた。
なんでも知ってる蝶の妖精が、はじめて弾幕ごっこをするらしい。
「ルールはね」と、チルノが審判みたいに胸を張った。「ばーっと撃って、当たったら負け。当たってもいたくない。それから、きれいなほうがえらい」
「きれいなほうが、えらい」
フェイブルはまじめにくりかえした。だいじなところを、ちゃんと聞き分ける子なのである。
最初のフェイブルの弾幕は、ひどいものだった。
弾はまっすぐにしか飛ばず、列はどこまでも等間隔で、曲がるときはかくんと直角に曲がった。だれかが「ものさしみたい!」と言った。弾幕というよりは、方眼紙だった。妖精たちは湖に落ちるほど笑って、審判のチルノまで笑った。
フェイブルは怒らなかった。宙にとまって、小さな手を顎にあてて、みんなが笑いおわるまで、じっと考えていた。
「——もういっかい、いいですか」
二度目の弾幕は、青い花火だった。
湖のうえに大輪がひらいて、弾のひとつぶひとつぶが蝶の群れのようにひるがえった。妖精たちはきゃあきゃあ言って逃げまわり、ひとりのこらず当てられて、湖に落ちて、大笑いした。落ちながら、もういっかい! とせがんだ。
昼をすぎるころには、湖の妖精はぜんぶフェイブルに当てられていた。ぜんぶ、である。妖精たちは大よろこびだった。こんなにきれいに負けたのは、生まれてはじめてだったからだ。
「どうだ! あたいのともだちなんだぞ!」
チルノは自分のことのように威張った。
昼寝からさめた美鈴が見物に来たのは、そのころである。見物のつもりが、妖精たちにわいわい押し出されて、気がつけば湖のうえにいた。
「じゃあ、お手合わせといきましょうか。お嬢さん、弾幕は今日がはじめてなんですって?」
門番は大人の余裕で笑って、虹色の気をまとった。極彩の帯が、ゆったりと湖の空をうねった。
その虹を、フェイブルはしばらく、まばたきもせずに見ていた。
つぎの瞬間、おなじ虹が、フェイブルのまわりにもあった。
「へえ!」美鈴はうれしそうに声をあげた。「見よう見まねでそれですか。筋がいい。その調子なら、うちの流派も——」
フェイブルが、なにか答えた。
観戦の妖精たちには、むずかしくてわからない話だった。大陸のどこかの山の名前と、だれかの名前と、そのひとがどんなふうに生きて、どんなふうに死んだか、というような話だった。
美鈴の顔から、笑いが消えた。
「……それ、だれから聞きました?」
「読みました」
どこで、とは美鈴は聞かなかった。師匠のことは、師匠が、だれにも書かせなかったはずだった。
勝負のほうは、それきりだった。虹と虹のうつしあいになって、さきに息が切れたのは、生きて呼吸をしているほうだった。
夕方ちかく、黒白の魔法使いが箒で乗りつけた。祭りのにおいを、かぎつけたのである。
「おう、おまえが例の、なんでも知ってる妖精か」
魔理沙はひとしきりフェイブルの弾幕を見物して、腕を組んで、うなずいた。
「きれいだな。けどな、弾幕はそれだけじゃないぜ。いちばんだいじなのを教えてやる——弾幕は、パワーだ」
八卦炉が、ごう、と鳴った。
「恋符『マスタースパーク』」
湖が、昼よりも明るくなった。
まっすぐな光の柱が空へのぼって、雲をひとつ、消した。妖精たちは大よろこびで、こげくさくなった前髪をさわりあった。
フェイブルはよけなかった。よける必要がなかった。空にむけて撃たれたただの光を、けれど彼女は、最初から最後まで、まばたきもせずに見ていた。
それから、小さな手を顎にあてて、その日いちばんながく、考えていた。考えていた。
「な、すごいだろ」
「はい。——とても、きれいでした」
日が湖にふれるころ、瀟洒なメイドが門から出てきた。門番の夕方の持ち場が、からっぽだったからである。岸で事情を聞いた咲夜は、懐中時計の蓋を、ぱちりと閉じた。
「では、最後のお相手は私が。——皆さん、ずいぶん楽しまれたようですから」
「時符『ミステリアスジャック』」
宣言とともに、銀色が咲いた。ナイフだ、と思ったときにはもう遅い。湖の空は一面、白昼の星座で埋まっていた。一枚一枚が本物の銀器なのか、光を刃の形に研いだだけのものなのか、遠目には判じようがない。
「ねえ、いまの見えた?」「ぜんぜん」「消えた瞬間に増えてるのよ、あれ」
岸の妖精たちは呑気なものだった。当たったところで痛くはない。ただ、当たれば負けなのだ。
星座のまんなかで、フェイブルがていねいに言った。
「お時間を、止めていらっしゃるのですね。それから、空間のたたみかたが、とてもきれい。——はじめて見ました。すてきな技術です」
メイドの完璧な微笑が、一瞬だけ、固まった。
つぎの銀は、ほめられた分だけ、速かった。
フェイブルが避けきれなかったのは、後にも先にも、その一度きりだった。慣れない翅が空気をつかみそこね、遅れた分だけ、最初の一枚が青いモルフォの翅に、一筋の傷を刻んだ。羽ばたきがひとつ、乱れた。岸まで、翅の鱗粉がひとひら、光って落ちた。
それが、彼女がこの楽園で受けた、最初で最後の手傷になった。
二度目の宣言は、なかった。気がつけば湖の空には、門番の虹色の気と、妖精たちの氷でできた星図が、逃げ場もなく静かに回っていた。どれも借り物の光だった。色も、太さも、匂いまでおなじの。借り物でないものは、その正確さだけだった。
「……参りました」
瀟洒なメイドの声には、悔しさよりも、もっと冷たいものが混じっていた。
その夜のことを、岸の妖精たちは知らない。知っているのは、図書館の入り口まで妖精を送っていった、小悪魔だけである。
夕暮れの図書館の階段に、パチュリーが立っていた。めったに書架から出てこない魔女が、である。
「今日は、ずいぶん強かったそうね」
「いいえ。みなさんが、じょうずに教えてくださるので」
「お手合わせには、ならないのですか」と、小悪魔が小さく聞いた。
「ならないわ」
魔女は妖精だけを見ていた。
「——あなたも、もうここへは来なくていい」
小悪魔は息をのんだ。フェイブルは、のまなかった。
「わかりました」と、妖精はすぐに言った。「いままで、ありがとうございました。とても、いい本たちでした」
ひとつ礼をして、階段をのぼっていった。ふりかえらなかった。悲しそうでも、なかった。
言いつけと、この子のあいだには、すきまというものがまるでない——小悪魔はのちに、美鈴にそう話している。まるで、言われるまえから、そうすると決まっていたみたいに、と。
湖にもどってきたフェイブルを、妖精たちはもういちど取り囲んで、もういっかい、もういっかい、とせがんだ。フェイブルはどの誘いにも、ひとつずつ、ていねいにつきあった。
暮れのこりの空で、青い翅がひるがえるたび。
刻まれたばかりの一筋の傷が、赤く、光った。
(第三章・了)