七、
「君はもう帰りなさい」
「…………」
やはりと言うべきか、富豪家族との会談が終わると、霖之助は傘を差し出しながら霊夢にそう命令した。
彼自身は蓑と菅笠を被り雨をやり過ごす。雨は変わらず、霖之助が外に出るのと同時に突然シトシトと降り出し、道を濡らし始めていた。
霊夢に傘を握らせ、香霖堂に戻るよう指示をする。
理由は、口で説明されずとも、思い当たる節は彼女自身にもいくつか思い浮かんだ。
それら全てに言い訳することもできず、できることはただ無言で彼の隣に佇むだけであり。
「妖怪を退治するっていうのは、人間の醜い感情を多分に見るってことなんだ。言ったはずだよ。人間は、妖怪や怪異に狙われているんじゃなく、人間が妖怪や怪異を自らおびき出している、ってね」
反論の余地もなかった。
妖怪や怪異は、人間の弱さや醜さにつけ込んで悪事を働く。それは先代にも教えられていたことだった。
だが、どうしてそれを深く解釈しなかったのか、霊夢はその夢見がちな自分の思考を呪った。
弱さや醜さにつけ込んでくると言うことは、退治屋はそれらに直面し、さらに立ち向かわなければならないのだ。
先代は……母は、自分の中では英雄だった。武勇伝を聞くたびに胸は躍ったし、誇らしくもあった。だから、そんな母みたいになりたくて……そして、母の仇を討ちたくて必死に稽古をつけてきたのに。
「お母さんは……辛そうじゃなかったの?」
その質問は、意味を成さないことを知っている。
だが聞かずにはいられなかった。自分を産んで、退治屋稼業もやめず、帰ってくればその戦果を語る母は、自分と同じ境遇にあるのは間違いないはずだから。
「先代は、強い人だったよ。君のお父さんが支えになっていたんだろうね。子供の君を抱いている姿は羨ましいほどに、幸せそうだった」
父のこともよく覚えている。母とは違い、普通の人間で物静かだけど、母のことをいつも心配して気遣っていて、神社の掃除が主な仕事で、柔らかな笑顔が今でも鮮明に思い出せる。
「僕が先代の手伝いをしてるときも、この離魂病事件よりひどい出来事はたくさんあったよ。それらももちろん、人間の醜さがおびき寄せた妖怪や怪異が関わっていたけどね」
「霖之助さんは、平気なの?」
「僕は平気さ。『鑑定士』だからね。見限っているんだよ、人間を。そうじゃなきゃ、こんな仕事はやっていけない」
事件の品定めをして、情報を巫女に渡す。八雲紫と森近霖之助は、博麗神社の巫女の補佐的な役割だった。
だから、それほど辛くもなかったのだという。
「もう一度言うよ。霊夢、君はもう帰るんだ」
「で、でも!」
「口ではそう抗議できても、震えてるじゃないか」
「あ……」
言われて、傘を握る手が震えていることに気づく。
寒い。秋雨が降っているとはいえ、こんなにも冷える日だったろうかと霊夢は困惑した。自分で思っている以上に、怯えたのだ。
男の手が自分に触れた瞬間から、ずっとこうだった?
「どうして、君はあのとき抵抗しなかったんだい? あんな男、君なら簡単に振りほどけただろう?」
霊夢の身体能力の高さは、常人を軽くあしらえるほど。先代から受け継いだ血と、日々の絶え間ない努力の賜ではあるのだが、それを生かせる日は未だに巡り会えていない。
「ち、違うの! 一般の人に怪我をさせちゃ悪いと思って」
「確かに暴力はよくないね。なら、どうして僕のように口で拒否しなかったんだい? 君は巫女としての純潔を失っても良かったわけじゃないだろう?」
「あ、当たり前でしょそんなの。ただ、あのときは体が震えちゃって」
「ならダメだ。妖怪以前に、人間に怯えてるようじゃ君は連れて行けない。かえって邪魔になる」
「……っ!」
霖之助の拒絶に霊夢は何も言い返せない。
当然だ。人間を脅かす人外を退治するより、守るべき人間に怯えていては退治どころの話ではないから。現に、富豪家族の時も自分が原因で、会談が中断されかけていたのだから。
情けなさと不甲斐なさで、自然と視界がぼやけてきていた。こらえることはできず、溢れる涙と嗚咽に構うほどの余裕しか今はなくて。
「霖之助さんは、私が男に手を掴まれたとき、何とも思わなかったの?」
支離滅裂にもほどがあると、自分でもわかっていた。
しかし、救いを求めたがために口から零れてしまった質問であり、決してその場しのぎの言い訳でもないのだが。
「別に何も。ただ、君がどう対処するか見てみたかったけどね」
間を置かずに放たれた言葉に、霊夢は絶望する。
涙を拭い、片手で傘を強く握りしめ、彼女は居ても立ってもいられない心境に陥った。
「……バカ」
そう小さく罵るのを最後に、霊夢はその場から駆けだしていくのだった。