十一、
霊夢は霖之助の声を聞いた。
目の前からではない。少し離れた境内の出入り口、鳥居の真下からである。
(霖之助さんが、もう一人?)
霖之助が二人いると認識したところで、彼女の望みは悪夢へと変貌する。
「キヒッ、キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!」
目の前にいる彼から、耳に入れるだけで怖気のする、気持ち悪い笑い声が漏れた。同時、その顔は歪んでいき、骨格がゴリゴリと変化していく。
白髪や顔立ちは霖之助の面影を残しながらも、裂けた口、尖った鼻、肥大化した眼を見れば、それが人外であると誰でも把握できるだろう。
「あぐっ!」
そしてそいつは霊夢の首に腕を回し、彼女を盾するかたちで霖之助と相対する。
「動くな」
いつの間にやら、そいつの爪は指の長さ以上に伸びており、刃物のように鋭く尖っていた。それを霊夢の頬に押しつけ、血が滲む程度に傷を入れる。
「…………」
霖之助の表情は怒りに充ち満ちていた。視線は鋭利にもう一人の霖之助へと注がれており、殺意が彼からあふれ出ている。
それが一番にわかるのは、左手に握られている刀。
それを前に掲げ、相手の威嚇を彼は牽制していた。
「お前の目的は、何だ?」
「オレの目的? キヒッ。そんなこと、色々とかぎまわってたお前の方がよく知ってるんじゃないのかぁ?」
「正体は何となく察してるよ。お前は、『夢魔』なんだろう?」
夢魔。
西洋に住まう低級な悪魔である。
別名を淫魔とも呼ばれ、接触する人間の異性の理想像として化け、誘惑し、性交を行う。人の欲望から産まれた、穢れ多き怪異で。
「ああ、多分それで間違いないぜ。オレ自身も、そうなんじゃないかって思ってるくらいだからな」
返事を聞き、霖之助はそこで初めて表情を崩した。
とはいっても、眉を一つピクリと動かした程度だが。
「どうりで被害が中途半端なわけだ。やっぱり、存在が定着しきっていないみたいだね」
霖之助は薄く笑みを浮かべ、目の前に居る自分に化けたそれを蔑んだ。
本来夢魔は、女の姿に化けて男の精を搾取し、男に化けて女の体に悪魔の子を孕ませる怪異である。そして、夢魔と接触した人間は、合わせて生気を搾取もされるわけなのだが。
京都で起きた離魂病事件。
被害にあった人間は、魂を汚され精と生気を搾取されただけに過ぎず、女性に限っては子を宿したという報告は一件も聞いていなかった。
「まあ、海を渡ったのは正直失敗だったとは思ってるぜ。この国の中でも、まだ俺たちが存在できそうな霊的な場所に流れてみたってのに、どこもかしこも科学を信仰し始めていて、ロクに力をだせなかったからな」
苦虫を噛みつぶしたように、夢魔は言う。
「ただ、淫欲は十二分にあったぜ。貧乏人も金持ちも、男や女を求める欲望は変わらねえ。何度か騒ぎを起こして本来の力を取り戻せたら御の字だったんだが」
「ひっ!」
夢魔は言葉を切り霊夢に顔を張り付かせた。ぬめりが絡むその舌で、見せつけるように、小ぶりに熟れた白桃を舐め、嗤い、弄ぶ。
彼女の想い人の目の前で。
「キヒッ。こんな上玉が釣れるとは思ってもいなかったぜ! こいつを犯せば本来以上の力が手に入る! 神に仕える女が悪魔を孕むなんて、穢れを通り越して大罪そのものになるからな! キヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!」
耳をつんざくような嘲笑に、霊夢はただただ震えた。
夢魔の言っている意味が理解できるから。
想い人に化けたこいつの主張は真実であるから。
巫女を犯せば、夢魔は格を得ることが出来る。
神職を打ち破った事象は、そのまま怪異の力の源へと還る。実際、法師や陰陽師などを打破し、類い希な力を手にした妖怪もこの国にはいるのだから。
助けて欲しい。
しかし、この窮地を作ったのは自分自身で、そして今の身なりを霖之助に見られている事実は、夢であるように願うほかなく。
「見な、いで……」
見当違いな希望が口から漏れる始末だった。
まぬけにもほどがあった。護身用にと持っていた御札も、手元にはない。さっき仕込んでいた服ごと脱いでしまったから。それは手の届かない場所にある。
「キヒヒッ。見ないで、だぁ? さっきまでよがってたってのにつれないこと言うなよ。お前が取り乱せば乱すほど、お前が淫せば淫すほど、オレはもっと強くなれるんだからよ~」
「え」
ビリィ。
理解が及ぶよりも早く。
脱がされ、放置していた袴が目の前で引き裂かれ。
次いで、下半身を隠していたそれも。女の秘部を覆っていたそれも。
夢魔は容赦なく切り裂いた。
親の形見であり、自分を「博麗霊夢」として成り立たせていた大切な衣服は、無残な姿を晒す。
「い、いやあ。やめてええっ!」
「キヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!」
露わになる恥部を手で隠すことは、夢魔に取り押さえられてたためできなかった。
どれだけ抵抗しても、拘束されている体は解放されない。自分程度の力では、何もできないのである。
恥ずかしさと悔しさと情けなさから、止めどなく涙が溢れた。
好きな人を別人だと見抜けなかった。
騙された上に肌を重ねた。
女の初めてをたくさん許した。
唇も、胸も、純潔にも触れさせてしまった。
極めつけは、自分が人質とされていること。
失態どころの話ではない。彼の言うとおり、あのまま香霖堂へ戻っていればよかったのに。
何度も何度も心配されていた。大屋敷で別れるときにも注意されて、それを傲慢にも無視した。
その結果がこれだ。全てが全て、自らが招いた窮地。
「霊夢、聞いて欲しいことがあるんだ」
そんな絶望の中で、彼の声は澄んで心に響いた。
「君がどんな目に合っていようと、君がどう変わってしまっていようと、僕は君を守り続けるつもりだ」
夢魔に放っていた殺気は消えている。
いつものように、お小言を告げる調子で語りかけてくるそれは、この状況で聞くと救いを示してくれている気がした。
「説教したいのは山々なんだけど、ここじゃあ風邪をひきそうだ。早く帰って暖を取ろう。ハーンさんがお風呂を沸かしてくれてる。それに僕も、仕事を片付けて一杯といきたいところだし」
何でもなく装ってくれていることに、霊夢は霖之助に強く感謝した。返事も何もできないけれど、恥よりも後悔よりも情けなさよりも、嬉しさを噛みしめられることに、希望を持てたから。
「さっきから何を言ってんだ? 今の状況を」
「それに、ハーンさんには前金を返さなくちゃいけない」
「は?」
会話がかみ合わないが、霖之助は特に気にしない。
これ以上の問答は不必要だと彼は判断したから。
冷淡で冷徹な言葉は、降り注ぐ秋雨を通じて、徐々に氷の殺意へと変わる。
「どんな妖怪だろうと、どんな怪異だろうと、依頼通りに『鑑定』して価値を計るのが『鑑定士』の仕事だっていうのに……駄目だね。さすがに、冷静でいられないみたいだ」
自分に言い聞かせるように、霖之助は首を横に振って心境を戒めた。
鑑定を依頼されてそれを反故にする。
職人としては許されざる行為である。霖之助は先ほどから、鑑定士としての自分と私情とを内心で争わせていた。
だが、勝敗は常に私情が勝っている。だから、受け取った前金を返却し、依頼を無かったことにしたいと思っているのだ。
彼の腹は決まる。それを鑑定と呼ぶなら、夢魔は彼にこんな評価を下されていた。
意思も慈悲も憐れみも、存在する権利すら認ない。
無価値という価値をつけることすら許さない。
いらないのだ。ここに。
「ふざけんな! 女がどうなっても良いのか!」
罵るように唾を飛ばし、再び霊夢を盾にするようにして待ち構える。
が、忠告には耳を傾けず、霖之助は刀に手をかけて前へ歩を進めた。
「バカが! 後悔しろ!」
夢魔の鋭利な爪が、霊夢の喉元に迫る。
だが、夢魔は一つ、思い違いをしていた。
最初に放たれた言葉――霊夢から離れろという命令。
あれは、懇願の類では決してなく。
単に。
霊夢に汚らしい血がかかるのを、少しでも防ぎたかったから。
「あ……?」
痛みを感じるより早く、夢魔は自分の腕が消えてなくなったことを悟り、次の瞬間には、意識が遥か上空に向いていた。
状況を把握できない。混乱が回復するには、あまりにも時間が追いついていなかったから。
背中に衝撃。腕は激痛。
夢魔は、痛覚によって何が起きたのかをやっと理解できたのである。
腕を斬られた? その後は、なんだ? 打ち上げられた?
方向感覚が戻るのも、境内にある鳥居を見つけてからだった。自分がいたであろう場所を見ると、霊夢を抱いている霖之助の姿があった。
構えていた刀は抜き身となっている。それを使われたのはわかる。
しかし、抜刀した瞬間どころか、身のこなしも踏み込みも何も見えなかった。
「ひ……っ!」
優劣をつけることが面倒となるほどの、実力差。
それを瞬時に悟った夢魔は、すぐさま踵を返した。
が、それすらも遅い。
すでに、夢魔には意思も意識も、持ち合わせることは許されていなかったのだから。
断末魔もない。
霧散。
肉塊も肉片も、塵にすらならないほど、それは秋雨に溶けていく。
霖之助は一撃しか加えていない。剣閃を一振り、風圧とともに夢魔へ浴びせただけ。彼はただ、その一撃の角度を工夫したのみで、夢魔の体は時間差によって、細かく寸断されていったのである。
そして霖之助は、怪異の結末を見届けることもせず、刀を鞘に納めて霊夢にこう告げた。
「帰ろう。きっと、ハーンさんが心配してると思うから」