十、
霖之助と手を繋ぐのはいつ以来か。霊夢は帰りの道中、胸を高鳴らせながらそれを見つめていた。
両親が死んでしばらくは、手を繋いで二人で買い物をしていたことを思い出す。触感は、そのときと全く変わっていなかった。
ゴツゴツして固い。何らかのタコだろうか。護身用にと刀を持っていたので、剣道でも習っていたのかも知れない。
「どうして君はあんなところにいたんだ。自分の身でも売るつもりだったのかい?」
太陽も落ちきって、そこかしこから夕餉の香りが漂っている白川通り。そこを南東に向かって二人は歩いていた。
ガス灯が照らす橙色の道を行きながら、彼女らは山の中腹にある神社へと歩を進めていた。
「そ、そんなわけないじゃない。調査よ。霖之助さんの力になりたくて」
とは言っても、成果を得るどころか調査以前の問題で、一人震えていたことを正直に話した。
思い出話でも語るかのように、両親が死んだときのことも交えて。
自分を引き取ってくれて感謝していること。もし霖之助が世話をしてくれていなかったら、自分はああいうところで生活をしていたかもしれなかったこと。
合わせて、自分勝手に動いたことも謝罪する。こうやって心配をかけたのは事実だったから。
「でもね、霖之助さんの気持ちはとても嬉しいんだけど、私はお母さんとお父さんがいなくなったこの世界に、二人がいた証を残したいの。博麗神社には、妖怪の退治屋と神主が存在していたことを、一人でも多くの人に知って欲しくて」
それが、退治屋を目指す理由だった。
両親の仇もある。しかし、存在の証明をするためには独立がまず必要不可欠だと考えていた。
だから焦った。霖之助の言う「普通の生活」や「普通の幸せ」というのもわかる。でも、それは甘えのような気がして。
「どうして、甘えだと思うんだい?」
優しげな問いかけに、霊夢の心はほぐれていく。
よくよく考えてみれば、霖之助とこんな風に胸の内を話すのは初めてのような気がした。
今日はきっと、自分が無茶をしたから、初めての経験が多かったから、この程度のお説教で済んでいるのだ。
明日にでもなれば、またいつものように、香霖堂で口うるさい小言を言いつけられるのだろうけど。
今は、ただただ心地良い。
「私が博麗霊夢であることをやめたら、私が何者なのかわからなくなっちゃうからよ」
博麗霊夢とは、妖怪退治を意味する名前。
それを継いだからには、その義務を果たさなければならないのだと思っている。義務を果たし続けることができたなら、両親がこの世に存在した証明もできる。
だから、退治屋になりたかった。
「強いね、君は」
「違うわ、臆病なのよ。そうでもしないと、私はまた何もできずに、何も知らずに、大切な何かをなくしそうだから」
そんな会話を繰り返しているうちに、二人は境内に辿り着いていた。
夜の神社は物静かで、風が揺らす葉の音しかしない。ガス灯もなく、今夜は月明かりさえ雲のせいで差し込んでこない。暗闇よりも不気味に見えてしまうのは、ズタズタにされて崩れている拝殿があるせいだろう。
ただ、脇に建てられている社務所と境内は、非常に綺麗に掃除されていた。清掃は霊夢の日課であるから。
彼女はいつも、境内か社務所内の修練場で妖怪退治の稽古に励んでいる。
母が生きていた頃に教えてもらった、博麗神社に伝わる体術の基礎の型。それを繰り返し演舞する。
主に、妖怪の攻撃から身を守ることに特化した型だ。これを二年近く、毎日欠かさず真剣に取り組んでいた。身のこなしに関してだけなら、誰からも捕まえられない自信は霊夢にはあるのだが。
努力の積み重ねは自信に繋がっていたものの、現場に出てみれば、妖怪どころか人間に怯える始末。
一応、袖の内側には妖怪退治用に御札を何枚も仕込んでいる。それを使って、的当ての稽古も積んでいるし、短時間であれば、手を触れずに操作することだって可能。
しかし、人間に使うための技術ではない。そのはずだ。
屋敷で男に手を掴まれたとき、恐怖と躊躇いで動けなかったのは事実でもあるが。
「結局、私は何もできなかったわね。霖之助さんにも、こんな風に迷惑かけちゃって、駄々こねてただけ」
「…………」
自分の無力さに呆れて、それを誤魔化したくて、霊夢は霖之助の手をさらに強く握った。
情けない。これこそ甘えだとも思った。
しかし、彼はその手を強く握り返してくれた。このまま、ずっとこうしていたいとも彼女は願った。
暗がりの中、下から見上げても彼の表情はわからない。目の前の潰れた拝殿を見て何を考えているのか、霊夢には見当もつかないでいる。
「君のお母さんとお父さんには、恩があるんだ」
それも、口を酸っぱくして何度も聞かされていることだ。自分を説教するとき、その文言は必ずと言って良いほどに出てくる。
「僕は君の大切な人を守れなかった。あの人達は僕の大切な人でもあったんだ。それを失ったときの気持ちは、君にだってわかるだろう?」
そう。お互い、大事な人を失った者同士、その気持ちを二度と味わわせたくないからこそ、霖之助は霊夢に危険を冒してほしくないのである。
しかし、そう諭されるたびに霊夢はとある未来を思い描いてしまう。それは不潔だと自分に言い聞かせていて。
繋いでいた手を放す。
普通の幸せとは何なのか。
誰かを好きになって家庭を持つこと? 実際、霊夢はそれを夢に描いてもいるが。
「やっぱり、こう言わざるを得ないよ。ご両親のあとを追うような真似は、やめてほしい。君のためにも」
これも、何度も聞かされていることだった。
いつもなら、首を横に振ってケンカ別れをして、お互いの熱が冷めるまでロクに口もきかなることが多いが。
愛しさがあった。いや、今までだって、ずっとあったのだろう。
それに従えば、霊夢の言う甘えに手を染めてしまうことと同義である。
しかし。
「君が、君自身を何者かであるかわからなくなっても、僕が君をここにいると証明し続けて見せる。それじゃあ、ダメかい?」
「霖之助さん?」
そっと抱きしめられる。路地裏で引き寄せられたときとは違う、柔らかさのある抱擁だった。
彼の行為と言葉に、霊夢は意味を把握できなかった。
退治屋を目指す理由は、両親の仇を討つためであり、両親がこの世界にいた証明をするためであり、また自分も、ここで生きている証明をするためで――
つまり、退治屋を目指さないということは、それら全てを否定することであり、霖之助が代わりに証明をし続けてくれるということは。
「僕は、君の幸せになれないかい?」
考えるより先、霖之助が結論を口に出してくれた。
これは、不潔だ不潔だと自分に言い聞かせていた未来ではある。しかし、心の隅で強く望んでいたもしもだ。
「駄目……駄目よ霖之助さん。もしそんなことしちゃったら私……巫女でいられなくなっちゃう」
言葉では拒否をしていても、体が彼を求めていた。
ここで彼のモノになれば、博麗霊夢としてのしがらみから解放されることになる。退治屋としての呪縛に縛られなくなる。
過去を顧みなくても良い未来がそこにある。
気づけば、霊夢は彼を抱きしめ返していた。
彼なら……森近霖之助なら、自分を捧げても良い。
劣情と断じていた感情を恥ずかしくも思っていたが、今は、ただただ心地よかった。
「でも、やっぱり、霖之助さんになら、私……」
誰にも聞こえないように、彼にしか聞こえないようにこぼす。
そんなことを口走る己が恥ずかしくて堪らない。先ほどまで吐露していた想いは何だったのか。
稽古していた努力は? 両親の仇は?
それらを振り払った自分を肯定してほしくて、霊夢は霖之助を見つめた。
「……ん」
口づけを交わす。答えはそれだけで充分だった。
動悸が激しくなるも、それを悟られるのが恥ずかしくて霊夢はその間、息を止めた。
まるで、世界には自分と霖之助の二人だけしかいないんじゃないか、そんな錯覚にも陥りそうなほどの快楽を、霊夢は味わう。
(あ……)
胸に触れられる感触。一瞬驚きはしたが、彼の手のひらに包まれる感覚に、拒絶の意思は芽生えなかった。
怖くもある。だが、そこから伝わってくる熱に、これが自分の幸せだと思えば、霊夢は落ち着いてこの現実を受けいれることができた。
唇が離れ再び目があったとき、次に彼女は優しく覆い被さられた。
白い吐息が、互いの熱を教え合っていく。
雨上がりだとはいえ、濡れた境内の地面は当然冷たかった――構わない。きっとすぐに彼が暖めてくれるから。
外でこんなことするなんて、はしたないにもほどがある――別に良い。こんな時間にこんなところ、誰も来やしないだろう。
大切な巫女服が泥で汚れてしまう――知るものか。どうせ今から脱いでしまうのだし、これからはもう着なくなるのだから。
あれこれと、行為の前に気になることが思い浮かんでは消えていく。体をまさぐり、自分を求めてくれている霖之助を受け入れている今、拒む理由は全て些末なこととして処理した。
寒い。いつの間にか雨が降ってきていた。
小雨。霧のようなそれは、お互いの熱を求め合う要因として働く。
「あ、ん……」
うなじ、肩、胸。
それぞれを唇で愛撫され、続けて服が優しく脱がされていく。袖も胸に巻いていたサラシも解かれ、上半身が露わになったところで羞恥心が芽生えた。
小ぶりな胸を、霊夢は今さらながらに気にした。腕でその膨らみを隠し、霖之助から視線を逸らす。
「……綺麗だ」
しかし、彼のそんな一言で抵抗する意思はなくなり、腕を緩やかにどかされたあとは、頭が真っ白になった。
「ん、は……」
舐められ、咥えられ、弄られる。
思わず漏れる喘ぎ声に、色街で聞いたそれを思い出す。
違う。自分は不潔じゃない。好きな人と望んで肌を重ねているのだ。あそこで聞こえるモノよりも、いやらしくは、ないはず。
そんなことよりも、彼の荒々しい吐息が肌に当たり生温かく気持ち良かった。
「……ヒ、」
胸に顔を埋められる傍ら、股下で痺れるような感覚があった。すぐに察するが、確認したくはない。
袴から伝う感触から、明らかに濡れているのがわかったから。
だが、それも些末なこと。雨が降っているのだから、濡れていたって誤魔化せる……と。
(ゆび、先……入って、る……?)
中で動くそれのせいで声が漏れ出そうになるが、霊夢は必死に堪えた。
「あ……っ」
しかし、中と外を同時に愛撫されたとき、小さな抵抗は無意味に終わる。痺れは快楽へと変わり、霊夢は蕩けていった。
何もしていないのに、息だけは荒くなった。
そして、それらが何回か繰り返されたあと、霖之助の動きが止まる。
いや、上着の紐をほどいているところからして、何をしようとしているのかは容易に想像がついた。
怖い。だけど嬉しい。
母は言っていた。後悔しないように、大切な人を選べと。今ここに、一番好きな人がいる。
その人と一つになれる。
そうすれば、巫女としての自分は解放される。
巫女の力が弱まれば、それを口実として「博麗霊夢」から別の自分に生まれ変われる。そんな気がした。
「良いかい?」
確認され、頷く。
後悔はない。
今までの努力が意味をなさなくなるかもしれないが、それでも構わなかった。
ああ、これが幸せなのだ。
大切な人と一つになれる。繋がれる。
これこそが、自分が真に求めていた望みであって――
「霊夢から離れろ」