九、
霖之助さんは怒っているだろうな、と霊夢はぼんやりと考えつつ夜の京都の街を歩いていた。
雨は止んでいる。とはいえ、秋口の日没はさすがに冷えた。彼から譲り受けた蛇の目傘を腕にかけ、冷え始めた手先を霊夢は吐息で暖めた。
漏れ出た白の吐息に、霖之助の面影を見る。どこにいても、あの白髪は彼女にとって目印にもなったし、いつもそばにいてくれる心の支えでもあった。
だから、そんな彼から必要とされないのは、我慢がならなかった。
霊夢は思う。あの人は、自分が恋心を抱いているという事実に気づいているだろうか、と。
だが、依存するだけでは彼を想うに見合わないと、彼女は己に枷をつけている。
恩返しがしたい。そのためには、彼の役に立たなければならないのに、今日の失態はさすがに堪えた。好きな人に必要とされないのは、酷く胸が苦しくなる。
好きでいるためには、好きになってもらうには、自分は有用な存在であると知らしめなければならないのに、彼はいつもいつもこんなことを言う。
――退治屋なんてやめて、普通の生活を、幸せを、と。
私の幸せはあなたですよと、言えればどんなに楽だろうか。
言えなかった。言えるはずもなかった。
両親が死んで二年。それからずっとだ。
衣食住はもとより、自分を大切にしてくれたあの人に、さらに依存するなんて甘えにもほどがある。
想いを告げるなら、あの人に認められてから。そうでないと、見合わなさすぎるのだ。
自分に隠れて「鑑定士」としての裏稼業を営んでいるのは知っていた。その稼ぎのおかげで、自分は今まで飢え死にしなかったのだから。
でも、中には命を晒す危険な仕事もあったんじゃないかと霊夢は勘繰っていた。今まで一度か二度、かなり疲弊して香霖堂に帰ってきたことがあるから。
その時は、酒を飲んで酔っ払ってこけた、なんて誤魔化していたけれども。
「霖之助さんってば、私に心配をかけさせないよう下手な嘘つくんだもん。放っておけるわけ、ないじゃない」
行き交う人々に聞かれないほどの小ささで、霊夢は独りごちる。
霖之助が嘘をつくときの見分け方は簡単だ。
目をこちらに合わせようとしない。他の人間に対しても同じかどうかはわからないが、自分に嘘をつくとき、彼はいつもそんな仕草をしている。二年も一緒に住んでいれば、そんなこともわかってしまう。
「霖之助さんが嘘をついてたからって、私の今の行為を許してもらおうだなんて思ってもないけど」
ペチンと、小さく頬を張って気合いを入れ直す。
あの屋敷で起こしたような失態は、もう起こさない。男に怯えたのは事実で、霖之助の指摘ももっともだと思うが、もう引き返せない。二人で交わした規則を破ったのだから。
さらなる叱責は覚悟の上。何かしらの成果を香霖堂に持ち帰るため、自分は今ここにいる。
色街。もしくは遊廓。
香霖堂から南西へしばらく歩いたところに、そう呼ばれる地域があった。ここでどういった商売が行われているか、もちろん霊夢は知っている。
女が自分の体を男に売る、娼婦が多く働く場所。
そこの路地に隠れるようにして、彼女は行き交う人々の様子を伺っていた。
改めて考えてみる。一般的な服を着ていないからと言って、背格好を見れば誰でも自分を女と認識するはず。そして、ここにいる女と言えば、つまり遊女として見なされてしまうのではないか。
体つきは女らしくなってきている。胸はほどほどながら膨らんできているし、お尻も大きくなってきてもいる。色街に赴く男から見れば、自分が娼婦だと思われても仕方がないわけだが。
「…………」
生唾を呑み込み、緊張を誤魔化す。
怖くないわけではない。ただ、客を取っているのかと尋ねられたら否定すれば良いだけの話だ。
それに、ここへ来た理由にも根拠はあった。
男女での差はいくつかあるものの、訪問した先も紫から渡された資料にも、全てのキッカケは性的接触によってその人間の生気を喪失させている。
理由もまた似たり寄ったりで、親が自分の都合の良さそうなめぼしい男、ないし女を連れ込み、自分の娘や息子と会わせるというもの。
そういった、ある意味での一般家庭の話では、おそらくこれ以上の情報収集は見込めないのではと霊夢は考えていた。
彼女が着目したのは、性的接触が発端となったところ。
それらが頻繁に行われているところを重点的に調べれば、何らかの新情報が入手できるのではと閃いたのである。
八雲紫の資料には、色街における被害報告は記載されていなかった。未調査であるなら、収穫は期待できるのではと霊夢は考えている。
そして、彼女は仮説を立てていた。ここに離魂病騒ぎが蔓延していたらどうなっているだろうか、と。
きっと、富豪家族のときと同等かそれ以上に、遊女達やそれを雇う人間は離魂病騒ぎのことを隠すだろう。
男の相手ができないと客の耳に入れば、商売として成り立たなくなってしまうから。
(……となれば、目星をつけるなら最近休業しはじめた店よね。もし離魂病が蔓延してるなら、相手をするはずの女の人たちが働けなくなってるはずだから)
行くのか? 自分一人で?
決まってるだろう。行くしかないのだ。
霖之助の言いつけを破ってここまで来たのだ。今さら手ぶらで帰れるわけがない。
今一番に欲しいのは、汚名の挽回と実績。
決意を奮い立たせ、霊夢は色街の表通りへと足を踏み出した。
日はとうに沈んでいる。初秋の冷たい風と雨上がりの名残とで、空気は非常に肌寒かった。
そこかしこから男女の笑い声が聞こえる。オレンジ色のガス灯は漆をよく照らしだし、屋根の影と相まって妖しさが照らし出されていた。
それと、お香の匂い。
立ち止まらずに建物へ目を向ける。まるで牢のような網戸向かいの軒下に、顔に化粧を施した女が肌も露わな姿で煙管をふかしていた。
それを、霊夢は純粋に、お人形のようでとても綺麗だとも思った。
同時に、言い様のない恐怖にも見舞われる。
ここで働く彼女たちを否定するつもりは毛頭無い。何らかの事情があるのかもしれないし、それを深く詮索する権限だって、自分には何もない。
だけど、ここには一分一秒も居たくはないと霊夢は心の底から思った。
自分に身寄りはいない。霖之助が引き取ってくれたから良いモノの、一歩間違えればこんな類の場所で客を取っていたかもしれないのだ。
そんな「もしも」と、腕を掴んできた屋敷の男の顔が重なり、急な吐き気が催してくる。
痙攣した胃はすんでの所で収まってくれたが、気分は最悪だった。
ただ、やはり思い出すのはあの人の顔。
気にかけてもらえるだけで幸せだった。世話をしてくれたことに恩返しがしたい。それが空回って、今日は失敗続きだったけれども。
(一人前になるのよ霊夢。霖之助さんに恩返しをして認めてもらって、お母さんとお父さんの仇を取って、それで……)
自らに言い聞かせて耐える。逃げ出したくなる衝動を抑え、理想とする未来を思い浮かべることで、今という最悪を乗り切ろうとしていた。
……
どこかで、女のあえぎ声が聞こえた気がした。
気のせいだと無視しておく。
視界の隅の茶屋で、男が女数人を肩に抱いていた。
男の手は、女の襟の中に侵入していた。見えていないフリをして、とにかくやり過ごした。
気分がおかしくなる。
今度は、大屋敷で霖之助が巫女の性質を語っていたことを思い出した。それは、自分に初潮が来たとき、母が教えてくれたことでもある。
清らかでいれば巫女は本来の力を常に引き出せるが、男を受け入れると、女の胎内に穢れが侵入することとなり、その力が酷く弱まるらしい。
――だからあなたも、退治屋を継ぐなら、本当に好きな人を選びなさい。後悔しないように。
(お母さん……)
母は、自分を産んでも退治屋をやめなかった。ひとえに、それは才能でもあり努力も怠らなかったからだと、霊夢は霖之助から聞かされていた。
退治屋として働く母を見たことはない。だが、格好いいんだろうなと、母のようになりたいなと、幼い頃からそんな憧憬と将来を夢見ていたこともあった。
しかし、今は。
(何してるんだろう、私)
男女のまぐわう街で佇み、怯えている。
調査どころの話ではない。他人に話しかけることさえ出来る気がしなかった。
わかっていた。自分は霖之助に恩返しがしたいのではなく、もっと別の。
(不潔よ、不潔だわこんなの)
思い浮かんだ未来に恐れを抱く。それは自身の全てを否定する考えだったから。
首を振って思考を払い、当初の目的を改めて認識する。
ここに来たのは何のためだ。離魂病事件の調査のためだ。
どうして一人で来た。決まってる。霖之助に認められたくて――
その時だった。
「キャッ!」
通り過ぎようとした、横手にある狭い路地。そこから急に伸びてきた腕に掴まれ、一気に引き寄せられてしまったのだ。
(暴漢!?)
不意を突かれながらも霊夢は臨戦態勢に入る。今度は後れを取らない。こんなことのために修練を積んだわけではないが、相手が普通の人間なら対処はいくらでも思いつく。
掴まれた腕を逆に掴み返し、そして――
「君は何を考えているんだ!!」
「……っ!」
突然怒鳴られると同時、聞き覚えのある声に霊夢は一瞬戸惑ってしまう。長身で白髪、眼鏡と確認できたところで彼女は腕の正体に気づいた。
「霖之助さん……え?」
名前を呟いたところで、さらに体を引き寄せられる。
彼の胸に顔を押しつけられる格好となり、遅れて、自分がどういった状況に陥ったのかを察知する。
抱きしめられているのだ。強く、大きく。
「もしものことがあってからじゃ遅いんだぞ! どうしてこんな無茶をしたんだ全く!」
咎められてはいるがいつもの迫力はなく、ただただ彼女が無事であったことを安心しているような、そんな喉の詰まる言い方に、霊夢は強い罪悪感に囚われた。
肩を抱かれ、頭を撫でてくるそれぞれの手は、優しくてこちらを安心させてくれる。それに応えるように、霊夢はこう返事をした。
「ご、ごめんなさい。でも私、霖之助さんの力になりたくて、あのときも私、全然役に立たなかったし。せめて何か新しい情報を手に入れたくて」
「だから何度も言ってるだろう。君は何も考えなくて良いんだ。生活のことも仕事のことも全部僕に任せて、君は普通の暮らしをすれば良いんだ、って」
「でも、それじゃあ不公平よ。だって私は」
「ご両親の仇を取りたいって言うんだろ、わかってる。でも、君に何かあったら僕は先代達に顔向けができなくなるんだよ」
もちろん、それは常日頃から痛感してることでもある。彼がどんな想いで自分を引き取ってくれたのか、世話をしてくれたのか。
両親を亡くした悲劇を繰り返させないためだ。
「とりあえず帰ろう。お説教はまた今度だ。神社まで送るよ」
頷き、二人は手を繋いで色街から離れていった。