五、
「『僕に合わせろ』って、意味がわからないんだけど」
耳打ちを返されたときの台詞である。
次の訪問先へ赴く雨中。相変わらず、霖之助が外に出た途端雨が降った。
二人は蛇の目傘の下、小雨を斬りながら道を行く。
不満げに呟く霊夢に、霖之助は雨音でかき消されるような小さな声で、静かに理由を告げた。
「あの母親には、もう情報を聞き出す価値はないと、そう思ったからさ」
まるで、道の邪魔をしているゴミを見るような、そんな険しい表情で彼は答えた。
霊夢は息を呑む。二年近く彼と共に過ごしてきたが、今まで見たことのない感情に怖さを持ったから。
「じゃ、じゃあ、解決できる目処がたったっていうのは?」
「嘘だよ。あそこに一分一秒でも居たくなかったからね、お暇させてもらう口実を適当に見繕っただけさ」
さすがにそれは、と霊夢は言いかけたが、彼女自身も長居はしたくなかったこともあり、口を噤んで別の疑問を投げかけた。
「娘さんの状態がわかったっていうのは? あれも嘘なの?」
「嘘とは少し違うかな。あの母親の言っていた男の正体と関係していることは、まず間違いないだろうからね。それを確認できただけで充分だよ。君は娘さんの体を調べてくれたみたいだけど、あれは正直あまり意味はないかな」
抑揚なく語る彼の言葉を聞き、霊夢は言いようのない不安に胸を締め付けられた。
自分の知る森近霖之助ではない。香霖堂で働く彼は、もっと気さくで口うるさくて過保護で、こんな諦観しかもたない人間ではないはずなのに。
「仕事が思っていたモノと違って落胆したかい? 『鑑定』と言ったはずだよ。ハーンさんの資料に間違いがないか確認するための訪問なんだ」
変わらず、落ち着いた言葉からは迷いも何も表れていない。むしろこれが平常であるかのような振る舞いに、霊夢は困惑を隠しきれなかった。
「お、お母さんや紫さんも、他人にそんな接し方をしてたの?」
妖怪に困る者達とどのようなやりとりをしていたのか。妖怪退治をこなしていた母達も、彼のように割り切った思考でいたのか。それとも。
「君が知る必要はないと思うけどね。少なくとも、僕はこうやってきた。ハーンさんが集めた情報に間違いがないか『鑑定』し精査する。それを巫女に伝えて指示をあおぎ、敵の正体を突き止め次第退治する。そんな流れだったんだけど」
だから、それ以上も以下もないと霖之助は語る。
妖怪退治ではなく鑑定。数時間のうちに何度と言われた言葉だったが、その違いに霊夢はやっと気づいた。
自分は、未だに森近霖之助の保護下にいなければ何もできないという現実。
そして、人助けとは違う行動理念で。
「これから退治屋稼業をしようと思ってるなら、覚悟したほうが良いよ。人間は、妖怪や怪異に狙われているんじゃなく、人間が妖怪や怪異を自らおびき出しているということをね」
あの母親が連れ込んだ男。まず間違いなく、何らかの人外であることに変わりない。しかし、そうさせたのは人間の弱さなのだと、霖之助は冷めた口調で語った。
「帰るかい? 君が夢見る少女雑誌とはかけ離れた汚さが、多分これからもずっと続くよ?」
彼の気遣いから、布団に伏せっていた娘のことを霊夢は思い出す。
自分の母親に見知らぬ男を紹介され、少女の夢見る夜を汚されたあの娘。
話によれば、それは貧困に期している家ならどこにだって起こりうることらしい。娘を玉の輿にするため、有名学校の学生を親が連れ込み、一夜を共に過ごさせる。
霊夢にとっては吐き気を催す話だった。
それでも、霖之助の提案には首を横に振る。
理想とはほど遠い現実を見せられて、落ち込んでいることは事実だが、それでも希望を持ちたかったのだ。
母のようになりたい。
妖怪退治に誇りを持っていて、報酬を自慢げに見せびらかして豪快に笑う、力強い母。その口から語られる武勇伝は、霊夢にとってはおとぎ話のようで。
そして、隣に居る彼、森近霖之助にも認めて欲しかった。
両親を失い途方に暮れている頃、彼が自分を養ってくれていたことは紛れもない事実で、いつかは独立して恩返しをしなければならないのだと、内心そう密かに誓っていた。
だから、どんなに理想と現実とが違っていても、彼に着いていかなくてはならない。
「……行くわ。まだ、私は全然平気だから」
見限らないで、と。声に出しそうになったが霊夢はぐっとこらえた。
霖之助は表情を変えず頷き、次の目的地を告げる。
雨は変わらず、二人の会話をかき消すかのように降っていた。