エピローグ 一/二
嗅ぎ慣れない出汁の匂いで、霖之助は目を覚ました。
店内は相変わらず日当たりが悪いが、一部から差す朝日の角度と量で、今が何時かを瞬時に把握する。
確認のため、店内の壁に飾り付けてある時計を眺める。
七時半。いつもより二時間ほど寝坊してしまったらしく眼鏡を外して瞼をこすった。
その時、体から羽織った覚えのない毛布が垂れ下がった。誰かが気を利かせてくれたのだろうと、内心感謝して体を起こす。
それにしても、と。台所からする良い匂いに、霖之助は不思議に思った。朝ご飯はいつも自分一人で用意している。霊夢が神社に泊まるときも、香霖堂に泊まるときも、いつもは彼が担う役目。
誰かが朝餉の用意をしてくれている。その人物に心当たりがあり、お礼を言おうと台所へ足を運んだところで、霖之助は驚くべき光景を目にすることになる。
「あ、ちょうど起きてきたみたいよ。おはようございます森近さん。ごめんなさいね、勝手に食材を使わせてもらってますわ。だけどもう少し待っていてくださいね。あとちょっとで支度ができますから」
「……えっと……ハイ」
八雲紫が台所を使っているのは予想していたが、その隣。
香霖堂の着物とエプロンを身につけた、博麗霊夢がそこに立っていたのである。
彼女には炊事を全くさせたことはない。衣食住のうち、寝泊まりする場所は香霖堂と博麗神社の二つあるが、衣食はほとんど霖之助が準備する役目なのだ。
「駄目ですわよ森近さん。霊夢には幸せになってほしいなんて言っておきながら、この子に花嫁修業を一切させていなかっただなんて、無責任にもほどがありますわ」
「ゆ、紫さん!」
彼女の物言いには嫌みが含まれていない。どちらかというと、霊夢を茶化すような意味合いが込められていたみたいで、本人は顔を赤らめて抗議していた。
おはようございますと挨拶を返し、霖之助は一応の弁護を図っておく。
「仕方がないですよ。博麗神社の伝統というか、衣食住の世話は神主である男が担うものになってるんです。霊夢は生まれたときからそういう習慣の中育ってきましたから、自然と僕がやることになってましてね」
「ま、それは羨ましいですわね。男尊女卑な大正時代に甘えてる男達へ聞かせてやりたい習慣ですわ。霊夢、結婚するなら森近さんみたいな人を選ぶのよ」
「~~っ」
顔を真っ赤にして何か言いたげに、霊夢は顔を横にブンブンと振った。言葉にできない恥ずかしさがあったのだろう。
それを見て、霖之助は、親子みたいで微笑ましいなと思った。どこの家庭にもある、普通の光景。
それに、八雲紫は芝居をしている。霊夢と、自分とを気遣った優しい芝居だ。
神主が衣食住を担う博麗神社の伝統と習慣を、彼女は知っているはずなのだから。
「森近さん。味見をしてくださらない? この子が初めて作ったお味噌汁ですの。アドバイスをいくつかご教授願いますわ」
「……はい。頂きます」
小皿に薄く盛られたそれは、白い湯気が立っていた。
香りも、そこにある光景も、全て偽りではないことに霖之助は安堵する。こんな当たり前を目指していたのに、いつからそれを諦めていたのか。
いや、諦めていたことさえ自分は気づいていなかったのかもしれないと、彼は苦々しくその怒りを飲み込む。
本当は、霊夢と生活を始めた頃、料理を一緒にしないかと誘ったことがあった。しかし、そんなことよりも戦い方を教えて欲しいと返事をした彼女とケンカになったこともあり、それ以降は誘おうとも思っていなかったのだ。
「うん、おいしいよ。でも、僕はもう少し濃い方が好きかな?」
「ですってよ霊夢。わがままな殿方ですわね」
頼んでおいてそのお小言はないだろうと、霖之助は苦笑して大仰に肩を竦めて見せる紫に小皿を返した。そして相変わらず彼女に振り回される霊夢。
他愛のないやり取りが続いた。
以降も、いくつか味見を頼まれては会話に花が咲く。主に、八雲紫が霊夢をからかっているだけだが、彼女は嫌悪感を見せず、言われるがままに手を動かしていて、どこか嬉しそうにも見える。
昨日、霊夢と八雲紫との間にどんなやり取りが成されたのか、霖之助は知らない。
だが、彼は内心で八雲紫に強く感謝した。あんなことがあったからこその心境の変化だと言われればそうなのかもしれないが、自分一人では到底できない雰囲気作りに、自身も霊夢も救われた気がしたから。
調理や盛りつけは、八雲紫の監修の下、霊夢が全てを担った。ほどなくして食卓に並べられた朝食は、いくつか失敗したものも含まれていたが、一目で真心や一所懸命さが垣間見えるものだった。
味の感想を霊夢に伝えつつ、居間でも三人賑やかになった。どこから調達したのか、霊夢はメモを取りつつ霖之助や紫の助言を書き記しながら、自分で作った食事を口に運んでいく。
行儀が悪いですわと、紫が注意したところで、霖之助はこんなことを言った。
「何だか、霊夢とハーンさんが親子のように見えますね。少し、羨ましいです」
「あら、じゃあ森近さん、私と祝言でもあげます? そうすれば、三人家族になれるんじゃなくて?」
身をわざとらしくくねらせて、紫は霖之助に顔を寄せる。渾身の妖しさ織りなす笑みも含めて。
「ハハッ、丁重にお断りさせて頂きますよ」
「……冗談とわかっていてもなんかムカつきますわね」
そこで霊夢が堪らず吹き出し、それはどういう意味だと紫が茶々をいれる。
三人が三人とも血縁があるわけではない。それでも、本当の家族みたいだと霖之助は思った。ごっこでも何でも、半ば諦めかけていた景色に希望を持てたのは、偏に八雲紫のおかげ。
片付けは全員で行った。霊夢は相変わらずよそよそしさが抜けなかったが、昨日の惨状を鑑みれば、奇跡に近い回復なのではと思っている。
昨晩、八雲紫は言っていた。
霊夢は強い子だと。それを証明してみせると。
方法は単純だったが、その単純なことさえ自分はできていなかったわけで、自分にも反省すべき点は多いと、彼は改めて認識できた。
「それじゃあ、お暇させていただきますわね。これは依頼料です。一宿一飯の恩も上乗せしておきましたので、生活の役に立ててもらえれば幸いですわ」
ほどなくして、八雲紫は事件の後始末と東京に発つ準備をするとのことで、朝ご飯の片付けが終わったあと、別れの挨拶をしたいと願い出てきた。
依頼料に関しては強く拒否をしたのだが、八雲紫は頑として霖之助の提案を呑まなかった。
鑑定できなかった依頼。しかし、それも鑑定の内に入るからと屁理屈をこねられ、半ば無理矢理料金を押しつけられる形となる。
「気が引けるなら、貸しだと思っていてくださいな。いつの日か返して頂ければ結構ですから。後始末の件も含めて、ね」
また近いうちに京都に来る予定がある、その時にでもと八雲紫は和やかに笑った。
僅かに朝日差し込む、ほの暗い香霖堂内での別れ。
外に出てもらわなくても良い。見送りは店内までで充分だと言う彼女は、天叢雲を使った霖之助の負担を慮ってのこと。
一方で、霊夢が紫の発言に首を傾げていた。
ああそうか、と。彼女に気づいた紫は、こう説明する。
「後始末っていうのは、この事件に関わった人たちから、霊夢と森近さんに接触した記憶を魔術で消しに行くことですのよ。世間に騒がれると、私たちのような人間はいろいろと面倒となりますから」
それにねと、紫は言葉を濁しながら続ける。
「夢魔に邪気で汚された人たちを元に戻す聖水。これを昨日作っておきましたわ。原因がわかれば、対処方法もわかる。これを被害にあった人たちへ配りたいんですの」
そういう意味。
しかし、夢魔の名前が出たところで霊夢は肩を震わせた。彼女にとって、昨日のことはトラウマでしかなく、立ち直るのにどれくらいかかるか、紫と霖之助には想像もつかなかったが。
紫は霊夢をそっと抱きしめる。
そして、耳元で何かを囁くと彼女の震えは止まり、それを確認すると紫は体を離して優しげに笑った。
「頑張ってね霊夢。あなたは、とても強い女の子なんだから」
「……はい」
二人にしかわからない会話を交わす。彼女らがどんなやり取りをしたのか知りたくもあったが、霖之助も挨拶に倣い、別れの言葉を送る。
「お世話になりましたわね。それでは、ごきげんよう」
手を振り、八雲紫は去って行った。
最後の最後まで流暢な日本語は崩さず、日本人以上に日本を愛している魔術師の後ろ姿は、優雅で誇らしい。
彼女に負けない強さを持ちたいと、霖之助も霊夢も互いに同じ事を思うのだった。
「ご、ごめんなさい霖之助さん。昨日はその……たくさん迷惑かけちゃって」
八雲紫を見送った直後、霊夢は恥ずかしげに、声量小さく、目を逸らしながらそう言った。
霖之助は、その言葉に対する返答をすぐには見つけられない。昨晩、彼女が遭った悲劇に対し、咎めることも庇うことも、全ては間違ってる気もしたから。
失敗だったのは、言葉を濁している様子を霊夢に悟られてしまったこと。
異性であるがゆえに、指摘しづらい部分もある。
しかし、知りたいことの大半は、八雲紫が聞き伝えてくれたことを思い出す。
そんな沈黙を霊夢はどう思ったのか。
「あ、ほら。霖之助さんには、ちゃんと謝ってなかったじゃない? だから、ケジメはつけなきゃなって思ってさ。それに、紫さんにも叱られちゃった。退治屋を稼業にするなら、先輩の言うことをちゃんと守らないと、って」
気持ちを察してくれた彼女に、霖之助は素直に感謝した。おかげで、霊夢へ返事をすることができるから。
「……さっき、ハーンさんに何を耳打ちされたんだい?」
話題を変える。
もう気にしていないよと、君はもう充分な想いをしたんだよと、そう伝えるために。
「うん、そのことなんだけどね……霖之助さんにお願いがあるの」
言って、霊夢は寝室に戻っていき、何かを携えて香霖堂の店内に入ってきた。
その手には、泥で濁り、夢魔によって引き裂かれた先代の形見である紅白の巫女服があり。
「お裁縫を教えて欲しいの。紫さんから、霖之助さんは何でもできるって聞いたし。ちょっとボロボロになりすぎてるけどさ、やっぱりこれを着ないと、博麗の巫女じゃないかなって思って」
そう零す彼女の声と体は震えていた。
当然だろう。恥にまみれた目に遭い、その記憶が染みついているであろうそれを、仕立て直してまた着ようと言うのだ。
「霊夢、それは」
「紫さんが励ましてくれたの」
怯えが勝る気持ちに、さすがに霖之助は口を挟もうとするが、それを拒むように霊夢は主張を続ける。
「『あなたの初めては、まだまだたくさん残ってる。これから、残りの初めてを大切な人に知ってもらえれば、いつかきっと辛くなくなるはず。だから、頑張ってね』って、別れ際にそう言ってくれたの」
先ほど耳打ちされたこと。
初めて朝ご飯を作り、それを霖之助に振る舞ったのは、昨晩にそう紫が諭してくれたからだと、霊夢は勇気を振り絞って伝えた。
そして次は、初めての裁縫を彼から学ぼうとしている。
「霖之助さん。私、やっぱり退治屋になりたい。失敗して迷惑かけた口が何を言っても、説得力がないのはわかってる。でも……」
そこで、霊夢はポロポロと涙をこぼした。次の言葉を紡げず焦り始め、しゃくりあげる声と体に意思がついていかない様子で。
「あ、れ? こんな……泣くつもりなんて、ヒック、なかったのに、な……ご、ごめん、なさい……私……」
拭っても拭っても、涙は止めどなく溢れていった。
そう見繕わなければ見捨てられると、彼女は思っているのだろうか。そんな気持ちは微塵もないのにと、霖之助は伝えようともするが。
しかし、彼女を励ます資格が自分にあるのかどうか、彼は泣きじゃくる霊夢を見て懊悩した。
元から彼女を騙している身だ。その嘘を信じ込み、それを生きる糧としている以上、霊夢を肯定も否定もできない。できるのは、あくまで身を案じるだけ。
一方で、八雲紫の言っていた「明日、霊夢が強いことを証明してみせる」という台詞の真意も理解した。
朝食作りもその一環だが、昨晩風呂場で霊夢にこれからどうしたいかを問い質したのだろう。
その答えがこれだ。
震えながら泣きながら、彼女はまだ戦おうとしている。
れっきとした、勇気と覚悟だ。
改めて、自分に何ができるかを考える。
嘘を突き通す覚悟? 彼女を守り通す覚悟?
いくつか思い浮かぶが、そのどれもが霊夢と肩を並べられるものでもないことに、霖之助は自身に嫌悪する。
彼女の純粋な強さに比べれば、自分は……。
「悪いけど、その服を一緒に直してあげることはできない」
彼女の幸せを想うのであれば、いつか来るかも知れない断罪の日を、覚悟して待てば良い。
嘘を突き通していたことが彼女に知られる。
それまでは。
「僕が仕立て直すよ。これだけボロボロになってたら、素人の腕じゃあ何日かかるかわからないからね。裁縫は別の機会に君に教える。それで良いかい?」
「え、でも……」
霊夢の意思を尊重し、なおかつ自分が彼女を守る。
それが、今の彼にできる最大限の覚悟だった。
「汚い、よ? ところどころ泥だらけだし」
泥は洗えば落ちる。それは霊夢自身にもわかっていること。その上で、彼女が言う「汚い」の意味をはき違える霖之助ではない。
霊夢から巫女服を受け取り、それを見つめつつ彼は繰り返しこう言う。
「汚くなんかないさ。この服も君も、汚いわけがない」
「…………」
「昨日、神社でも言っただろう? 君がどんな目に合っていようと、どう変わってしまっていようと、僕は君を守り続けるってね」
これは嘘ではない。
だが、彼女に真実が知られるまで、真実を知らせるまでは、嘘を貫き通す。
虚言と本音が表裏に重なった、いびつな覚悟。
霖之助の返事を聞くと、霊夢は涙を拭うのをやめ、赤ん坊のように泣きじゃくり始めた。
そんな彼女の頭を、優しく撫でてあげる。
あやすように、
ゆっくりと、
何度も、
何度も。
彼女に笑顔が戻れば、自分もまた報われる。
そう信じながら、霖之助は巫女服を強く握りしめるのだった。
これからも魅力的な作品期待しています!!
面白かったです
独自色が強い分だけ違和感は避けられない部分はありますが、物語としては面白かったです。
霊夢の性格が人間的過ぎたかな、という部分が気になりました。霖之助と紫はよかった。
大正ロマン的な描写がもっとあればよかったかも?