Coolier - 新生・東方創想話

私は如何にして心配するのを止めて幻想郷を愛するようになったか

2026/07/07 01:48:06
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序章「空位」


 雨の朝に、私は帳尻の合わない報告をした。

 結界の見回りは私の職掌である。綻びは九箇所。前回の見回りから二つ増えた。いずれも髪の毛ほどの細さで、その場で繕える程度のものではあった。繕った。次に、畏れの帳面。人里の秋祭は四つのうち一つが取りやめになった。夜道を恐れて回り道をする者は十年前の六割、肝を試しに墓地へ出る子供にいたっては半分に満たない。妖怪の側の実入りも渋い。脅かしに出る者が怠けているのではない。脅かしても、返ってくる畏れが薄いのだ。同じ里から、同じ形の畏れを、同じだけ、何十年も徴し続けてきた。同じ田から同じ実を穫り続ければ、土は痩せる。数えられる畏れは、数えるそばから目減りしていた。

 私は計算の式神である。計算は間違えない。それでも帳尻が合わないのなら、答えは一つしかない——式の立て方そのものが、違っているのだ。

 そこまで申し上げたところで、紫様は立ち上がられた。

 「出かけるわ」

 報告への答えはなかった。なかった、ということを帳面の隅に書き留めてから、私は傘を取って随行した。




 博麗神社は幻想郷の東の果て、結界の縁に建っている。人里からは遠く、参るには険しい道を行かねばならない。もっとも、その朝の参道に人の足跡は一つもなかった。

 境内は荒れていた。石畳には落ち葉が雨に貼りついたまま、賽銭箱の上には枯枝が渡っていた。掃き清められない神社というものは、存外に早く、ただの古い建物になる。社務所の雨戸は半ば閉ざされ、その奥に巫女がいた。起きてはいる。ただそれだけの佇まいで、火の気のない部屋の中に座っていた。

 「霊夢」

 紫様は縁側の前に立たれた。廂は雨を防ぐ位置になく、私は後ろから傘を差しかけた。

 「境内が荒れているわ。掃除。お参りの相手。結界の守り。どれも巫女の勤めよ」

 巫女は答えなかった。顔を上げもしなかった。紫様は言葉を重ねられたが、重ねられた言葉は雨音に紛れて、叱責というより、誰も答えを合わせに来ない帳面の読み上げのように聞こえた。

 返事の代わりに、風が来た。

 雨足が鳥居の上で割れて、左右へ流れた。射命丸文——山で新聞をやっている鴉天狗が、風で雨を払いながら降りてきたのだ。取材か、風の便りに聞いたか、ただの気まぐれか。翼を濡らさずに飛ぶ天狗を、私はほかに知らない。

 「おやおや。お客の多い日ですね」

 新聞屋は紫様に形ばかりの会釈をして、それきり賢者を無視した。縁側に腰かけ、社務所の奥を覗き込む。

 「ひどい顔ですよ、霊夢さん。売れ残った新聞みたいな顔だ」

 答えはない。新聞屋は肩をすくめた。

 「巫女なんて因果な勤めだ。そんなに嫌なら、転職すればいい。山じゃ珍しくもありません。天狗を千年やったって、勤めを替える者は替える」

 冗談だった。すくなくとも、冗談の口調ではあった。そして巫女が、その朝はじめて口をきいた。

 「ならあんたのお嫁さんがいい」

 気まぐれとも、自棄ともつかない、平たい声だった。新聞屋は笑おうとして、笑いそこねた。

 「……馬鹿を言っちゃいけません。心が弱っていたら魑魅魍魎に付け込まれる。巫女がそれでどうするんです」

 叱る声は、そこで止まった。言ってしまってから、自分の言葉のなかに自分で何かを見つけた顔だった。魑魅魍魎に、付け込まれる——この境内で、それはたとえ話ではない。新聞屋は縁側から立ち上がると、こんどは紫様のほうを向いた。声が、素の、山の言葉になっていた。

 「あんた、この子の『おかあさん』なんだろ」

 「その役目は、できない」

 答えは短かった。私が傘の柄を握り直した、それだけの間のことだった。新聞屋は身を屈め、巫女を抱え上げた。迷いのない動きだった。巫女は抗わなかった。抱えられた腕の中で、拾われることに慣れた猫のように、ただ軽くなっていた。

 風が鳴り、二つの影が雨の空へ上がった。

 私は傘を捨てて飛び出した。「何事ですか」——誰何は形ばかりで、見れば分かる。天狗が、博麗の巫女を、賢者の眼前で攫っていく。私は指先に狐火を集めた。

 「あの鴉め」

 そのとき、空が裂けた。

 弾幕ではない。雲が、裂けたのだ。神社の上から西の山なみまで、雨雲が音もなく左右へ押しのけられ、一筋の晴れ間が通った。雨が、その道筋の分だけ止んだ。紫様が扇を閉じられるのが見えた。

 「なぜ撃ち落さないのです」

 「雨の中飛んだら、風邪をひくじゃないの。……私の霊夢が」

 「……なぜ、撃ち落さないのです。あなたなら、霊夢を無傷で取り戻すことは容易いはずだ」

 自分の言葉遣いが乱れていることには、言い終わってから気づいた。紫様は、晴れ間の奥へ小さくなっていく二つの影を眺めたまま、閉じた扇の先を頬に当てられた。

 「なぜかしらね」

 それきりだった。狐火は行き場を失って、指先で消えた。




 帰路、紫様はスキマをお使いにならなかった。雨の上がった道を、歩いて戻られた。

 「朝の報告だけれど」

 と、途中で言われた。

 「綻びが九つ。祭が三つ。畏れの実入りは目減りするばかり。——藍、貴方の計算は合っているわ。帳尻が合わないのは、式の立て方が違っているからよ」

 「式を、どう立て直すのです」

 しばらく、答えはなかった。屋敷の門が見えるころになって、紫様は独り言のように言われた。

 「変化が必要だ」

 それは、いつもの紫様の声ではなかった。帳面に書きつけるような、乾いた声だった。

 博麗の巫女の席は、その朝から空位になった。結界の要の空位を、賢者は埋めもせず、取り戻しもしなかった。私は職掌に従い、帳面の新しい頁にその旨を記した。記しながら、一つだけ、書かずにおいたことがある。

 雨は、山までの道のりの分だけ、止んでいた。

(序章・了)

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