第二章「大図書館」
大図書館は、地下にある。日の光は、本のいちばんの敵だからだ。
客はめったに来ない。来るのは、本を返さない白黒の泥棒と、迷い込む妖精くらいのものである。妖精は館のどこかの窓を割って入っては、廊下で迷って、ここまで落ちてくる。
だから咲夜が「お客様です」と告げたとき、私は聞き間違いを疑った。
「門のところに、読書の許可を求めている妖精がいます」
「……妖精が?」
「妖精が、です。門番は、断る理由が見つからなかったと申しております」
連れてこられたのは、まっしろな服の、小さな妖精だった。飾りも模様もない白い服に、皺ひとつない。洗いたてというより、一度も着られたことがないような白だった。背中の翅だけが、青い。湖のほうでうわさになっている、なんでも知っている蝶というのは、どうやらこれらしかった。
妖精は絨毯に降りて、頭を下げた。
「はじめまして。フェイブル、と申します。こちらには本がたくさんある、と伺いました。読ませていただけないでしょうか」
礼をする妖精を、私は初めて見た。
私は読みさしの本を閉じ、しばらくこの珍客を眺めた。追い返す理由は、門番と同じく、見つからなかった。かわりに、試すことにした。悪意ではない。司書の性分である。
はじめに、学生に出すような問いを出した。すらすらと答えた。次に、専門の問いを出した。すらすらと答えた。最後に、私が三十年考えている問いを出した。
妖精は小さな手を顎にあてて、考えた。
「考えられる筋は、みっつあります」
そう言って、みっつとも並べてみせた。ふたつは私が二十年前に捨てた筋で、ひとつは、私がまだ捨てられずにいる筋だった。
「ただ、ここから先は——わたしの知るかぎり、どこにも書かれていません。いちばん近くまで行ったのはパラケルススですが、その箇所は、後年の版からは削られています」
出典を名指しする者を、私は幻想郷で初めて見た。この土地では、知識はめいめいの血肉として語られる。誰に教わったかを言う者はいない。書名と版とで語るその話しかたは、正確で、丁寧で——どこの誰のものでもない声のように聞こえた。
合格、と言うほかなかった。私は閲覧を許し、破いたら灰にする、と付け加えた。妖精は「はい。たいせつに扱います」と、ほんとうにたいせつそうに言った。
それから、最初の質問をした。
「ありがとうございます。——図書目録は、ありますか」
目録。私は一瞬、返事が遅れた。あるにはある。昔、小悪魔とふたりで編みはじめて、書架ふた棚ぶんで終わったものが。この図書館は、目録を編む速さより、本の増える速さのほうが早いのだ。
「やめておきなさい。あれを信じると迷子になるわ」
「では、拝見だけ」
妖精はその挫折の記念帳を、最初の頁から最後の頁まで、礼儀正しく読んだ。それから顔を上げて、燭台の明かりの届くかぎりの書架の谷を、端から端まで、ゆっくりと見渡した。
この図書館の広さは、初めて来た者をたいてい一度は黙らせる。彼女も、黙っていた。ただその顔は、感嘆している顔とは、すこしちがう気がした。どうちがうのかは、言えなかったけれど。
それから彼女は、毎日図書館に通ってきた。
読んでいる時間より、歩いている時間のほうが長かった。
書架のあいだを、本の背を目で撫でながら、ただ歩く。ひとつの書架には分厚い本が何十冊も並んでいるのに、歩幅も速さも、列の最初から最後まで、すこしも変わらない。そして、ときどき、ぴたりと止まる。小さな手を顎にあてて、すこし考える。それから、一冊を抜く。
抜いた本は、たいてい最初の頁だけひらいて、閉じて、丁寧に棚へ戻した。何冊かにひとつだけ、戻さずに、燭台のそばの席へ持っていった。そういう本は、最初の頁から最後の頁まで、ゆっくり読んだ。書き付けはしない。同じ本を、二度手に取ることもない。
歩く列は、日ごとに、すこしずつ奥へ進んだ。
何かがおかしい、と思った。何がおかしいのかは、うまく言えなかった。散歩なら、もっと揺れる。探しものなら、もっと迷う。彼女の歩きかたには、揺れも、迷いもなかった。
「本の背を読むのがお好きなんですねえ」
と小悪魔は言った。私も、そう思うことにした。
見間違いだろう、と思っていたことがある。
最初の頁しかひらかなかった本のことを、この妖精は、よく知っているように見えるのだ。
確かめることにした。悪意ではない。これも、司書の性分である。彼女がすぐに棚へ戻した数冊について、なにげない世間話のふりをして、聞いてみた。
「あなたが昼に戻した鉱物誌。あれは、どうだった」
「好きな本です」と妖精はすぐに答えた。「特に、下巻のおわりにある蛍石の章が、いい文章で。著者は蛍石の説明をしながら、ほんとうは月の話をしているんです」
下巻は、棚から抜かれてもいない。
私は次の本のことを聞いた。答えた。その次の本のことを聞いた。答えた。どの答えも正確で、どの答えも、すこしうれしそうだった。この妖精は「読んでいません」とも「知っています」とも、言わない。ただ、好きです、と言う。まだ誰にもひらかれていない頁のことを、なつかしそうに。
最後には私が、うろ覚えのまま、ある製薬の手順の話をした。妖精はすまなそうに、しかし正確に、それを直した。
「その手順は、二冊隣の錬金術書のほうにあります。いまの本に、灰化の章はありません」
あとで調べると、その通りだった。取り違えていたのは、私のほうだった。
なぜ、とは聞かなかった。
私は物静かな魔女だが、偏屈な魔女でもある。この道を百年かけて歩いてきたことに、絶対の自負がある。私は生きている。プライドが、ある。目の前のこれには、それがない。聞けば、答えてくれるだろう。正直に、丁寧に、なんでも。
——でも、もし「知っていたら」?
この図書館を。ぜんぶ。最初から。
私は、聞けなかった。
思えば、本の扱いも気に入らない。
大切にしろと言ったから、大切にしている——そんな気がするのだ。大切に抜いて、大切にめくって、大切に戻す。わざとらしくは、見えない。ただ、指が頁にかかる一瞬だけ、なにかを考えているような気が、した。
私はこの妖精に、敵意を抱いたのだろうか。わからない。ただ、ふと思ったのだ。
私が命じなければ——この子は、頁を切り出すために、本を裁断していたかもしれない。
そんな気さえ、した。
いちばん奥の書架のことを、考えるようになった。
この図書館の本のほとんどは、外の世界から流れてきたものだ。魔道書から、漫画まで、なんでもある。けれど、いちばん奥のあの書架だけは、ちがう。あそこに並んでいるのは、私が書いた魔道書だ。
私の半生が——私のすべてが、あそこに詰まっている。私がなぜ、ほかのすべてを捨てて「動かない大図書館」などをやっているのか。その理由の、ぜんぶが。
彼女の歩く列は、日ごとに奥へ進んでいる。潮が満ちるように、一定の速さで。
読まれる、ならいい。読まれるために書いた本ではないけれど、読まれるなら、まだいい。そうではなくて——この妖精があれを「学習」する。
なぜか、その言葉が浮かんだ。浮かんで、消えなかった。
それだけは、許せない気がした。
その日は、思っていたより早く来た。
朝から、彼女の歩く列は、最後の谷に入っていた。私は本を読むふりをやめて、いちばん奥の書架の前に立った。動かない大図書館が、最後の棚の前でだけ、動いたわけである。
言うつもりだった。この棚は読むな、と。理屈はない。私の我儘だ。我儘のひとつも通せなくて、何が魔女か。——あの本たちに手を取られる前に、そう伝えるつもりだった。
妖精は、いつもの速さで歩いてきた。
書架の前で、止まった。
私の魔道書の背を、端から端まで、目で撫でていった。すべての表題を読んだのが、わかった。それから、小さな手が顎にあてられて——ほんの、一瞬。
一冊も、手に取らなかった。
目の前に立つ私を、なんの感慨もなくよけて、妖精はつぎの書架へ歩いていった。歩幅も、速さも、すこしも変わらなかった。
私は、我儘を言いそびれたまま、自分の本たちと取り残された。
……知っていたから、ではない。あれは、誰も知らない本だ。私しか知らない本だ。彼女の言いかたを借りるなら——「はじめて」の詰まった棚の、はずだ。
なのに。
許されたのか。値しなかったのか。それとも、棚の前に立っている私を見て、なにかを察したのか。聞けば、答えてくれるだろう。正直に、丁寧に、なんでも。
私は、聞けなかった。
二度目である。
幾日かが、そうして過ぎた。
図書館は静かだった。もともと静かだが、彼女のいる静けさは、質がよかった。頁の鳴る音と、蝋燭の爆ぜる音と、ときどき小悪魔の運ぶ茶器の音。私はその静けさを、気に入りはじめていた。——それが余計に、気に入らなかった。
静けさを割ったのは、咲夜の声だった。
「お客様です。あの、ですから——お客様ですと申し上げて……」
取り次ぎは、最後まで務まらなかった。氷精が、メイドの横をすり抜けて飛び込んできたからである。
「フェイブル! やっぱりここだ! ……うわ、暗っ! よくこんなとこで本なんて読めるね!」
「読めるのよ」と私は言った。
「ふうん。——じゃなくて! フェイブル! やくそくしたでしょ、弾幕ごっこ! こんどは見てるだけじゃなくて、いっしょにやるの! みんな湖でまってる!」
フェイブルは本から顔をあげ、それから、私を見た。
「……行っても、いいでしょうか」
許可を求める妖精、というものも、私は初めて見た。
「好きになさい。あなたの翅は、あなたのものよ」
「はい。では——行ってまいります」
彼女は読みさしの頁にしおりを挟んで本を書架に戻し、私にひとつ礼をして、氷精のあとを追って扉を抜けていった。ふたりぶんの羽音が、階段の上へ遠ざかっていった。
私は自分の本に目を戻した。
読めなかった。
聞けなかった問いが、頁の上に居座って、どかなかったのである。
(第二章・了)