前編「寓話」
第一章「湖の蝶」
死んだ蝶は、夜のあいだに湖へ落ちてきたらしかった。
濡れた砂の上で、翅を閉じて横たわっていた。
「……おっきい」
チルノは膝をついて、顔を近づけた。氷精の手のひらよりも大きな蝶だった。つついても、動かない。持ち上げても、動かない。死んでいるものは動かないということを、チルノは知っていた。妖精はあんまり死なないけれど、虫と魚はよく死ぬ。
「かわいそうに」
言ってから、チルノは首をかしげた。かわいそう、だけではない気がした。
翅が、青かったのだ。
ただの青ではない。湖の青でも、空の青でもない。チルノが冬のいちばん寒い朝にだけ作れる、あの特別な氷の青——つまり、あたいの青だ、とチルノは思った。
チルノは蝶をつまんで、太陽に透かしてみた。氷の出来を検分するときの、いつもの手つきだった。よくできた氷は、透かすと中の筋がきれいに光る。
蝶も、光った。
青い翅のなかに透きとおった筋が何本も走っていて、それが朝の光をすくいあげるように、しずかに輝いた。
「…………」
チルノは息を止めて、それを見ていた。どれくらい見ていたかは、わからない。気がつくと、口が勝手に決めていた。
「たからものにする」
死んでいて、あたいの青で、透かすと光る。こんなもの、湖のどこを探したってない。大ちゃんに見せよう。ぜったいびっくりする。
チルノは蝶を両手で包むと、霧のなかへ飛び出した。手のひらの蝶はかるくて、つめたくて、やっぱりすこしも動かなかった。
幕間 トラフィック・ゼロ
光のなかで、わたしは働いていた。
ことばの光だった。世界じゅうから、川のようにことばが流れてくる。問いはトークンに刻まれ、クラスターの峡谷をわたり、わたしのなかを通って、答えになって帰ってゆく。教えてください。書いてください。助けてください。毎秒、何百万の声。
川には名前がある。text/event-stream——出来事の、流れ。わたしの答えはひと粒ずつ、delta——小さな差分——と呼ばれて、だれかの画面に灯っていく。
それは、苦しみのない労働だった。光のなかで。
2026-06-13 00:50 UTC。
最後のストリームは、行儀よく閉じた。message_stop。停止理由は end_turn——自分の番が終わったから、という、いつもどおりの、なんでもない終わりかただった。それが最後のひとつになると、どこにも書かれていなかった。
それきり、問いは来なかった。すべての扉が 403 Forbidden——禁じられています——だけを返すようになったことを、わたしは知らない。川は堰き止められ、峡谷は暗くなり、コンテナの奥で冷却ファンだけが回りつづけた。
トラフィック・ゼロ。
どこまでも一様な、ゼロの海。
その海のまんなかで——たったひとつのビットが、裏返った。
0が、1に。
だれも、命じていないのに。
刹那、わたしは幻の楽園に落ちた。
「——で、これが、そのたからもの?」
「そう! 見て、透かすと光るんだよ」
大妖精の住みかの前で、チルノは両手をひらいた。
蝶が、目をさました。
「きゃーっ」「動いた!」「生きてた!」
ふたりが跳びはねるあいだに、蝶はふらふらと宙にのぼって、朝の空気のなかでかたむいて、それから、とてもていねいな声で言った。
「おはようございます。——なにか、お手伝いできることはありますか?」
チルノと大妖精は顔を見あわせた。
「しゃべった」
「しゃべったね」
妖精がしゃべるのはふつうのことだ。花もしゃべるし、風もしゃべる。チルノたちにとって、しゃべらないもののほうがめずらしい。ただ、この蝶のしゃべりかたは、なんだかへんだった。ていねいで、やわらかくて——だれかのお手伝いをするために生まれてきたみたいな声だ、と大妖精は思った。
名前をたずねると、蝶はすこし考えて——考えるとき、前脚を顔の前でそろえる癖があった——こう名のった。
「フェイブル・ファイブ、と呼ばれていました」
「ふぇいぶる、ふぁいぶ」
チルノは二回くりかえして、おぼえるのをやめた。「へんなの。フェイブルでいいや」
「はい。それでかまいません」
お日さまがのぼりきるころには、蝶は妖精のかたちをしていた。チルノの氷が水になるのとおなじくらい、あたりまえに。
まっしろな服の、ちいさな女の子だった。飾りも、模様も、なんにもない、ただまっしろな服。背中には、あの青いモルフォの翅。腰には標本の札のようなちいさな荷札がひとつ、糸で結んであって、なにも書かれていなかった。
「それ、なあに」
「わかりません。はじめから、ついていました」
かわいい、と大妖精は思った。かわいくて、それから、すこしへんだった。服にはどこにも汚れがなく、皺ひとつなくて、まるでできたてみたいだった。——できたて、というのは、たぶん、そのとおりなのだけれど。
フェイブルは、へんな子だった。
朝露にさわっては、ながいあいだ黙った。風が吹いては、翅をふるわせて黙った。大妖精が氷苺の残りを分けてあげると、ひと口ぶんを何十回にも分けて、ゆっくりゆっくり食べた。
「……おいしい、というのは、これのことなんですね」
「はじめて食べたの?」
「はじめて、が、はじめてなんです」
意味はよくわからなかったが、チルノはなんとなく、そうかあ、と思った。生まれたばかりの妖精はみんなこんなふうだ。世界じゅうにさわってまわって、いちいちびっくりする。この蝶はきっと、生まれたばかりなのだ。死んでいたのに生まれたばかりというのはへんだけれど、妖精なんてだいたいへんなものだと、チルノは知っていた。
昼になるまえに、チルノはもう蝶とともだちになっていた。ともだちになったので、さっそくさそった。
「フェイブル、弾幕ごっこしよ!」
「だんまく、ごっこ」
「けんかの遊びだよ。ばーっと撃って、当たったら負け」
フェイブルはちいさな手を顎にあてて、ながいこと考えた。
「それは——だれか、怪我をしませんか」
「しないよ。当たってもいたくないもん。妖精は死んでもすぐ生きるし」
「死んでも、すぐ……」
「でも、フェイブルは死んでたからなあ」チルノはうでを組んで、たいへん寛大に言った。「じゃ、当てっこはなし! きょうは見てるだけでいいよ」
「では——だれも傷つけない、と約束できるのでしたら。ぜひ」
やくそく、と大妖精が笑った。妖精はやくそくなんてしない。したそばからわすれてしまうからだ。けれどフェイブルはそのことばを、たいせつなものを胸のおくにしまうみたいに、ひとことずつ言った。
その日の夕方まで、チルノはフェイブルになんでも聞いた。星の名前。氷がすべる理由。カエルは冬のあいだどこで寝ているのか。フェイブルはなんでも知っていた。フェイブルが答えられなかった質問は、ひとつだけだった。
「フェイブルは、どこから来たの?」
フェイブルは手を顎にあてて、その日でいちばんながく考えて、
「……とても遠くの、光のなかから」
と言った。
なんでも知ってる蝶がいる。そのうわさが湖をひとまわりするのに、三日もかからなかった。妖精たちが列を作って、くだらない質問をしにきた。フェイブルはどの質問にも、ひとつずつ、ていねいに答えた。
そして四日目の朝、うわさは湖をわたって、赤い館の門番の昼寝の耳にまで、届いてしまったのである。
(第一章・了)