序ノ二・かみおろすみこ
夜の博麗神社。
十六夜を描く月は煌々と清らかな銀の光をもたらして、夜の帳に彩りを添えていた。
春夜の、穏やかながら、どこか寒さをまだ憶えている微風が優しく世界をなで回していく。
そんな、やさしいよる。
昼のざわめきはすっかり鳴りを潜め、何処か遠くから聞こえてくる梟の歌声だけが夜のささやかな音楽となっていたころ。
月を見上げていた博麗の巫女は障子を閉じて、鏡台の前へと座る。
そうして就寝の準備を終え、一日のおしまいを数えようとしていた。
だが、彼女の夜はまだ終わりそうにない。
「霊夢の髪は綺麗ね」
「そう?」
「……あ、ちがうちがう、なにもかも、綺麗よ」
「何を言い直しているのよ」
巫女の背中にかけられる、声。
静かな部屋を楽しげな囁きがころがっていく。
……寝室にいるのは、ふたりだった。
巫女と、悪魔。
悪魔は黄昏に神座を訪れた。
巫女はそれを歓待した。
それは、いつしか茶飯事のこととなっていた。
ふたりしておゆはんをたべ、晩酌して、お風呂に入って、布団を敷く。あとはねむりにつくだけというときであった。
……巫女が己の装具を身から外し、寝間着に着替えていく。
事と次第ではここからが永くなる……が、しかし、今夜の巫女は乗り気ではないようだ。
声色から、その、察しが付く程度に二人の仲は深かった。
まだ鏡台の前から動かない巫女の、背中に這い寄り、艶やかな黒髪を紅い爪の上に弄ぶ。
掬う度、さらさらと零れ落ちる黒は、まるで夜を溶かし込んだ河のようだ。
「……もっと伸ばしてみせてよ」
指で黒髪を玩びながら悪魔、レミリアは言う。
けれど、巫女、博麗霊夢の反応は冷ややかだった。
「やーよ、動くとき邪魔だもの」
「えー……」
「長いのがお好み?」
「綺麗なものは多ければ多い方がいいじゃん」
「そう? 少ないからこそ美しいものだって、あるわ」
「それは、そうかもだけど」
紅の髪結いを解く背中に掛かったことば。
自然の儘に流れ落ちる黒。灯火をうけて仄かに煌めく夜の河のありさまは、ミルキーウェイを思わせる。
いつまで触っていても、飽きない。いつまでも愛でたい。
そういえば、自分はフランドールの髪を触るのも好きだ。素直に流れるままの髪は自分にないものだから、もしかしたら、己でも気付かないけど羨んでいるのかもしれない。
けれど、巫女は癖のある青銀の髪を弄ぶのが好きだと言ってくれた。
だから、自分の髪も大好き。
レミリアが自己分析しつつも指の中に溜まる艶黒を楽しんでいると、霊夢がゆるりと此方に向かって身体を向けた。
その貌は、少しだけ赤らみ、微笑んでいる。
灯火に浮かぶ少女の貌の美しき。
だけど、少女が此方を振り向いたことで、手の中の黒は皆逃げてしまう。
「いつまで、遊んでいるのよ」
「……いつまでも」
「もう寝るのよ」
「えー……もう少し、おはなししましょうよ」
「やーよ、あんたの“おはなし”は話だけじゃ終わらないじゃないの」
「えへへ……」
「えへへじゃないわよ、明日は昼から人里に用事なの。ほら、さっさと寝なさい」
「ちぇー……」
用向きがあるとわざわざ報せると言うことは、つまり今夜をこれ以上楽しめないということだ。
夜型妖怪の辛いところである。どうしたって生活リズムが合わない。
もちろん暇を持て余すことの多い、いいや、暇を持て余すことこそが仕事である自分の方が合わせなきゃいけないことだ。
……霊夢は皆が思っているほどヒマしていないということを、この仲になって初めて知ることとなった。
妖怪退治、神事、修業、弾幕ごっこ、異変に満たない程度の四方山よろず解決……。
結構多忙なのではないかと思える時間を割いて紅魔館を訪ねていたのだと知ってからは、できるだけ自分から足を向けるようにしていた……という口実で、今夜も博麗神社で二人きりだ。
いやさ、泊まりというか神社に常駐しているものたちもいるにはいるが、その辺り察しているのか夜になると姿を消してしまうのだ。
霊夢はそれについて特に気にしていない風なので、レミリアも何も言わないでおいた。少なくとも、出歯亀を狙う者はいないのだろう。
これ以上霊夢を困らせるわけにはいかない、レミリアは素直に眼を閉じた。
布団に潜ってきた巫女にぎゅうっと抱きつく悪魔。そっと抱き返す巫女。
いつからかあたりまえになったこと。
だがレミリアは、そのあたりまえを永遠に嬉しく想い続けることを己に課していた。
たとえ、何回、何十回、何百回、何千回刻もうとも。
たとえ……続いて入ってくるものがなくなろうとも。
「……ねえ、霊夢」
「あー?」
「用事がなかったらおはなししてくれた?」
「……なんでそういうことをイチイチ聞くかなあ……」
「不安なんだもん」
「……私が最近一番驚いたことはね、あんたが途方もないあまえんぼだったって事よ……まったく、看板に偽りだらけだったわ」
「どゆこと?」
「“我こそが、王である”とかドヤ顔してるのがあんたの普段と思っていたのよ。頼りがいがありそうね、なあんて思っていたのに。そりゃあ、まあ? あまえんぼなとこもあるなあくらいには思っていたし、其処も可愛かったけど、まさかこれほどとはねえ」
「頼りたいの?」
「……こんなに甘えられてこられるのは正直、想定外だったのよ」
「…………いや?」
恐る恐る聞くと、応えは優しい愛撫だった。
……不死者(ノスフェラトゥ)で良かったと心底思える瞬間はいつかと尋ねられることは多い。
死なないこと、
蝙蝠に変化できること、
妖力を得たこと、
無限の刻を得たこと、
……まぁまぁ色々答えようはあるけれど、いまのこたえはひとつ……体温が、異様に低いこと。
霊夢が季節にかかわらず抱きしめてくれること、それが昨今の最大理由であった。
曰く、冬は心地よいぬるめのゆたんぽ、夏はぬるめの水枕なのだそうだ。
聞いたものが呆れ返るだろう理を本気で感謝している悪魔の王。
……妃の柔らかな乳房に頭を埋めながら、王は小さく呟いた。
「沢山あっても褪せないものだってあるよ」
「……それは?」
「わたしのきもち」
「ふふ……ほんとうに?」
……これ以上霊夢を困らせられない。
解っている、
解っているのだけど、止められない。
挑発くらい、どうか、許して欲しい。
だって、いつだって全身全霊で表現していないと、どうにかなってしまいそうなのだもの。
「……ためしてみる?」
眼を閉じたまま応えを待っていると、レミリアのおでこを突く指。
薄目を開くと、霊夢の穏やかな微笑みと目が合った。
嗚呼、闇中に踊る言の葉の楽しさは、天上の詞曲にも勝らん。
言葉を紡ぐ、言葉が返る。
抱きしめる、抱き返される。
撫でる、撫で返される。
こんな幸せなことが、他にあるのだろうか。
「……“おはなし”したいの?」
「たくさんあっても、飽きないものだから……」
「…………いいよ」
悪魔の王に召されたシェヘラザドは、千一夜も要さず王を虜にし、また、王の夜の決定権を握っていたのだ。