終章・かみおとすみこ
……喧騒が博麗神社を包んでいた。
いつものアレ。
異変解決を祝しての夜宴であった。
だが、いつもの、というには少し、いやかなり開催が遅れたのは否めない。
……博麗霊夢の回復には、思いのほか時間がかかったのだ。
全身が酷い凍傷に犯され、指は数本壊死したらしい。
加護符でぐるぐる巻きになった巫女が、永遠邸に担ぎ込まれた際には永琳が呆れるほどの有り様であったとされている。
今夜は、そんな博麗の巫女が全快したとの報せを受けた妖怪達が、誰ともなく集まっての宴会だった。
集まる面子の内容はまあいつものこと。
霊夢の人望というか、妖望というかが知れるものだ。
だが、そんな霊夢の姿はまだ見えない。
宴の主役がいないままに、それはしめやかに始まった。
「ちぇー、結局私にイイトコなしだ。そんな大事ならほっかむりでも被って参加したかったぜ」
「貴女、霊夢のあの有り様を見てそんな事いえるならよっぽどアホよ」
「ンだとぉ?」
白黒魔法使いと人形使いとの、いつもの夫婦喧嘩が始まる。
周囲のもの達が囃し立てる中、宴の端っこでは封獣ぬえと、狸の親分が、沈んだままに涙酒を呷る小傘を慰め続けていた。
「我等妖怪、そのうち復活するってばさあ、小傘……いつまでもメソメソするなよぉ」
「そうそう、それに、巫女が鋏の傍らは持ち帰って来れたのじゃろう? それを大切に扱っておれば、きっと……」
「でも、それが小柄かどうかなんて、わからないもん……」
「「……ふむう」」
いつまで慰めても、コレだった。
無理矢理にでも宴に参加させれば或いは少しは効果があるかもしれないと、東風谷早苗からの提案に乗ってみたが、効果は薄そうだった。
……それでも、小傘を知るものたちは少しも挫けず小傘に声をかけ、交代しては小傘を励まし続けた。
……氷塗れでぼろぼろになった霊夢の手に握られていた、砕けた鋏の欠片。
霊夢に何度も何度も礼をして別れた後、小傘はしばらくの間姿を眩ました。
誰とも逢わず誰とも触れず、独り小屋の中で鋏の欠片を握り締め蹲っていたのを心配して探したナズーリンが見付けてからは、命蓮寺ではちょっとした騒ぎになった。
……食事を摂らないのだ。
誰かをおどろかす事、
誰かに愛される事、
誰かに必要とされる事。
その全てから、小傘は足を遠ざけた。
妖怪がこんな状態になるなんて、他の誰にも経験の無い事だった。
聖白蓮をして、困惑と手付けられずの判断で、せめて小傘を独りにさせないようにすることだけしかできなかった。
「――お前、本当にそのままじゃ死んじまうぞ」
「ぬえ、よさんか」
「いいよ……小柄の処に行きたい……」
「お前、こんなに、こんなに皆が心配しているのに……!」
「ぬえ、よさんか……小傘よう、そんな哀しい事を言うもんじゃないぞえ? お前が哀しいと、皆も哀しいのじゃ」
「……親分……だけど……だけど小柄はもう、哀しむ事すら出来ない……」
処置なし、だった。
いや、受け答えをしてくれるだけでも随分進歩したのだ。
最初は石の如く、物言わず動かずだったのだから。
此処までを癒やした命蓮寺の、聖の忍耐と慈愛は驚嘆と賞賛に値する。
そこに、宴の進行役が酒瓶を持って近付いてきた。
ぬえとマミゾウは腰を上げ、早苗に目配せして離れていく。
「小傘ちゃん」
「…………早苗、さん」
「聞いたよ。おなか空いてないの?」
「……わかんない……おなかが空いているかどうか、わからないの」
早苗は少しだけ眉を曇らせるが、すぐに笑みを作って小傘の肩を抱く。
「そういえば改めてお礼をしなきゃね。ありがとう小傘。貴女が庇ってくれて、嬉しかった」
「……あの時は、夢中だっただけ……」
「私が好きだって言ってくれたじゃない」
その声に、無表情だった小傘の頬にほんの少しだけ朱が灯る。
「聞いてたんだ……」
「うん、まぁ意識がギリギリあったから」
「……小柄がいけないことをしそうだったから、夢中だったの」
「うん、解ってる」
「……でも、小柄を突き放してしまった……」
「じゃあ、私を殺せば良かった?」
小傘はぶんぶん首を振る。
小柄がいけない事を止められなかった自分が悪い。
小柄も、早苗も悪くない。
自分が悪いのだ、自分が。
「……霊夢さんが無事で本当に良かった。信じて良かった」
「…………」
それには応えられない。
だって、霊夢は……小柄を助けてくれなかった。
だけど、それを責める気なんてない。あんなにボロボロになるまで戦ってくれた霊夢を感謝こそすれ恨みなんて絶対に言えない。絶対に思えない。
霊夢は全力を尽くしてくれた。
いいや、全力以上を絞り出してしまった。
霊夢の怪我も、結局自分が悪いのだ……。
「わたし……恥ずかしい……わたし……なにもできなかった……」
「そんなことないよ」
「なにができたの? ずうっとオロオロしてばかり、ずうっと泣いてばかり、今だって……皆にありがとうって思っているの。皆が大好きなの……でも、もう“此処に小柄がいない”そう思うと……身体全部からちからが抜けていく……」
「――信じたじゃない。信じなかったの? 霊夢さんを」
「…………信じた」
「なら、貴女は立派に務めたのよ……私言ったよね。信じるものは救われるって」
「…………」
「後は、霊夢さんと話しなさいな……私は背中が突っ張るからこの辺にしておくわ」
「え」
肩の抱擁を解き、早苗が立ち上がる。
それと交代で、現れただけで騒ぎの起きる事請け合いの筈の、宴の主役が「どっこいしょ」と小傘の隣に座ってきた。
どうやら姿を隠し気味に此処まで来たようで、周囲の誰も、早苗以外は気付いていない。
霊夢の姿は――あの痛々しいまでの凍傷はすっかり完治したらしい。
凛々しい顔も、すべらかな指も、全てが元通りになっていた……いや、長かった、美しい艶やかな黒髪だけが……肩下で切り落とされている。
「霊夢……さん」
「久しぶり……っていっても二十日くらいかしら? お互い酷い目に合ったわねえ」
「あの時は……ありがとうございました」
「ありがとう? お互い様よ。あんたはあんたの仕事をした」
「…………」
「だから小傘、ごほうびをあげるわ――約束したものね」
「……?」
「身体を癒やして、調子を戻して、それから始めた祈祷だったから……ずいぶん時間がかかっちゃったのよ。ごめんね」
「え、え……?」
霊夢が裾から取り出したのは……ぼろぼろになった鋏、その欠片ではない、本体だった。
それを、小傘にそっと握らせる。
……暖かい……!
「これ……これ……小柄……?」
「……苦労したのよ? 上手くいくかどうかも解らないから、あんたに報せることは出来なかった……神を堕としたわ。これは、ただの付喪神」
ただただ呆然とする小傘に、霊夢はそちらを向くことなく、早苗が置いていった酒瓶から一献注いで喉に運ぶ。
「ただね……人化は当面無理みたい。元々あんたが見付けたこの鋏はね、ヒヒイロカネっていう神鉄が混じっていたらしいのよ。あんたが打ったことで、それが目覚めて急速に神へと変じたの。そこで化生が終わっていればまだ良かったのだけど、色々あってあんなになったからねえ。結局神を堕としたせいで、いまは付喪神としてギリギリ在る感じなのよ……ごめんね、私ではこれ以上は――」
続きは、言い切れなかった。
小傘が抱きついてきて「あああああああ~ん!」と、号泣までおっぱじめたからだ。
「ちょ……小傘……」
「あ! 霊夢だ!」
誰かの声に、周囲がどよめく。
「霊夢! 何隠れてるんだよ!」
「霊夢さん、神堕としというのは本当なのですか?」
「霊夢、こっちきてのもーぜー」
「ちょっと、霊夢は病み上がりなのよ?」
「霊夢、傷はもう良いの? 私といつ遊べる?」
「霊夢~! 生きてた~!」
「霊夢さ~ん! 私心配で心配で……!」
怒濤の勢いで皆が取り囲んでくる。
宴の主役は――
「やかましい!! 今大事な話をしてんのよ! あっちいけ!」
と、近付く奴儕を皆を蹴り払う。
にべもない。
「小傘、小傘落ち着きなさい」
「ふぇ、うぇ、げほっ! うえぇぇ……」
「あーもう……ぐしゃぐしゃじゃないの……私の服まで」
「ごめ……なさ……」
「……もう良いから、命蓮寺の皆にお礼してきな。みんな、あんたが元気になるのを待っているのだから」
……泣いた烏がなんとやら。
小傘は大事そうに鋏を己の懐へとしまい、立ち上がって、それから霊夢に大きく、大きく頭を下げた。それから――命蓮寺のひとかたまりのなかへと、文字通り身体全部で飛び込んでいく。
霊夢の出宴によって盛況を増した祝いの空気に華やかさと、元気な笑い声が混じる。
――良かった。
霊夢は自身の喪った黒髪の先端を玩びながら、仲間に迎え入れられる小傘を見送り薄く笑みを造るのだった。
……今宵の宴は最高潮を迎えんばかり。
今度こそ、主役は立ち上がる。
さあ、今夜は飲もう。
随分酒を我慢したのだから。
僅かばかりのものしか知らぬ、
天をも穿つ仕事をこなしたのだから。
腰を上げ、喧騒の只中へと春の夜の風切り歩み行く。
空気に少しばかり、命の青臭さが混ざっている気がした。
もうすぐ、夏が来るだろう――。