依神紫苑
深夜の雨の中、小傘は相変わらずバス停で誰かを待ち続けていた。
こんな生活を続けているせいか、小傘は空気の匂いや雲の流れだけで降水を予感する事が出来るようになっていた。もはやちょっとした特技である。
しばらくすると、霊夢が雨合羽の格好で差し入れを持ってきてくれた。小腹を空かせない為の軽食である。塩のおにぎりと、温かいお茶が入っていた。小傘は去っていく霊夢の背中に深々と頭を下げる。丁度いいタイミングでお腹がきゅうと可愛らしく鳴った。
ベンチに座りながら、小傘はご機嫌な様子でそれを頬張ろうとした。
その時――。
「美味しそうだねぇ、それ」
突然、背後から声がした。この上ないほど不気味な声であった。
悲鳴を上げながら、小傘は振り向く。
そこには、やせ細った少女が立っていた。
その幸薄そうな青白い顔を見て、小傘はゴクリと唾を呑んだ。
彼女の名は依神紫苑、貧乏神だ。
以前、人里に住む人々に憑依し、大々的に金品を奪う異変を起こした張本人である。
博麗神社に引き取られた後、今現在は何処かのお屋敷にて居候しており、すっかり改心した様子ではあるが……。
「な、何の用なの……?」
小傘が問いかける。
しかし紫苑は目も合わさず、ジッと小傘が手にしているおにぎりを見つめていた。
「いや別に。ただの雨宿りだよ」
口の端からよだれが垂れている。あまりにもはしたない。
しかしその痩せこけた頬を見るに、ここ数日ロクに食事を摂っていない様子であった。
小傘は困った顔を浮かべ、そっとおにぎりを彼女に差し出す。
「……くれるの?」
「だって貴女、とてもお腹が空いてそうだもん」
その途端、紫苑はにぃーっと笑いながら小傘の横に座った。
どうやらこの貧乏神、気を許した相手にはとことん人懐っこくなるらしい。
小傘の横に座り、手渡されたおにぎりを心底旨そうに齧った。
「君、良い人なんだねぇ」
「あ、あはは……人じゃないけど」
私の名前は小傘。私は紫苑。二人はお互いに名乗り合う。その間、紫苑はそのおにぎりを大事そうに一口ずつ頬張っていく。何となく、今夜の雨は優しい音がした。
「それで、紫苑はどうしてここに? 何でそんなに腹ペコなのさ?」
小傘が質問すると、何故か紫苑は切なそうな顔をしながらバス停の外を見つめる。
それは、命蓮寺の方向であった。
「命蓮寺に私の妹がいるんだけどさ、ちょっと話がしたくて、お世話になっている天界のお屋敷から抜け出してきたんだけど……」
そう言うと、紫苑は一つ憂鬱そうなため息を挟んだ。
「だけど、会うのはやめとこうと思ってさ。何だか気まずいし」
「どうして? 喧嘩でもしたの?」
小傘は空腹を紛らわせる為に質問を重ねた。紫苑は「うー」と困ったような表情を浮かべる。
「多分、向こうは私なんかとは会いたくないと思うんだよ。この前の異変だって、私が不甲斐ないから失敗しちゃったワケだし、女苑、きっと私の事、怒ってると思う……」
そこで言葉が途切れる。女苑、それが妹の名前である。この姉妹にどういう事情があるのかは知ったこっちゃないが、いつまでもここで辛気臭い顔をされても困る。
「ちゃちゃっと会って謝っちゃえばいいのに」
小傘は何処までも他人事のように呟く。紫苑は情けなく笑う。
「えへへ……まぁ、そんな簡単じゃないんだよ、謝るってのはさ」
そんなこんなで、命蓮寺を訪ねる事もせず、かと言って天界に戻る事もしないまま、一週間ほど地上を放浪していたらしい。異変を起こした手前、人里をうろつく事も出来ないまま途方に暮れていたという。それなら、元々世話になっていた博麗神社を訪ねればいいのにと小傘は言うが、紫苑は悲しげに首を振って応えた。……これ以上、霊夢の力を借りるのは申し訳ないから嫌だという。小傘はため息をついた。決断力がないにも限度がある。
……何となく、小傘は以前ここに迷い込んできた勇儀の事を思い出した。
その時はえらく酩酊した様子であったが、彼女は友人であるパルスィと喧嘩をし、仲直りがしたいと言って泣いていた。鬼の勇儀でさえ難しいのだ。謝るという行為は。
小傘にはその苦しみが分からなかった。小傘は良くも悪くも単純である。謝る事で楽になれるのなら、すぐさま謝ればいい。じゃないと、謝罪の言葉は出難くなってしまう。小傘はそれを感覚で理解していた。だから、自分に非があると思ったら、彼女は迷う事なく頭を下げる事が出来た。それが当たり前の事だと思っていた。何も難しい事じゃない。
「簡単でしょ。謝る事なんて」
「でも、でも……今よりも状況が悪くなるかもしれないし」
紫苑は怯えたように呟く。
「今日はもう遅い時間だし、それに、私って間が悪いし」
それは確かにその通りだ。小傘の食事時に現れ、彼女のおにぎりを頂戴しているのだから。確かに間は悪い。しかし、いつまでもうじうじし続ける紫苑に、小傘はふと呟く。
「ひょっとして、その女苑さんも同じだったりして」
「……え?」
結局、バス停で酔い潰れてしまった勇儀を連れて帰ったのは他でもない、喧嘩中であるパルスィである。仲直りのきっかけなんて、何処にだって転がっている。そもそも――。
喧嘩が出来るような二人が、仲直り出来ない筈がないのだ。
小傘の言葉に、紫苑は重く沈黙する。様子を見ればわかる。紫苑だって、本当は女苑に会いたくてたまらないのだ。必要なのは、そのきっかけである。小傘は仕方なさそうな表情で、それでも何処か清々しそうな顔をして、霊夢に貰った差し入れのかごを紫苑に手渡す。
「え、これって……」
中には残りのおにぎりが入っていた。全部、この貧乏神にくれてやる事にしたのだ。
「そんな寂しそうな顔をしてたら、女苑さんも心配するよ。それを食べて、元気な顔を見せてやりなよ」
小傘に優しく言われ、紫苑はじんと涙ぐむ。幸いにも、命蓮寺はここからそう遠くない。
「……でも、何て言えばいい? いきなり現れても不自然だよ。何か理由がないと、何か……」
この期に及んでまだ紫苑はそんなつまらない事に拘っているのかと、小傘は腹の底から呆れてしまった。と、その時。
今まで降り続けていた雨が止んだ。
「雨が止んだよ。きっと、理由なんか要らないんだよ」
「……うん、それもそうだねぇ」
どういう訳か、小傘の言葉には得体の知れない活力が宿っていると紫苑は思った。
有無を言わせず、全ての物をプラスの方向へと導こうとする力だ。能天気そうな外見とは裏腹に、この子は、どんな物を見て生きてきたのだろう? 紫苑は黙り込み、小傘の手を握る。
ありがとうね、小傘。
紫苑はかごを抱えながら小傘に頭を下げ、命蓮寺へ向かってトボトボと歩き出す。
それと同時にバス停が消失する。夜食を全て紫苑にくれてやったので腹ペコであった。
しかし、誰かの為なら、空腹も悪くない。そんな気がする小傘であった。
……。
小傘と別れ、恵んでもらったおにぎりをパクパクと食べながら命蓮寺へと進む紫苑。
しかしその途中、道の外れに生えている木の根元で誰かが倒れているのを見つけた。
紫苑は急いでソイツの元へ駆け寄る。それは幼い少女である。
二本の小さな角に、赤と白が歪に混じった髪。
……彼女は天邪鬼、幻想郷のお尋ね者、鬼人正邪であった。
正邪はボロボロの状態で、物も言わず、ただジッと紫苑の事を見つめていた。
紫苑はどうしていいか分からず、困惑の表情を浮かべる。すると――。
正邪の腹がきゅうと鳴った。どうやら腹減りで倒れていただけらしい。紫苑はかごからおにぎりを一つ取り出し、正邪へ手渡す。正邪は何も言わずにそれを受け取り、むしゃむしゃと品もなく齧りつく。正邪は紫苑が抱えているかごを睨む。
あのかごの中には、もっとたくさんの飯が入っているかもしれない。
あれを奪えば、腹いっぱいになれるかもしれない。
そしたら、まだ……。
まだ、生きていられる……。
「良かった。ほら、もっと食べなよ」
「……!」
紫苑は心底安心したようにかごからおにぎりを取り出し、正邪に差し出す。正邪は額に汗をかきながら、震える手でそれを一つずつ受け取っていく。渡されるまま、正邪は次々におにぎりを口に運んでいく。
次第に落ち着いてきたのか、正邪は鋭い目つきを保ったまま、ぽつりと紫苑に声をかけた。
「アンタも腹を空かしているように見えるが、良いのか?」
紫苑は痩せこけた頬をにいっと歪ませ、不器用な笑みを見せた。
「私は良いんだよ。だってもう、私はお腹いっぱいだから……」
正邪は、紫苑のその言葉の意味が汲み取れなかった。
ただ、それがただのやせ我慢である事は理解出来た。
正邪は手渡されたおにぎりを一つ、紫苑へ投げ返した。
「お前の握り飯だろ。お前も食え。食える時に食っとかないと、いずれ死んじまうぞ」
「……うん」
正邪と紫苑は二人、無言のままおにぎりを食べた。
……最低限動けるくらいには回復したのか、正邪は徐に立ち上がる。
「お前、貧乏神だろ? そんな奴の施しを受けるなんざ、私も落ちるところまで落ちたな」
礼を言うどころか、命の恩人である紫苑に対し、悪態をつく始末であった。
だが紫苑は「えへへ」と笑うばかりであった。
それが気に入らなかったのか、正邪は力無く舌打ちする。
「ところでお前、一体何の用があるんだ? この道を進んだって、あるのはカビ臭い寺院だけだぜ」
「そこに、喧嘩中の妹がいるんだ」
紫苑は空になったかごを抱き、簡潔に答えた。
「雨が止んだからねぇ。仲直りをしに行くんだ」
「……訳分かんねぇよ」
ごもっとも、といった感じで紫苑はクスクスと笑った。
正邪はそのまま紫苑に背を向け、そのままスタスタとその場を離れていこうとした。
だが、ふと立ち止まり、背を向けたまま、静かに呟いた。
「……一応、恩に着る」
腹が減って、死にそうだったんだ。
その直後、やっぱり礼なんて言わなきゃよかったと後悔しながら、正邪は恥ずかしそうに背中を丸めてしまった。その様子を見て、紫苑は落ち着いた声で言い放つ。
「お礼なら、私じゃなくて、バス停で待っている小傘にしてあげて。私も、小傘に助けられたんだ」
小傘の名を聞いた途端、正邪はバツの悪そうな表情を浮かべた。以前、小傘に対して心無い罵声を浴びせた事、それに対し、小傘が悲しそうに泣いていた事を思い出す。
振り向くと、紫苑の姿はもう遠く離れてしまっていた。
雨上がりの静かな夜、正邪は一人、その場に立ち尽くした。