Coolier - 新生・東方創想話

雨を見くびるな

2020/04/23 20:18:20
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多々良小傘

 静かな雨の夜には二種類ある。
 静謐で清らかな夜と、暗闇の中に沈んでしまいそうになる底の見えない夜の二つ。

今夜は後者だ。
いつもは心地良い筈の雨の音が、今夜はやけに耳障りに聞こえてしまう。
雑多で、何処までも無神経な雨音であった。
こんな夜はどうしても気分が沈んでしまうものだ。

「はぁ……」

 小傘は落ち込んだ表情のまま、例のバス停のベンチに座っていた。
いつもなら霊夢が様子を見にやって来てくれる時間であったが、どうやら忙しい様子で、ここ最近は来てくれる回数が減っていた。陰鬱な夜の雨が小傘の心情を容赦なくかき乱す。
こういう夜は「余計」な事を考えてしまう。独りぼっちで居ると尚更である。

終わりの見えない孤独感はマイナスな想像しか生まない。
たった一人、寂しさに打ちひしがれながら、ひたすら誰かを待ち続ける夜――。

……確か、いつかの夜もこんな感じだった。

それは付喪神となる前の記憶。小傘はとある人間の所有物であった。
雨の日がとても好きだった。道具は使われる事こそが本懐である。
雨に打たれる事が、何よりも楽しかった。


名もなき一本の傘はそれだけで幸せだった。小傘は、持ち主の事が大好きだった。
一つの道具でしかない自分に対し、持ち主は常に感謝を忘れず、丁寧に扱ってくれた。
小傘の、「傘」としての誇りはそこで育まれた。

いつまでも、この人の元で傘として生きていくのだと信じていた。
最後までこの人のそばに居る事が出来ると信じて疑わなかった。

いつか壊れてしまうのならば、この人の手元で壊れたい。
それが小傘の、心からの願いであった。

だが、そんな平穏の日々は唐突に終わりを迎える。

いつまでも持ち主が帰ってこなかったのだ。それは静かな雨の夜であった。
いつもはご機嫌に聞こえる雨音が今日は妙に重く冷たい。
嫌な予感がした。小傘はいつまでも持ち主が戻るのを待ち続けた。
何時間も、何時間も。

しかし、いつまで待っても持ち主が帰ってくる事はなかった。
傘に付着した雨粒が、まるで一雫の涙のように流れ落ちる。

「早く、帰ってきて」

そんな想いも虚しく、小傘は独り、その場に取り残されたままであった。
雨が上がり、日が経ち、埃が被りだし、小傘はようやく自分が捨てられたのだと気付いた。

道具の死は二つある。

使い古され、天寿を全うした末に壊れてしまう事。
それは道具としてこの上ないほどの幸福な死である。

そしてもう一つは、使われず、その存在を忘れ去られてしまう事だ。
大好きな持ち主に捨てられた時、傘はそこで道具として死を迎え、多々良小傘という名の付喪神として生まれ変わった。

小傘は以前の記憶を朧げにしか覚えていないが、この幻想郷に生まれついた当初、小傘の中には強く鮮明な想いがあった。

もう持ち主の事はハッキリと覚えていない。何処の時代で、どんな経緯で持ち主と出会ったのかさえも。しかし、大切にされた事と、小傘自身、持ち主が大好きだった事は覚えている。

だからこそ、問わずにはいられなかった。

「どうして……私を置いていったんだ……!」

今となってはそれを問いただす事も出来ない。
小傘は忘れ去られた。ただそれだけの事だ。

 ……。

 朦朧とした意識の中、小傘は目を覚ました。先ほどまで例のバス停のベンチに座っていた筈なのに、気が付くと見知らぬ部屋のベッドで寝かされていた。小傘はゆっくりと身体を起こして辺りを見渡す。無機質で清潔、ゆったりと漂う消毒液の匂い、ここは病室である。

「……良かった、目が覚めたわね」

 病室の奥から女性の声がした。頭がまだぼんやりとしている。
かなり熱っぽい。身体中が悪寒でゴワゴワする。小傘は声のする方を見た。
そこには竹林の薬剤師、八意永琳がいた。どうやらここは永遠亭の病室らしい。

小傘はベッドの上で畏まったように頭を下げた。
その瞬間、頭の中身が鈍く歪んだような感覚に襲われた。

……明らかに異常だ。

「ここは……、私はどうなったの……?」

 もっともな質問である。
永琳は小傘を落ち着かせるために一つ一つこれまでの経緯を説明した。

 小傘は例のバス停で倒れていたのだという。
感覚的に、それはどうやらただの体調不良ではないらしい。
永琳は厳かな表情で小傘の症状について語る。

 端的に言うなら、どうやら小傘の中にある「付喪神としての存在意義」が何らかの理由で薄くぼやけてしまっているらしい。

妖怪や神がこの幻想郷という地で実体を保ち続けるには、ある一定の「認知」という物が必要になる。妖怪は人に恐れられてこそ、神は崇拝されてこそ、その存在を保つ事が出来るのだ。

伝説は伝承されるから不滅なのであって、それを語り継ぐ者がいなくなってしまえば、全ては無かった事と同義になってしまう。だからこそ、幻想郷には人が必要なのだ。

自分という存在を認知する対象がいて、初めて妖怪や神は存在出来るのである。

それは付喪神である多々良小傘も例外ではない。
彼女は忘れ傘、彼女の根底には「自分を捨てた者への恨み」が存在し、それを主軸としてこの土地に存在している身である。良くも悪くも、彼女は人と何らかの接点を持たなければ生きていけない付喪神である。彼女に限らず、これは幻想郷に住む妖怪に課された唯一の理である。

それに反故が発生した時、妖怪は急激に弱体化する。
己の存在を保つ事が出来ず……やがて音もなく消滅してしまうのだ。

永琳曰く、たった今、それに近い現象が小傘の身に起こっているのだという。道理で身体が上手く言う事を聞かない訳だと、小傘は額に大粒の汗をかきながら、何処か冷静に納得した。

「……小傘さん、事情は妹紅から聞いているわ」

 妹紅の名を聞いて、小傘はぼやけた記憶をゆっくりと辿っていく。
以前、負傷した状態で小傘の前に現れた白髪の少女の事である。

……あの時の光景は忘れようにも忘れられない。
人体が悉く破壊された姿を間近で直視してしまったのだ。
しかし、何より小傘にとって衝撃だったのは、藤原妹紅という人間の生き方そのものである。

不老不死である彼女は、有限の時間に縛られている通常の人間とは明らかに乖離した死生観を持っている。その距離は絶望的に果てしない。小傘のように心の穏やかな者では、恐らく妹紅の思慮のほんの一欠けらさえ理解する事は叶わないだろう。

故に、小傘は言葉を介さず、ただひたすら妹紅を哀れむ事しか出来なかった。
悲しい事だが、それはきっと正しい。

「どういった経緯で、どのような意志があって、あのバス停に通い詰めているのかは分かりませんが、ここら辺で止めておきなさい。あのバス停は……誰かの思念によって生み出された物。あの場に居続ければ、貴女の付喪神としての基盤に致命的な影響を及ぼす筈」
 
現に、今の小傘は明らかに付喪神として正常に機能していない状態であった。このままあのバス停と関わり続ければ、次第にあのバス停に宿された思念に飲み込まれてしまい、実体を保てなくなるだろう。

 だが、小傘は永琳の説明に耳を傾ける事なく、病室の外をぼうっと見つめ続けるばかりであった。夜は明けているが、外は淀んだ色をしていた。
昨夜の静かな雨とは打って変わり、風が激しく吹いている。雷と大雨の音が轟く。

どうやら幻想郷に季節外れの嵐がやってきている様子である。

「雨だ……行かなきゃ……」

 小傘は錆びついたように重い身体を無理に動かし、ベッドから起き上がろうとする。
永琳が慌ててそれを止める。忠告など一切聞いていない様子である。

「私の話をちゃんと聞きなさい、小傘さん、このままじゃ貴女……神霊としてこの土地に存在し続ける事が出来なくなるのよ? その意味が分かるかしら?」

 それは、幻想郷から完全に忘れ去られ、誰の記憶にも残る事なく消滅してしまう事を意味している。ある意味、神霊にとってこれ以上の恐怖は無いだろう。

だが、小傘はその事実を理解しているのか否か、永琳の言葉を無視して立ち上がり、ベッドの横に立てかけられた傘を握って病室を出て行く。当然、永琳は小傘の細い腕を掴んで制止しようとするが、それを乱暴に振り払い、小傘はその場から飛び出してしまった。

「待ちなさい、ちょっと、小傘さんっ!」
「ごめんなさい……私、行かないといけないんです……っ」

 一体何が小傘をそこまで突き動かすのか、それは小傘自身にも分からない事だった。
永琳は理屈として、小傘は例のバス停に秘められた思念によって精神を蝕まれ、ある種の強迫観念に支配されているのだと判断したが、少なくとも小傘本人はそうは思っていなかった。

 彼女を動かしているのは、付喪神としての意地である。
誰に強制されている訳でもなく、彼女は望んで自らの使命を全うしようとしているのだ。
 
多々良小傘、彼女は忘れ傘、誰かを待つ事に関しては誰よりも長けている。

 ・・・

 激しい暴風雨に曝されながら、小傘は懸命に例のバス停へと向かっていた。神霊としての能力が薄れているのか、今はいつものように空を浮遊する事すら出来ない。荒れ狂う雨風に加え、安定しない体調のせいで何度も転び、全身泥だらけになりながら、それでも自分の足で這うように前へと進む。よろめく身体を無理やり支えて、我武者羅にバス停を目指した。

 永遠亭からバス停へと向かう途中、道が大きな川によって隔たれていた。
老朽化し、風によって危なげに揺れる吊り橋が一本ある。

小傘はぎこちない足でその橋を慎重に渡る。
ここを超えればバス停へとたどり着ける。

……だが、その時――。

「……ッ! うわぁッ!」

 突然、怒り狂ったような強風が小傘の身に降りかかった。その瞬間、小傘は大事に握っていた、自身の本体である傘を川へと落としてしまったのである。

堪らず吊り橋から川を見下ろすが、嵐によって川は氾濫し、傘は瞬時に濁流に飲み込まれてしまった。とてもじゃないが飛び込めるような状況ではない。

このまま本体である傘を手放し続けたら、小傘はその姿を保てなくなり、いずれ消滅してしまうだろう。しかし、小傘の目の前に広がるのは土石の混じった死の激流である。

いくら何でも、ここに飛び込む勇気など、小傘は持ち合わせていなかった。

「ああ……そんな……ッ」

 小傘は何も出来ず、オロオロと吊り橋の上で狼狽える。
それでも風と大雨は容赦なく彼女の身に襲い掛かって来る。
小傘の瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる――。

「……どうしよう……どうしよう……うううぅ……っ」

 自分の使命は、雨を凌ぐ事。傘を手放してしまったら、それは叶わない。

……そう思った途端、小傘の深い部分にある芯が――鋭い音を立てて脆く砕けてしまった。

「……うわああああん……うわあああああん……っ!!」

吊り橋の上で、小傘は力無く座り込み、張り裂けるほどの大声で泣き崩れた。

……これまで気丈に振舞っていたが、小傘にも少なからず葛藤があった。
これ以上、あのバス停と関わって何か意味があるのか、自分は、誰かの役に立てるほど上等な存在なのだろうか、そもそも傘として、一体何が出来ると言うのだろうか――。

その全てが、今になって小傘の中で破裂してしまったのだ。

 あのバス停で、顔も知らない誰かを待ち続けるのは、一体どれほど心細い事だっただろうか。孤独と不安に押しつぶされそうになりながら、それでも小傘はあのバス停を放っておく事は決してしなかった。それは一体何故? 小傘は何度も自分に対して問い続けた。

どうして、何の為にこんな事を続ける? いつでも止められる事だ。誰かが期待している訳でもない。この無意味な行為の末に誰かが祝福してくれる訳でもない。それどころか、誰も小傘の事なんか見ていないし、誰も知らないから途中で投げ出したところでそれは結局挫折とは呼ばない。簡単に止められる。いつでも諦められる。取るに足らない意地など、道端に捨てたところで誰も見向きはしない。その程度の事だ。何の価値もない。続ける意味もない。

それでも、小傘は今日の今日までその行為を投げ出す事はしなかった。
それは一体何の為に? 誰の為に? そんな事、考えるまでもない。 


自分の為に決まっている。


バス停は無意味にあの場所に存在している訳ではない。迷子のバス停は、何処かの誰かを無言で待ち続けているのだ。誰かに見向きもされず、存在を忘れられてもなお――。

多々良小傘は忘れ傘、孤独の意味を誰よりも理解している付喪神である。

彼女は、忘れられた者を見捨てるような真似など出来なかった。
それは、過去の自分を嘘にしてしまう事だから。

……最後の最後まで、「持ち主は必ず帰ってきてくれる」と信じて待ち続けてしまった、何処までも愚か者だった過去の自分を、本物の「愚か者」に変えてしまう事だから。

「……悲しいよう……」

小傘はわんわんと泣きじゃくりながら無数の大雨に打たれた。それでも、雨は止んでくれない。荒れ狂う川はその勢いを増すばかりである。もう、どうにも出来ない。
自身の命である傘を手放してしまったのだ。小傘は声を上げて泣き続ける。

……そこに、まるで追い打ちをかけるような出来事が起こる。

吊り橋を支えていた綱が、激しい揺れによって引き千切れたのだ。
橋は大きく怒り狂い、小傘の身体は呆気なく濁流へと放り出されてしまった。

悲鳴を上げる暇すらなく、小傘は吊り橋の下へと落ちてしまったのである。



その瞬間、小傘の脳裏に一つの記憶が蘇った。身体が宙に浮く刹那の時間――。

小傘は、自分の事を大切にしてくれた持ち主の事を思い出したのである。



……。



小傘は持ち主の家の玄関先に立てかけられていた。詳しい話は小傘も知らないが、持ち主はとある町に住む名もなき小説家である。持ち主は静かな雨の音が好きだった。

傘に垂れる雨粒の音を聞きながら小説の題材を考えるのが日課であった。小傘にとってそれは何よりも幸せな時間であった。末永く、幸せな日々が続くと信じて疑わなかった。
いつか壊れてしまうその日まで……。

そんなある日の事、とても静かな雨の夜の事だ。

『……まさか、どうして……ッ』

 その日はいつもと少し様子が違った。持ち主の何やら言い争うような声が玄関先にまで響く。何事かと小傘は思ったが、それもつかの間、持ち主は血相を変えた状態で、傘も差さないまま家の外へと飛び出してしまったのだ。どんな状況であろうと雨の日はいつも必ず傘を差す筈なのに、雨の日に小傘を置き去りにして出かけるのはこれが初めての事であった。

 持ち主には懸想している女性がいたのだ。彼女は病弱であり、長い期間病棟で暮らしていた。持ち主は事あるごとに彼女の見舞いに訪れていた。その女性もまた、持ち主の事を想っており、二人はいつか共に暮らす事を約束している間柄であった。今夜、彼女の容態が急変したのだ。彼女の危篤の知らせを聞いた持ち主は慌てて病院へと向かう。しかし……。

家を出たまま、彼は二度と小傘の元へは帰ってこなかった。

嵐の夜、小傘の持ち主は事故に巻き込まれ、命を落としたのだ。

もう、誰も小傘の元へは帰らない。
小傘も、その事は知っていた。

……だが、心が理解する事を拒んだ。それ故に、付喪神となる際、小傘は自分の記憶を封印したのである。大好きだった持ち主が死んだという事実を受け入れる事が出来なかった小傘は、記憶の一部を改ざんし、あたかも自分は捨てられたのだと無理やり自分に信じ込ませる事によって、持ち主の死という悲しみから目を背けたのだ。

だが、濁流に飲み込まれる瞬間、その衝撃が引き金となり、小傘は本当の記憶を思い出してしまった。自分は、本当は捨てられたのではない。途端、言いようのない悲哀が小傘の内部に広がる。底知れぬ罪悪感と、無力感、恐怖心に、小傘は顔を歪ませた。

死ぬなんて、怖すぎる。
痛いのなんて、真っ平ごめんだ。

そんな当たり前の感情を抱えながら、小傘はゆっくりと目を閉じた。


……。


しかし、小傘の身体が洪水の波にのまれる事は無かった。

咄嗟に、誰かが小傘の腕を掴んだのである。
恐る恐る目を開けてみると、そこには見覚えのある少女がいた。

それは白髪の少女、藤原妹紅であった。

崩れかけた吊り橋の上にしがみつきながら、間一髪のところで小傘を助けたのだ。
妹紅はすぐに小傘を引き上げ、その小さな身体を抱きかかえながら、ゆっくりと吊り橋を戻っていく。岸へとたどり着いた瞬間、吊り橋はいよいよ激しい音を立てながら、そのまま無残に崩れ落ちてしまった。……本当に間一髪であった。

「妹紅……さん……」

小傘は呆気にとられながら、ゆっくりと妹紅の顔を見やる。
常に冷めた表情をしている彼女だが、今日は何処か様子が違う。

妹紅は岸に小傘を下ろすと、突然豹変したように怒りの形相を浮かべた。

「一体何考えてんだお前ッ!? 死にてぇのかッ!」

 妹紅の瞳には、以前の何処かニヒリスティックな態度とは打って変わり、熱く激しい怒りが込められていた。心の底から小傘の事を叱っているのだ。

突然の事に、小傘は何も反論する事が出来ず、やっとの思いで「だけど」と呟く。
しかし、妹紅は小傘の弁解を無理やり圧し潰すように、さらに語勢を強くして怒鳴りつけた。

「言い訳すんなッ! 死ぬところだったんだぞッ! てめぇマジでいっぺん死ね馬鹿ッ!!」

 怒りで思わず訳の分からない事を口走ってしまう妹紅であった。
こんな事言われたらもう何も言い返せない。
小傘は俯き、小さく、雨音にかき消されるような声で呟いた。

「……ごめんなさい……」

 妹紅に無茶苦茶に怒鳴り散らされ、小傘は途端に涙ぐんでしまう。しかしその瞬間、妹紅はすうっと優しくため息をつき、雨に濡れた小傘の身体をひしと抱きしめた。

「死んだら、死ぬほど痛ぇんだぞ。嫌だろ、そんなの」

 妹紅の身体は、まるで木漏れ日のように優しく、暖かかった。妹紅に抱きしめられながら、小傘は何度も何度も頷いた。彼女の胸の中で泣きながら、何度も頭の中で思った。

 死ぬのは怖い。痛いのは怖い。死にたくない。生きていたい。

それらを頭の中で反芻するうちに、ふっと意識が遠のいていく。
元々蓄積していた疲労も相まって、小傘はほとんど気絶するように眠りについてしまった。

 
・・・


目が覚めると、そこは再び永遠亭の病室であった。
あれから丸一日眠り続けていたらしい。

そのおかげかどうかは分からないが、体調の方は随分と良くなっていた。
しかし、小傘は申し訳ない気持ちになると同時に、言いようのない不安に駆られた。

本体である筈の傘が手元から離れてしまった事を思い出したのだ。
あれがないと小傘は幻想郷でその姿を保てなくなる。

窓の外に視線を移すと、どうやら嵐は収まったらしく、現在の天気はぱらぱらと小雨程度に落ち着いていた。……今すぐにでも探しに行かなければヤバい。
小傘は慌ててベッドから立とうとする……が。

その瞬間、今まで感じた事のない衝撃が小傘を襲った。
まるで心臓に見えない爆弾でも取り付けられたかのようだった。
あと少しでも無理をすれば、一発で壊れてしまう。
小傘もそれは感覚で理解出来た。
だが、このままじっとしてはいられない。すると――。

「落ち着きなさい、小傘さん。貴女の傘は今、霊夢が探しているわ」

 永琳が病室へと入って来た。何処か険しい表情をしていた。
かなりご立腹の様子である。それに、自分の身体をよく見ると何やら仰々しい拘束具が取り付けられていた。意地でも小傘をここから出さないつもりらしい。
身を捩るが、拘束具はビクともしない。小傘は諦めてため息をつく。

「……霊夢が、傘を探してくれているの……?」

 話を聞くと、小傘が吊り橋から落ちそうになったという話を聞いた時、霊夢はいち早く永遠亭へと駆けつけてくれたらしい。その際、本体である傘を川に紛失してしまった事を知り、その捜索を買って出てくれたのだという。

どうしてそこまで親切にしてくれるのかというと、その理由はただ一つ、小傘は、あのバス停の異変を解決する鍵となる可能性があるからだ。これまであのバス停を訪れた他の人妖とは違い、唯一小傘だけが特異的な反応を示している。これはきっと偶然ではない。

十中八九、あのバス停は小傘と、本人の知り得ぬ部分で関係している。

そんな小傘が解決の一歩手前で消滅してしまったら全てが振り出しに戻ってしまうのである……と。霊夢本人は永琳に業務っぽく説明したらしいが、単純に、これはきっと霊夢の優しさである。そこを言及するのは野暮という物だ。重ね重ね、霊夢には感謝してもし足りない。

しかし、あんなに激しい濁流に沈んだ傘がそう簡単に見つかるわけがない。
小傘は晴れない表情のまま、不安そうに窓の外を見つめ続けた。丸一日、本体の傘から離れてしまったのだ。具体的なタイムリミット等は存在しないが、そう長くはもたない。小傘は内心気が気ではなかった。

「あの……妹紅さんは……?」

 少しでも不安を紛らわせる為に、小傘は永琳に問いかけた。まずは、妹紅に礼を言わなくてはならない。いくら付喪神といえど、あの氾濫した川に無防備な状態で投げ出されていたら、きっと無事では済まなかっただろう。しかし、永琳は何処か遠い目をしながら静かに首を振る。

「あの子は、この永遠亭にはそうそう上がらないわよ。うちには、輝夜がいるから」

 話を聞くと、どうやら妹紅はこの永遠亭に住む姫、蓬莱山輝夜と仲が悪いらしい。
……不老不死である二人は、そこにどういった経緯が、何の意味があるのかは知らないが、互いに何年も殺し合いをし続けているのだという。

先日、血だらけでバス停に現れた妹紅の姿を思い出す。あれはきっと、その輝夜という人物の仕業だろう。……そんな常軌を逸した事を何百年単位で繰り返し続けているのに、妹紅は無茶をやらかした小傘の事を本気で叱り飛ばした。嵐の中、ずぶ濡れになりながら、喉がはち切れんばかりの大声で怒鳴る妹紅の事を思い出し、小傘はじっと考える。

 自らの命は軽々に粗末にするくせに、他人の事に関しては、まるで我が身のように何処までも保守的になる。普通、逆だ。人間という生き物はもっと利己的で、自分の身を守る事を優先するべきだ。他者の為に平気で自らを危険に晒す行為など、それはもはや人とは呼べない。

少なくとも、それが小傘の想像する「人間」の正しい在り方だ。そこまで考えて、小傘は頭がパンクしそうになり、そのままぼふっと毛布に顔をうずめた。

「……それが、不老不死の尺度よ。別にあの子は他人の理解なんか求めてないわ」

 何故か、永琳は何処か冷たく言い放つ。小傘は返す言葉が見つからず、とりあえず分かったように頷いて見せた。真っ白な病室の中で、小傘は妹紅について何度も思考を巡らせる。やはりどう足掻いても、妹紅の事は理解出来そうになかった。……しかし。

『死んだら、死ぬほど痛ぇんだぞ。嫌だろ、そんなの』

 それは不老不死の妹紅だからこそ吐ける、残酷で優しい言葉だ。

「……妹紅さんって何か、機械みたいな人だと思ってたから、ちょっと安心した」

 きっと、それは正真正銘「血の通った人間」にしか吐けない言葉だ。

「……先生、私……どうにかなりませんか? もう少し、続けたいんです」

 小傘は小雨の外を見つめながら力無く呟く。
それに対し、永琳は仕方のなさそうなため息で返した。

「……どうしても、やめるつもりはないの?」

 小傘はこくりと頷く。
……その行為にどんな意味があって、何の価値があるのかは分からない。
それでも、小傘が本気だという事は理解出来た。

「……残念ながら、これは医術でどうにかなる話じゃない。私の処方する薬では治せないの。だけど……あなたの、付喪神としての『核』を安定させるコツなら教えてあげる」

 永琳の言葉に、小傘はようやく窓の外から彼女の方へと視線を移した。







「……小傘さん。これまで、他の誰かの傘になろうとした事はない?」








 すると突然、永琳は意味深な問いを小傘に投げた。
 持ち主とは違う、他の誰かの所有物になる。それはつまり、『忘れ傘』の存在意義を自ら投げ出す事である。……それは、小傘が最も恐れている行為である。だが――。

小傘は数秒ほど間を空けるが……その直後、とても苦々しい表情を浮かべた。

どうやら、心当たりがある様子である。

「一度だけ……一度だけ、あります」

 小傘は遠い記憶を思い出し、微笑みながら呟く。しかし――。
 その笑みは、何処か悲しそうであった。

「……一つずつ思い出して。その記憶は恐らく、今の小傘さんの存在を保つ上でとても重要な要素になっている筈。それはきっと、今の小傘さんを支える基礎になっているわ」

 その記憶を強く念頭に置けば、核は安定する。
 永琳に言われ、小傘は「ある日の景色」を思い出す。

 それは、ある夏の日――。
向日葵に囲まれた草原で起きた出来事である。







 ・・・






 小雨が降りしきる中、霊夢は川の上を何度も往復していた。
あれだけ激しかった氾濫もようやく落ち着きを見せ始めているが、水は酷く淀んでいた。懸命に小傘の傘を探し続けるが、それらしき物は一切見当たらない。このままでは、小傘は実態を保てず、幻想郷から消えてしまうだろう。霊夢は川岸に降り立ち、付近に流れ着いた泥や水草をかき分けながら必死に傘を探す。その時――。

 ふと、足音が近付いてくるのが分かった。この場所は人里からだいぶ離れている。
恐らく、ただの人間ではないだろう。霊夢は用心して振り返った。

そこには……妖怪が一人、物も言わずに立っていた。
目を凝らしてよく見ると、それは見覚えのある顔であった。

彼女は、鬼人正邪――。
以前この幻想郷で異変を起こした後、そのまま逃走を続けている天邪鬼である。

何故か、正邪は全身傷だらけであった。顔は血で真っ赤に染まり、左瞼が赤紫色に腫れあがっていた。華奢な身体に纏った服もズタズタである。……満身創痍といった様子だ。
そして……。

ボロボロの腕には、一本の傘が握られていた。
間違いなく、それは小傘の傘であった。

「……っ! あんた、ソレ……」

 霊夢が何かを言う前に、正邪はその傘をぶっきらぼうに霊夢の前に差し出し、一言だけ呟く。

「落ちてたから拾った」

 正邪のギラギラとした目つきに、霊夢は柄にもなく気圧されながら、無言でその傘を受け取る。正邪の腕は切り傷だらけで、その細い指先は歪な方向にへし折れていた。一方、傘の方は多少痛んではいたが、幸いにも修繕可能な状態であった。……濁流に飲まれて、ここまで綺麗に原形を保てるわけがない。正邪の傷だらけの姿を見て、霊夢は思わずはっと息を呑んだ。

「あんた、まさか」


 ……正邪は、氾濫した川の中に飛び込んだのだ。
――小傘の傘を拾い上げる為に。
 
身を挺して、小傘の存在を守ったのだ。

「違う。その辺に落ちてたから拾った。偶然」

 それが嘘なのは明白であった。正邪はそれ以上何も言わず、霊夢に背を向けてその場から立ち去ろうとする。だが、正邪は痛々しく足を引き摺っていた。明らかに全身重傷である。

……よりにもよって、どうしてこの天邪鬼がそんな目に遭ってまで小傘の傘を守ったのかは分からない。傘を大事に抱きながら、霊夢は正邪の背中にぽつりと呟く。

「あんたってば、意外と……」
「うるせぇ、黙れ」

 雑音をかき消すかのように、正邪は吐き捨てた。
霊夢は仕方なさそうに鼻で息をつき、それ以上正邪に対し、深く問い詰める事はしなかった。

その時、辺りに響いていた雨粒の音がピタリと止む。
空を見上げてみると、いつの間にか曇天は疎らになり、その雲間から眩い光が差していた。

 雨は止んだ。
 
霊夢は傘を抱え、足早に小傘が待つ永遠亭へと戻った。











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