星熊勇儀
深夜、小傘は今日も例のバス停で人を待ち続けていた。
しかし、いくら待ってもその待ち人は来ない。
だが変化はあった。たまに霊夢が様子を見に来てくれるようになったのだ。今夜も、霊夢はバス停に待つ小傘の元に夜食と少々の防寒具を持ってきてくれた。本人は素っ気ない態度をしているが、真夜中の雨の日は必ずやって来てくれる。
長時間、ただじっとベンチの上に座ってひたすら来るかどうかも分からない誰かを待ち続けなければいけない小傘にとって、それはとても有難い事であった。
そんな時であった――。
霊夢が帰った後、小傘がベンチに座って夜食をもそもそと頬張っている時、誰かがずぶ濡れになりながらこちらに近付いてきているのが見えた。一瞬、霊夢が戻って来たのかと思ったが、その暗がりに見えるシルエットは霊夢より大きかった。ずいぶん長身である。
それに……何より、そいつから漂ってくる気配が人間のソレではなかった。
間違いない。あれは「妖」だ。それもただの妖怪ではない。幻想郷において比較的非力な妖怪である小傘でも、そいつが尋常ではない妖力を持っている事は感覚で理解出来た。
「うい……ひっく。おんや? ……丁度良い。雨宿りさせてもらうよ」
そいつは陽気な足取りで、バス停の中へと入って来た。
そいつの額を見た瞬間、小傘は恐怖のあまり、足が竦んで動けなくなってしまった。
一本の、大きな角が生えている。
こいつは……。
こいつは星熊勇儀、地底に暮らす鬼である。
「あわわ……っ、鬼だ、逃げなきゃ!」
涙目になりながら、小傘はゆっくりとベンチから立ち上がろうとした。だが……。
「よっこいしょっと……」
勇儀は何も言わず、彼女の隣にどしんと腰を下ろし、小傘に一瞥もくれず、そのまま小傘の肩に手を回してきたのだ。
「ひゃあ! お助けください!」
悲鳴を上げながら、小傘は恐る恐る勇儀の顔を見る。すると、勇儀の顔がとても紅潮しているのが分かった。どうやら、随分と景気よく酔っ払っている様子である。勇儀はしゃっくりをしながら、ぽうっとした顔で小傘に目をやる。
「ほお……傘の付喪神か……なぁおい、今から地底まで帰らんといかんのだが、ちょっくら私の傘にならないかい?」
そう言いながら、勇儀は断りなしに、小傘が両手で抱えている茄子色の傘に手を伸ばそうとした。しかし、小傘は咄嗟に「だ、駄目だよう!」と勇儀の手を拒む。
どんなに恐ろしい相手でも、それだけは気安く了承出来なかった。
小傘は忘れ傘、他人に傘を使われるのは大嫌いであった。
手を振り払われ、機嫌を損ねるかと思いきや、勇儀は何処か自嘲気味に笑い「ああ、そっか、これは失礼」なんて言いながら小傘に頭を下げたのだ。小傘は元々、誰かの為の傘である。それを、他人が勝手に使用するのは筋が違う。故に、勇儀は素直に小傘に謝罪したのだ。
そこからしばらく、勇儀は無言のまま、小傘の横に座り続けた。そして――。
「ちぇ、こんな雨の夜によう、傘にまで嫌われちまうたぁ、ツイてないよ」
勇儀は何処か含みのある独り言を呟いた。
緊張でこじんまりとしたまま、小傘はゆっくりと勇儀に声をかけた。
「えっと、な、何かあったの……?」
……どうして声をかけようと思ったのかは分からない。
ただ強いて言うなら、勇儀の表情がとても悲しそうに見えたからだ。小傘の問いに、勇儀はパッと明るい顔をして「おっ、話聞いてくれるかい?」と気分良く返してきた。
「聞いてくれよぉ、今日ちょいとさ、友達と喧嘩しちゃってさぁ……」
そこから、勇儀は酔いに任せて事情をポロポロとこぼし始めた。呂律が上手く回っていないので完璧には聞き取れなかったが、どうやら、勇儀は地底で仲良くしている妖怪と喧嘩をしてしまったらしい。喧嘩の理由は些細な口論であった。本当はそれほど深刻な問題でもないと勇儀は言うが、話を聞く限り、彼女自身はかなりショックを受けている様子であった。
「ひっく、うう、グスッ、本当は仲直りしたいんだけどさ、何か、引っ込みがつかなくて、こうやって地上に逃げてきたって訳なんだよ。うう、我ながら情けないよう、早く謝りたいよう」
勇儀はとうとう泣き上戸に入ってしまった。
わんわんと泣きながら、勇儀は小傘の身体にぎゅっと抱きついてきたのだ。
「うわーんっ! お酒くさいよぉ!」
小傘は何とか勇儀の腕から逃れようとするが、流石は鬼の腕力、小傘の非力な腕では引き剥がすのは不可能である。仕方がないので、小傘は勇儀が泣き止むまでジッと動かなかった。
……。
「……本当に、その友達が大好きなんだね。早く帰って、仲直りしちゃいなよ」
いっぱしの助言のつもりで、小傘は勇儀にそう告げる。しかし、勇儀は何も言わなかった。小傘はそっと彼女の顔を覗き込む。いつの間にか勇儀は小さな寝息を立ててしまっていた。小傘は心底あきれた様子でため息をつく。すると――。
もう一人、誰かがバス停へとやって来た。
「ああ、やっと見つけたわ……」
声の方へ振り向くと、緑色の瞳をした耳の長い妖怪が時刻表のすぐそばで傘を差して突っ立っていたのである。彼女は水橋パルスィ、勇儀と同じく、地底に住む妖怪だ。……どうやら、勇儀が喧嘩をした相手は彼女らしい。地上へ飛び出した勇儀を探しに来た様子であった。
「世話が焼けるわね、まったく」
何処か素っ気なくパルスィは呟き、バス停の中へ入ると、ベンチの上で眠り込んでいる勇儀の肩をそっと揺らした。
「うーん、むにゃむにゃ、パルスィ……ごめんよう、ごめんよう……」
勇儀はぼんやりと目覚め、パルスィの顔を見つめながら、寝ぼけた様子でそう囁き続けた。
「ここにきて、ずっとあなたの事ばかり話してたんだよ。もう許してあげなよ」
隣にいた小傘がパルスィに向かって心配そうな顔をしながら言う。
パルスィは深いため息を吐き、ゆっくり頷いた。
「あーもう、分かったわよ。私も悪かったわ。ごめんなさい、勇儀……」
パルスィはそう言って勇儀を立たせる。二人はそのまま、一本の傘を差し、よろよろとした足取りでバス停から出ていく。二人の頭上で誇らしげにぱらぱらと雨音を奏でる相合傘を、小傘はとても羨ましそうに見つめていた。二人の影が見えなくなるまで――。
小傘の待ち人は、今夜も訪れなかった。