『雨を見くびるな』
彼岸の向こう、地獄の門前に、成仏出来ぬ魂が行き着く場所がある。
ここは、現世において「不慮」の死に方をした魂が、天国にも地獄にも行かずに留まり続ける場所、言わば、最後の地点。魂を管理する者は、ここを「囚われの花圃」と呼ぶ。
ここでは魂が花となって具現化する。人、妖問わず、それぞれ魂の在り様にとって様々な花を咲かすのだ。そこに、一人の閻魔が小さなじょうろを持ってやってきた。
彼女の名は四季映姫・ヤマザナドゥ、是非曲直庁に務める閻魔の一人である。四季映姫はじょうろを用いて囚われの花圃に咲く花に丁寧に水をやっていく。こうやって定期的に行き場のない魂の花の世話をするのも彼女の仕事の一つであった。……いや、仕事といっても、ここに咲く花はあくまで魂の具現であり、仮に水をやらなくても枯れる事はない。彼女にとってこれは仕事というより、一種の趣味のような物と言った方が正しい。彼女は堅物の閻魔、囚われた魂を放っておく事が出来ないのである。
「……いい加減、自分を許してあげなさいな」
花圃に咲いたアサガオに向かって、四季映姫は水を与えながら優しく話しかける。このアサガオは生前、家族を養いながら真面目に働き続けた男の魂の具現である。彼は仕事の帰り道、盗人によって刃物で腹部を刺されて死亡した。まさしく、不慮の死である。故に、現世に残した家族への想いを断ち切れず、この花圃に留まっているのである。
「残された家族は、貴方の事を今でも愛している。愛しているが故に、懸命に前へと進もうとしている。貴方は安心して、ゆっくりと休みなさい――」
すると、途端、アサガオの花弁が仄かに光を帯び始めた。浄化、全てを受け入れたかのような穏やかな光であった。その瞬間、アサガオは見る見るうちに一つの灯となり、ゆっくりと天空へと昇って行った。……四季映姫の声により、アサガオの魂は過去の後悔から自分を解放する事が出来たのだ。浮かんでいく光を見つめながら、四季映姫は報われたような表情を浮かべた。何年も何十年も愛で続け、寄り添い続け、この花圃に咲く花はようやく自分を許し、極楽浄土へと向かうのだ。四季映姫は、その瞬間が何よりも好きだった。
四季映姫は満足したように次々と花に水を与えながら、その一つ一つに閻魔としてかけられる限りの言葉を添えていく。今はまだ寂しげに咲くだけの花も、年月をかければいつか必ず己の内にある罪を許し、天へと還っていく。――ここに咲く花は須らく、そう在るべきだ。
それでも、花圃に咲く花は今もなお無限に増え続けている。一体、現世はどれほど無情なのだろうか? 四季映姫はじょうろを持って花圃の道を歩き続けた。この場所は見渡す限り、悔悟の花で満ちている。しかし、見捨てる訳にはいかない。と、その時――。
ふと、花圃の隅に目をやると、先ほどのアサガオと同じく、強い光を放つ花が咲いているのが見えた。それは大きな一輪の「向日葵」であった。……ここに咲く花は皆、時が止まったように暗く静止し続けている筈だが、その向日葵は光を失わず、立派に輝き続けていた。過去に対し、何の後悔もなく、自身の最後をしっかりと受け入れている。そんな魂が、この囚われの花圃に咲いているのはおかしい。四季映姫は不審に思い、向日葵へと近付いた。
――お願いがあるんだ。
あろう事か、その向日葵は四季映姫に向って話しかけてきたのだ。冷静を保っていた四季映姫が、ついに動揺を見せた。この花圃に咲く花、行き場を失った魂は所謂「言語」を持たない。ただひっそりとこの場で身を寄せ合い、後悔の念に囚われながら存在し続けるだけだ。
「あなた……何処から迷い込んだの?」
四季映姫は向日葵に疑問を投げかける。しかし、向日葵は一方的に話を続けた。
――お願いだよ、「人」を、探してほしいんだ。
明らかに、この花圃に囚われている魂ではない。目の前の向日葵は光に満ちている。恐らく、この向日葵は天国で転生を待つ筈の魂だ。花弁を包む優しい光がそれを物語っている。
「誰を探してほしいの?」
――傘のお姉ちゃんがね、バス停で待っているんだ。
「……!」
バス停に、傘。四季映姫は数日前の事を思い出した。あれは確か、仕事の合間に息抜きのつもりで幻想郷に降りた日の事だ。その日は生憎の雨、四季映姫は道の途中にあるバス停で雨宿りをしていたのだが、そこに、一人の可愛らしい忘れ傘の付喪神がやって来たのだ。
彼女の名は、多々良小傘。彼女はあのバス停で、ずっと誰かを待っているのだ。
「あなた、小傘さんの事を知っているの?」
――お願いだよ。お姉ちゃんの為に、ある人を探してほしいんだ。
……。
本来、一個人の魂の私的な要望を聞くのは閻魔としてご法度である。だが、多々良小傘は別だ。四季映姫は閻魔としてではなく、ただ純粋に「四季映姫」個人として彼女の事を気に入っていた。……多少、依怙贔屓になってしまうが、まぁ、これは「友人の為」として目を瞑ろう。
「あなた、名前は?」
――自分の事は、もう忘れちゃった。
――でもね、お母さんと、傘のお姉ちゃんの事は覚えているよ。
――お母さんと、傘のお姉ちゃんが大好きなのは、ちゃんと覚えているんだ。
すると、向日葵は輝きを増し、次第に一つの大きな光となって宙に浮かぶ。
間違いない。輝きの強さ、この瑞々しさ、彼は……この子は、まだ赤ん坊だ。
「……あなたの願い、きっと叶えましょう。それが、小傘さんの為になるのなら」
灯は安心したように、天へと還っていく。驚いた事に、向日葵の魂は自分の意志で天国を抜け出し、一時的にこの花圃へとやって来たのだ。ただ一つの願いを四季映姫に託すために。
――お願い。お願いだよ。
向日葵の魂は最後にそう言い残し、ひと際強い光を放ってこの場を去っていった。
まるで、夏の一陽のように眩い光であった。
・・・
幻想郷の夕暮れに雨が降る。
しかしその日、何故か小傘の足取りは酷く重かった。前に雨が降った時、豊聡耳神子に言われた言葉が脳裏から離れない。あの日、神子は例のバス停へと訪れ、その正体を口にした。
未だに信じられずにいた。
夢にも思わなかった事である。
まさかあのバス停が、よりにもよって自分の持ち主が関係しているとは――。
それでも雨は次第に勢いを増していく。迷っていても雨は止んでくれない。小傘は覚悟を決めて例のバス停へと向かっていた。妙に心がざわざわする。……とある予感があった。
今日、あのバス停で何かが起こる。漠然と、そんな気がする小傘であった。
雨の中、小傘はバス停のベンチに座り、本日も誰かを待って過ごしていた。ここまではいつも通りだ。だが、今日はやけに胸がざわつく。一生の終わりを予感させるような緊張があった。この雨の後、自分という存在は綺麗に無くなってしまい、何も残らなくなってしまうのではないか、まるで……自分など、初めからここには「居なかった」かのように――。
「そ、そんな訳ない、そんな訳ないよっ」
小傘は震える腕を抱きながら必死に自分を励ます。
すると――。
遠くから、誰かがやって来るのが見えた。小傘は恐る恐るその人物を見つめる。
見た事もない女性であった。人里でも見かけた事がない。女性は静かにバス停へと入って来る。小傘に向って小さく会釈をし、そのまま、小傘の横に慎ましく座った。小傘はちらと女性の横顔を見る。透き通るように白い肌、とても美人な女性であった。だが、その表情は何処かガラスのように儚げであった。ジッと見続けていると、その視線に気付いたのか、女性は小傘に向って優しそうに微笑んできた。小傘は咄嗟に視線を逸らす。
「雨、しばらく止みそうにないですね」
すると、女性が小傘に話しかけてきた。小傘はぎこちなく頷く。
……ここで妙に間を作るのも何だか居心地が悪い。小傘は無理やり問いかけた。
「雨宿り……ですか?」
すると、女性は少し不思議そうな顔をしながら首を傾げた。
「バスを、待っているんです。……行きたい場所があるので」
確かに、本来、バス停とはその為の場所だ。しかし、小傘は先日神子に言われた事を思い出し、そっと隣に置いてある時刻表に視線を移した。
「このバス停には、バスは来ませんよ。時刻表、真っ白だし」
「……ええ、それは不思議ですね」
しかし、女性は驚く素振りを見せず、そのまま雨の降る遠くの雑木林を呆然と見つめた。
「でも、それで良いんです。……私は、一人でバスに乗る訳にはいきません」
「……誰かを待っているの?」
小傘がそう問うと、女性は何処か照れくさそうに、しかし、それでも何処か悲しげに微笑んだ。じっと考え込み、女性はゆっくりと口を開く。
「私の待ち人は、いつまでもやってはきませんよ」
その時である――。
女性の身体が、ほんの少し、蜃気楼のように薄くぼやけたのだ。
「あなた、その身体……」
この人は、彼女は生身の人間ではない。
彼女は、霊体。魂だけの存在――。
……いや、彼女だけではない。彼女の魂が揺れた瞬間、ほんの一瞬だが、このバス停の内部に歪な光が走ったのだ。まるでノイズのように、バス停の景色が歪んだのである。明らかに、女性の魂と同期している。……神子の言っている事は正しかった。ここは――。
そして、この人は――。
小傘が唖然とした表情を浮かべていると、女性は恥ずかしそうに笑った。
「……ええ、私は遠い別の時代にて命を落とし、この地に迷い込んでしまったのです」
ここは、このバス停は、彼女の魂が見ている「ひと時の夢」のような物である。
彼女の思念が、「バス停」という形で幻想郷に具現していたのだ。
「誰を、待っているの……?」
本当は、聞かなくても分かる事であった。だが、小傘は尋ねずにはいられなかった。もし、神子の推測が全て正しければ、もしそうなら、この女性は、この人は――。
「私の、最愛の人です」
それから、女性は小さな声で生前の事を話し始めた。
・・・
彼女は、とても病弱であった。
不治の病を患っており、医者からはもう長くないと言われていた。
だが、そんな彼女の事を、いつまでも大事に思ってくれる男性がいたのだ。
彼は町の外れに住むしがない物書きである。
何処までもお人好しで、誰にでも分け隔てなく接する心優しい青年であった。初めて出会ったのは、町の小さなバス停。その日は随分と静かな雨が降っていた。病院の帰り、女性はバス停で雨が止むのをひたすら待ち続けていた。そこに突然現れたのが、その青年である。
彼は、紫色の風変わりな傘を差していた。
困っている彼女を見るや否や、彼は手にしていた傘を即座に彼女の頭上にかざした。雨の中、青年は彼女を家まで送り届けた。それが二人の出会いであった。
二人は恋に落ちるが、病は容赦なく女性の身体を蝕み続け、ついに病棟から出られなくなってしまう。しかしそれでも青年は、暇を見つけては彼女の見舞に訪れた。それを嬉しく思うと同時に、悲しくもあった。これ以上、自分のせいで青年を悲しませてはならない。
女性は決心し、青年に別れを告げた。だが、青年は優しくそれを拒んだ。君を、一人にはしない。青年の優しさに、女性は涙を流し、これまで隠し続けてきた弱音を見せてしまう。
あなたと共に生きていたい。元気になったら、一緒に帰りましょう。
必ず、迎えに行きますとも。その時は、あのバス停を待ち合わせにしましょう。
いつまでも『私は、あなたを待っている』――。
いつまでも『私は、君を想う』――。
しかし、二人の願いが成就する事は無かった。
これまでは比較的に落ち着きを見せていたが、ある晩、女性の容態が悪化してしまう。その知らせは青年の元にも届いた。土砂降りの雨の中、青年は愛用の傘も差さず、ずぶ濡れになりながら病院へと向かった。しかし、その途中、青年は不運な事故に巻き込まれ、帰らぬ人となった。病室、死の淵に立たされた女性は、最後まで、青年の事を想い続けていた。
最後に、あなたと会いたい。せめて、一目だけでも――。
二人は、顔を合わす事なく、この世を去ってしまったのだ。
これは、ありふれた恋物語。
ありふれた、悲しい二人の物語。
・・・
「それで……今もずっと、ここで、その人を待っていたんだね?」
すべてを語り終えた女性に、小傘はそっと問いかけた。女性は静かに頷く。
「不思議とね、寂しくはなかったですよ」
だって、私の傍には、いつもあなたがいてくれたから――。
彼女はそう言って、徐に小傘の手を優しく握りしめた。小傘は照れくさそうに顔を赤らめる。しかし、女性は深く息を吐き、疲れたように呟いた。
「……でも、それももう終わりにしましょう。このままでは、あなたの存在が私の記憶の中に混じってしまう……そうなればいずれ、ここから出られなくなってしまうでしょう」
「本当に、それでいいの? ……大好きなんでしょう? その人の事……」
「ええ。ですが、もう良いのです」
しかし、女性の横顔はこれ以上ないほどに切なげであった。
どう声をかけたらいいのか、分からなくなる。
……しかしこのまま、彼女を放ってはおけない。
だってこの人は、小傘の元の持ち主が愛した女性だからだ。
「ずっと、私もね、ここで誰かを待っていたんだよ」
そこで、小傘は女性の目を見ながら、小さく呟いた。
声は弱々しかったが、それでも、小傘の二つの目は揺るぎなかった。
「きっとね、私は今日までずっと、あなたの事を待っていたんだと思う」
だから、少しだけ、せめて、この雨が止むまでは一緒にいようよ。
小傘がそう言うと、女性は少々困ったような表情を浮かべながら笑った。しかし、引き留めておいて、今の小傘に出来る事は何もなかった。彼女に出来る事は、ただひたすら「待つ」事だけだ。沈黙が続く。静寂に押し潰されそうになる。……以前、神子が言っていた事を思い出す。
『君は、これまで通り、『君のまま』でいたらそれで良い』
君のまま、なんて言われても、それは一体何を指しての「君」なのか? 雨の中、女性の隣で、小傘は頭を抱えて考える。これまで通りの自分、とは? 自分は今まで何をしてきた? このバス停で、一体何をやってきた? 小傘はこれまでの事を一つ一つ思い出していく。
最初の頃、小傘は独り、偶然このバス停を見つけた。それは雨の日の事。どうやってこのバス停を見つけたのか、確か、人里で噂を聞いたからだ。だから、面白半分で近付いた。それが出会いであった。だが、この空間に足を踏み入れた瞬間、不思議な感覚に襲われたのだ。
ここで、誰かを待たなくてはならない。その思念を全身で感じ取った瞬間、小傘は誰に言われた訳でもなく、自分でそう決意したのだ。何となく? 一言で片付けてしまえばそれまでだが、付け加えるなら、小傘は本質的に「そういう付喪神」だから、である。
忘れ傘は、孤独な者を放ってはおけない。
小傘は懸命に雨が降る度にバス停へと向かい、そこで誰かを待ち続ける日々を送った。
「……少し、私の話を聞いてもらえるかな?」
小傘はふと、隣に座る女性に話しかけた。
「ええ、良いですとも」
雨はいつまでも止みそうにない。しかし、このまま二人並んでベンチに座りながら無言を貫き続けるのはあまりにも寂しい。……話したところで何かが変わる訳ではないが。
それでも小傘は、誰かに知ってほしいと思った。
「大した話じゃないけど、それでも良い?」
小傘申し訳なさそうに言うが、女性は優しく微笑んで応えた。
そう……はっきり言って、大した話ではない。
これは、何処にでもある「雨宿り」の話なのだ。
・・・
ある日、同じく雨の降る真夜中の事だ。
幻想郷の巫女、博麗霊夢が現れたのである。彼女は異変解決の為にバス停へと訪れたのだ。彼女は簡単にバス停の内部を見回し、害がない事を知ると即座に帰ってしまった。
霊夢が去っていった時にふと気付いた。心細かったのだ。霊夢のいなくなったバス停で、小傘は懸命に正体不明の誰かを待ち続けた。途方もない事をしている自覚はあった。それでも、自分で決めたからには、途中で投げ出すのは嫌だった。
忘れ傘が一度、寄り添うと決めたのだ。反古には出来ない。
何処までも深くなる夜の闇に飲み込まれそうになりながら、小傘はずっとバス停に居座り続けた。しかし、そんな時――先ほど去っていった筈の霊夢が再びバス停へとやって来たのだ。
霊夢は素っ気ない態度を取っていたが、きっと、彼女なりに小傘の事を慮ってくれたのである。霊夢の優しさに触れ、小傘は己の中に広がっていた孤独感を忘れる事が出来た。
「知ってる? 幻想郷には、こんなに優しい人間がいるんだよ」
「その人はとても、強い人なのね」
・・・
それから再び、雨の降る深夜。
いつものようにバス停で待っていると、今まで感じた事もないほどの妖気を纏った者が現れた。それは、幻想郷の中でも危険と恐れられている鬼の種族、星熊勇儀である。最初こそ、小傘は勇儀を恐れ、その場から逃げ出そうとしたのだが、そのまま捕まってしまい、動けなくなってしまった。ここまでだと思ったが、どうやら勇儀は酷く酔っ払った様子であった。
話を聞いてみると、どうやら地底の友人と喧嘩してしまい、地上へと逃げてきてヤケ酒をしていたのだという。鬼とは、どの種族からも畏れ敬われる存在だ。そんな彼女が、酔いに任せてわんわんと泣き崩れながら言うのだ。種族も立場も忘れて泣き続ける勇儀を見て、小傘は思った。
本当に、その人が大好きなんだね。
しばらくすると、地底から迎えがやって来た。勇儀が喧嘩をした相手、水橋パルスィである。パルスィは勇儀と共に、一本の傘で地底へと帰っていった。
その二人の相合傘を、心底羨ましいと思った。
「勇儀さんは怖いけど、あの時の泣いてる勇儀さんは、ちょっと可愛いって思っちゃった」
「……あなたになら、自身の弱みを見せてもいいと思ったのでしょう」
・・・
真昼の通り雨、小傘がバス停へと訪れると、珍しい人と出会った。
彼女の名は四季映姫・ヤマザナドゥ、この幻想郷の地で死んだ者の魂を裁く閻魔である。仕事に行き詰った彼女は、部下の勧めで幻想郷に降り立ち、ひと時の休息を取っていた。しかし、根が真面目な彼女はそれでも気丈に振舞っていた。それが閻魔としての務めだと、そう堅く自分を律していたのだ。このまま無理をさせれば、いつか壊れてしまう。そんな予感がした。
小傘は仕事に戻ろうとする四季映姫を呼び止め、無理やりにでも休ませようとした。この通り雨が過ぎ去るまでの時間なら、そのくらいなら、別に罰は当たらない筈だ。
……死後の世界、人間を裁く行為というのは一体どれほどの責任が伴うのだろうか? きっと、想像を絶するほどの重圧に違いない。四季映姫の、疲れ切った表情がそれを物語っている。とてもじゃないが、肩代わり出来るような物ではない。だから、己の使命を果たすために休息を取る閻魔の寝顔に向かい、精一杯、小さくエールを送った。
この人は、裁判とは違う場所でも懸命に戦っている。
雨が止み、つかの間の休息は終わる。四季映姫は目覚め、小傘に別れを告げて自身の職務へと戻っていった。しかし、その表情は何処か晴れやかであった。
胸を張って、世の悪人を地獄の底の底まで叩き落としてこい。負けんな、潰されんな。そのプレッシャー、代わってあげる事は出来ないけれど、それは、あなたにしか出来ない事だから。
「四季映姫さん、カッコよかったなぁ」
「ええ、責務に目を逸らさず、とても立派なお方です。それを、止めようとするあなたも」
・・・
時には嫌な思いをした事もあった。
土砂降りの雨の中、一人の妖怪がバス停へとやって来たと思いきや、小傘が大事に抱えている傘を見るな否や、それを問答無用で奪おうとしたのである。妖怪の名は鬼人正邪、幻想郷の転覆を企てた、危険な妖怪、天邪鬼。郷中のお尋ね者である。小傘は必死に抵抗をするが、その時、小傘は正邪に心無い言葉を浴びせかけられた。
『役立たずのオンボロのくせに』
役立たず、それは、道具に対するこの上ない侮辱である。小傘は、確かに流行の色ではない傘であったが、役立たずと言われた事はただの一度もなかった。それ故に、心の底から傷付いた。それは、小傘だけでなく、小傘の元の持ち主さえも侮辱する言葉だ。
だが、奪われる一歩手前で、思わぬ助けが入った。以前、夜のバス停に深く酩酊した状態でやって来た鬼、星熊勇儀が正邪を思い切り殴り飛ばしたのである。どうやら、酔い潰れていたところを小傘に介抱してもらったと思っているのだろう。鬼は種族問わず、紛れもなく恐怖の存在であるが、それ以上にどの種族よりも義理堅い性格をしている。勇儀は小傘に一本の酒瓶を渡し、すぐさまその場から離れていってしまった。
小傘は正邪を起こし、自分に謝罪するように責めた。謝らないと、許さない。しかし、それで素直に従うのであれば、天邪鬼なんて呼ばれてはいない。正邪はそのまま逃げ去ってしまった。
言われっぱなしで、傷付いている自分がとても哀れに思えた。こんな思いをするのなら、勇儀の言う通り、関わらなければ良かったと思った。あんな妖怪に、まともな謝罪を要求するなど、愚かな事であった。しかし、しかし――。
「……私は間違っていない。それだけは、曲げたくない」
「ええ、あなたは何一つ間違ってはおりませんよ」
・・・
蓬莱人がやって来た事もあった。
雨の夜、迷いの竹林に住む少女、藤原妹紅が傷だらけでバス停へと現れたのである。小傘は慌てて妹紅へと駆け寄るが、彼女は平然その物であった。痛がる素振りすら見せない。
妹紅は言う、自殺に失敗したんだと。
不老不死の価値観など想像も出来ない。それでも小傘は、人間の命の儚さを誰よりも知っているつもりであった。故に、小傘は妹紅の事を、好きにはなれなかった。人間は、命を無駄遣いしてはいけない。少なくともそれが小傘の「命」に対する認識であった。
傷が完治するのと同じタイミングで雨が弱まる。本当は何も言わずに行かせてしまおうかと思ったが、小傘は、妹紅の寂しげな背中に、つい問いを投げてしまった。
「それだけ傷ついて、何度も死ぬような思いして、辛く、ないんですか?」
痛く、ないんですか?
それは何処までも月並みな問いであった。だが、妹紅はその質問に対し、即答する事が出来なかった。彼女はこれまでに何度も死に値するほどの傷を負ってきた。当然のように痛覚も鈍感になっている。事実、妹紅は四肢を引き裂かれようが平気で笑うような人間である。
少しだけ悩み、妹紅は小さく「ちっとも」と答えた。
徹底的に、決定的な一線であった。小傘は思う。妹紅の事は、一生出来ない。死ぬなんて嫌だ。痛いのは嫌だ。本来、生き物は皆そう在るべきなのに――。
「でも、その時の妹紅さんは……何処か悲しそうだった」
「誰も、その人の事は理解出来ませんよ。……私達には「永遠」など無いのですから」
・・・
守矢神社の巫女、東風谷早苗がやって来た事もあった。
……。
「……あー、別にあの人の話はいいや」
「けれど、きっと愉快な人なのでしょうね。あなた、嬉しそうですもの」
・・・
突然、貧乏神が現れたりもした。
真夜中の雨、霊夢がくれた夜食を食べながらバス停で待っていると、突然、貧乏神の依神紫苑が小傘の元にやって来たのだ。みすぼらしい恰好で、酷くお腹を空かせていた。そんな人の目の前で飯なんか食えない。小傘は若干、内心渋々と紫苑に夜食のおにぎりを恵んであげた。
話を聞くと、どうやら紫苑は世話になっている天界の屋敷から抜け出し、喧嘩中である妹を訪ねる為に幻想郷へと降りてきたのだという。妹の名は女苑、疫病神である。女苑は現在命蓮寺にいるらしいが、土壇場になって会うのが怖くなり、紫苑は今までずっとこの近辺をウロウロしていたのだという。……仲直りするのが怖いのだ。
今より、状況が悪くなってしまうかもしれないから――。
彼女を見て、小傘は以前ここに訪れた鬼、星熊勇儀の事を思い出していた。彼女は地底の友達と喧嘩をして地上へと逃げてきたのだ。結局、その夜は勇儀の喧嘩相手であるパルスィが彼女を迎えに来たのだ。結局、諍いなど大抵は時間が解決するものである。
……喧嘩が出来るという事は、一度は理解し合っていたという事だ。
きっと、仲直り出来ない筈がないのだ。小傘が紫苑にそう言い聞かすと同時に、雨がピタリと止んだ。きっかけなんて何でもいい。きっかけなんて、このくらいが丁度良い。
紫苑はようやく納得したように頷いた。小傘は残っていた夜食を全て紫苑に渡し、その小さな背中を見送る。お腹は空くけれど、それでも、それを空虚とは思わない。
「仲直りって、そんなに難しい事なのかな?」
「そうですね。お互いに、相手の事を想っているのなら、特にそう……」
・・・
魔法の森にある道具屋、香霖堂の店主、森近霖之助がやって来た日の事だ。
その日は心地の良い天気雨。雨はすぐに上がる。その時、バス停に霖之助が訪れたのである。
彼はこの幻想郷でも珍しい、人間と妖怪の混血種である。霊夢と同様、バス停の調査の為にやって来たのだ。彼は、見ただけで物の名称と用途が分かる程度の能力を持っている。霖之助はバス停を見て、その用途をこう言い表した。
『あの人を待つ場所』
思えば、あの時点でバス停の正体は既に明らかになっていたのだろう。ここは、とある女性が恋人を待つ為だけに作り出された空間だ。霖之助は、一目でそれを言い当てていたのである。
とても、奇妙な一日であった。
しかし何故だろうか? 彼を見ていると心が締め付けられる。彼は、霖之助は人間と妖怪の混血種、以前の幻想郷では、生きる事すら許されなかった存在である。
彼を見ていると、不思議と嬉しくなる。
それと同時に、悲しくもなる。
「ねぇ……。あなたは、やっぱり――」
「その人は、とても素晴らしい目を持っているのね」
・・・
ある日、雨の降る夜のバス停にて、独りで待っていた時の事だ――。
いつもの事の筈なのに、その日の雨は少し様子が違った。まるで、この世界に溢れる憂鬱を黒く塗りつぶし、ひたすら空から流し続けているかのような、何処までも落ち込む雨の夜であった。永遠に続く闇に飲み込まれてしまいそうなる、そんな夜。
いつかもこんな雨が降っていた。小傘が「忘れ傘」となった日の事だ。小傘は持ち主の事が好きであった。好きゆえに、分からなかった。どうしてあの人は私を忘れてしまったのか――?
どうして、私を置いて行ってしまったのか――?
目が覚めると、小傘は永遠亭のベッドに寝かされていた。とても酷い高熱であった。永遠亭の薬師、八意永琳は小傘の症状を「妖怪としての概念が狂い始めている」と説明した。窓の外を見る。激しい嵐が訪れていた。今日も、あのバス停に向かわなければ――。きっと、寂しい思いをしている筈だ。私が寄り添ってあげなければ、その一心で、小傘は永遠亭を飛び出した。
ぼやけた視界にふらつく足、泥だらけになりながら、それでも懸命にバス停へと向かった。だがその途中、竹林と人里を隔てる一本の吊り橋の上で、小傘は自身の命ともいえる傘を川に落としてしまったのだ。
あれが無ければ、使命を果たせない。あれが無ければ、生きる意味なんてない――っ!
小傘は吊り橋の上で無様に泣き出してしまった。これまでの心細さ、寂しさを声に出し、激しく泣きまくった。しかし、悪い事は重なる物である。その時、強風により、吊り橋の綱が引き千切れ、小傘は橋から崩れ落ちてしまう――。
「――その時ね、全部、思い出したんだよ」
「……それで、どうなったのです?」
瞬間、記憶が蘇る。
脆い心を護る為に、自らの手で投げ出した記憶の断片、これまで愛されていた事、これまで愛され続けていた事、今も変わらず、ずっと、大切にされていた事――。
小傘は見捨てられた訳ではない。
持ち主は彼女を残し、命を落としたのだ。持ち主の死を受け入れる事が出来なかった小傘は、その記憶を自ら封印し、忘れ傘の付喪神となって現世に留まった。それが今の小傘だ。
記憶を取り戻した瞬間、小傘は計り知れない絶望に襲われた。一瞬であったが、生きている事さえも嫌になった。力を失くした小傘の身体は、氾濫し、荒れ狂う川へと落ちる――。
だがその瞬間、手を差し伸べる者が現れた。
それは以前、小傘がバス停で出会った不死の少女、藤原妹紅であった。
妹紅は小傘を抱きかかえ、そして、その華奢な身体からは想像もつかないほどの大声で怒鳴り散らした。危険を冒した小傘を、力いっぱい叱ったのである。
『死んだら、死ぬほど痛ぇんだぞ。嫌だろ、そんなの』
妹紅は、小傘の震える身体をひしと抱きしめながら、力強く呟いた。今なら、今ならあの言葉の意味を理解する事が出来る。
「死ぬのは痛い」――彼女の言うその痛覚は、死ぬ者を指しているのではない。
それは、残される者の「痛み」だったのだ。
藤原妹紅は不死の存在。永劫、死は訪れない。故に、彼女は常に残される者だ。近しい者が死によって遠ざかってしまう。彼女にとって、痛みはそこにしか存在しないのだ。だからこそ、妹紅は小傘の事を本気で叱ったのだ。出会って間もない筈の小傘を思い遣ったのだ。
再び、小傘は永遠亭へと運ばれ、そこで大人しく療養する事になった。
その後、幸いにも失くした傘を霊夢が拾ってきてくれたので、小傘は泣きながら霊夢に礼を言ったが――どういう訳か、霊夢は少々ぎこちなさそうな表情をしていた。
「でも何でだろ……あの時の霊夢、何かを隠しているみたいだったな」
「ともあれ、あなたが無事で良かったです」
・・・
……幽香についても、少し話しておこうと小傘は思った。
彼女の名前は風見幽香。今の幻想郷が出来る以前、共に生きた友人の話である。
本当は思い出すだけでも悲しい過去なのだが、紛れもなく大切な思い出である。あの時期があったからこそ、今の小傘があるのだ。決して、忘れてはならない日々だ。
小傘は幽香と共に、ひたすらに「人」を知った。あの日、太陽の畑で出会った赤子を通し、二人は人間という生き物を理解しようとした。人とは本来優しい生き物であると信じた。
人間と妖怪が争い合っていた時代の話である――妖怪が人と共に生きる事は許されない。それに、何より幽香という存在である。彼女は、幻想郷最強の妖怪である。そんな彼女が、他の妖怪の勢力に放っておかれる筈がない。三人の暮らしは、いとも簡単に壊れてしまった。
それでも、幽香と小傘は懸命に平和を守ろうとした。人間の住む隠里で、妖怪の身でありながら、赤子の為に身を削り続けた。それは偏に、家族を守りたいが為であった。
次第に時代は移り変わる。繰り返される抗争に、幻想郷の管理者である妖怪の賢者と、当時の博麗の巫女による停戦協定がようやく結ばれようとしていたのだ。妖怪側はそれを阻止するべく、隠里を強襲しようと目論む。だが凄惨な戦いの末に――命を懸け、必死で人間を護る幽香の姿を見て、妖怪達は心を改めたのである。この時を以て、人妖の戦は終結した。
だが――そんな二人を待っていたのは、己の死よりも重い悲劇であった。
隠里の人間が、赤子の命を奪ったのだ。
村を強襲しようとした妖怪と同様に、人間達は停戦を拒否するつもりであったのだ。戦争の口実を作る為に、二人が育て続けた大切な赤子を殺し、幽香を逆上させ、その犠牲になる事で協定を妨害しようと企んだのだ。たったそれだけの、それだけの事の為に――。
幽香は、必死に耐えた。怒りに身を任せ、本来の妖怪らしく、人間達を皆殺しにする事だって出来た。だが幽香は、愛する我が子の尊厳を守る為に、それをしなかったのだ。
二人は赤子の死体を、三人が出会った太陽の畑に埋めた。
悲しいけれど、決して忘れてはならない、大切な思い出である。
……。
……本当は言わないでおくつもりであったが、小傘はこの場で告白した。
その時、一度だけ、たった一度だけ、他人の傘になる事を望んでしまった事を――。
「でも、私は後悔してないよ。あれは、本心だったよ」
「……ええ、あなたは、ありのまま、あなたである事を誇るべきです」
・・・
その時、豊聡耳神子が言っていた事を思い出す。
『君は、これまで通り、『君のまま』でいたらそれで良い』
これまでの日々があったからこそ、小傘は「らしく」在れた。
このバス停で過ごした日々は、きっと無駄ではなかった筈だ。
今思えば、その一つ一つが、小傘にとっての存在証明へと繋がっていた。
全て、小傘だからこそ、忘れ傘の小傘だったからこそ見る事の出来た景色だ。
・・・
これで、小傘の話は終わりである。
このバス停の答えは全て神子が導き出してくれた。
このバス停は、小傘の横で優しく微笑み続ける女性が作り出した風景だ。そして――。
小傘は、そんな彼女をいつまでも待ち続けた。
小傘には、持ち主の優しさが深く宿っている。
きっと小傘はこの時の為に、今までずっとバス停で待ち続けたのだ。
「あなたは、私の、持ち主の事を、今でも愛しているんでしょう?」
「ええ、勿論ですとも」
女性の笑みに、小傘はほんの少しだけ嫉妬を覚える。
だがそれ以上に、嬉しくもある。女性は小さく付け加えた。
「……あの人は、とても優しいお方でした」
お互い、理解し合うにはその言葉一つで十分であった。小傘は照れながら頷く。
「……うん、知ってるよ」
全てを話し終え、再びぎこちない沈黙が二人を包み込んだ。雨は緩やかに降り続けている。小傘は無言のまま、女性の手を小さく握りしめた。……霊魂だけの存在とはとても思えないほど、その人の手は柔らかく、優しかった。……だが、その瞬間。
「……っ、う、あ……」
小傘は小さく呻き声を上げ、その場に蹲ってしまう。突然、全身が痺れて動かなくなってしまったのだ。苦痛と同時に、バス停の景色が歪む。……あまりにも長くここに居すぎた。全身に走る痛みにより、小傘はようやく実感する。自分という存在が、このバス停、つまり女性の作り出した心象風景に徐々に浸食されつつある事を――。
このままでは、小傘は、女性の思念と共に幻想郷から消えてしまう。永遠に、このバス停の一部となり、現れる事のない誰かを待ち続ける事になる。
「いけません、小傘さん……もうおよしなさい。あなたは、ここにいてはいけない」
女性は優しく小傘に語りかけるが、小傘は必死に首を横に振った。
……感覚でわかる。自分の中に、自分を形成する大切な核があるとする。その核に、小さくヒビが入っている。このままでは、きっと壊れてしまう。自分ではなくなってしまう。小傘もそれは頭で理解していた。理解していたが、それは決して、投げ出す理由にはならない。
「大丈夫だよ。私は、あなたを独りにはしないよ」
「どうして、どうしてなんです? 小傘さん、どうして、私の為にそこまで」
女性は困った表情を浮かべた。だが、小傘は額から大粒の汗を流しながら、ゆっくりと笑う。
「それはきっと、私の持ち主が、そう望んでいるから――」
小傘の存在とは肉体ではない。誰かを待ち続ける一途な想い、それこそが彼女の全てだ。
小傘は虚ろな眼差しで女性の顔を見た。とても悲しげであった。再び、小傘は彼女の白い手を握ろうとした……が、出来なかった。自分の腕が、ほんの少し透けていたのだ。このバス停を生み出した彼女が目の前に現れた事で、小傘に対する影響が強まっているのだ。腕に力が入らなくなる。もう、身を起こす事も難しかった。ふらつき、そのままベンチからずり落ちそうになる。女性が慌てて小傘の身体を受け止めた。
「もう、いいのです。小傘さん。私は、自分の運命を受け入れます」
……明らかに、それは嘘である。女性は今にも泣きだしそうな顔で笑っていた。
こんな顔をさせる為に、小傘はここで待ち続けた訳ではない。
「駄目だよ……駄目だよ、そんなのっ」
女性の腕にひしと掴まりながら、小傘は二つの眼で彼女を見据えた。
「あなたは、あなたは報われなきゃ駄目だよ……そうじゃなきゃおかしいよっ!」
「ですが、このままではあなたは……」
それでもなお悲観的に表情を曇らせる彼女に、小傘は被りを振ってさらに言い返した。
「これ以上言わせないで、あなたは、私の大好きな人が、心から愛した人。だったら、私は、あなたを涙で濡らす訳にはいかない。私は多々良小傘、忘れ傘の小傘だ……あなたを雨で凍えさせはしない。わたしはきっと、ずっと、その為にここで待ち続けたんだ」
未だ、雨は止まない。それでも、小傘は確信をもって言い放った。
「頼りない傘だけど……あなたを、雨で濡らさせはしない」
雨は上がる。
いつだってそうだった。
それは偶然か、必然か――。
雨雲の隙間から、一瞬、一筋の強い光が差した。
太陽の光が雨に乱反射し、世界を照らした。
永遠に続く雨など存在しない。
その眩い日光こそが、小傘の何よりの代弁者であった。
・・・
その時――。
輝く雨の中、誰かがバス停へと近付いてくるのが分かった。
人数は二人、しかし、足音は一人分。
小傘と女性はその音のする方を見た。
一人は女の子、巫女服を着た紅白の少女、博麗霊夢だ。
そしてもう一人は、随分と背の高い男性であった。
男の顔を見た瞬間、小傘は、言葉を失くしてしまった。
女性は、小さく息を呑んだ。
「あ……」
男性はすぐにバス停へと駆け込む。随分と苦労をしてきたような表情をしていた。
それが分かった瞬間、小傘は、身体の痺れが解けていくのが分かった。
そう、彼は、この人は、小傘と女性がずっと待ち続けた人だ。
待ち人が、今、現れたのだ。
彼を見た途端、小傘は瞬時に、自分が何者なのかを思い出した。
先ほどまで透けていた筈の腕に色が戻ってくる。力が戻ってくる。
小傘は、咄嗟に自分の傘を隠した。表情がカアっと赤くなる。
……間違いない。間違える筈がない。
この男性は、この人は――。
この人は、小傘の、元の持ち主――その霊魂だ――。
そんな小傘をよそに、男と女性は気恥ずかしそうな顔を浮かべ、互いに見つめ合っていた。
一体、どれだけの間、この時を待っていたのか、しかし、二人は意外にも落ち着いた様子であった。互いに手を取り合い、目と目を合わせただけで二人の心は通じ合っていた。
「……その、随分と、待たせてしまったようですね」
「……ええ、待ちくたびれました」
遅れて、霊夢がバス停へと入ってきた。懸命に傘を隠そうとする小傘を見て何かを察したのか、霊夢はわざとらしい声で今の状況を説明する。
「とある閻魔様の依頼でね……あなたを成仏させるために、この人を連れてきたの」
閻魔、そう聞いた時、小傘は真っ先に以前この場所で出会った閻魔、四季映姫の事を思い出した。小傘の為に、助力してくれたのだろう。しかし、しかし――。
いざ目の前にすると、どうしても声をかけられなくなる。持ち主はふと、女性の横で蹲る小傘を見た。彼女が背中に隠している……つもりの、紫色の傘を見た。あんなに奇抜な傘の色を、見間違える筈がない。雨の日はいつも必ず手にしていた相棒なのだから。
「君は……」
小傘はびくっと肩を震わせる。赤くなった顔を背ける。男は小傘の頭上にそっと手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。心臓がバクバクする。声が、出なくなる。涙が、出そうになる。
「そうか……君が、彼女を守ってくれていたんだね」
……昔、この人に手入れをしてもらった時の事を思い出した。相変わらず、優しい手つきをしている。昔と何一つ変わらず――。彼は、古くなったからって、流行りの色じゃないからって、小傘を無暗に手放す事はしなかった。いつまでも、大事に、大切に扱ってくれた。
「……っ」
でも、言葉が出てこない。この気持ちを、この思いを言葉にするのはあまりにも難しい。何と言えばいいのか、待ち望んでいた再会の筈なのに――、本当は、言いたい事が山のようにあるのに、何故か、どんな言葉も安くなってしまうような気がした――。
言葉はあまりにも陳腐だ。
こんな時に、何の助けにもなってはくれない。
すると、後ろにいた霊夢が徐に口を開いた。
「悪いけど……もう、時間がないわ。二人とも、このまま――」
ふと、男の足元に目をやる。その形は炎の揺らめきのように危うげであった。おそらく、相当無理をしてこの幻想郷へと渡ってきたのだろう。霊夢の言う通り、もう時間がない。
二人は互いに頷き合い、霊夢に挨拶をし、そのままバス停から出てしまう。
それでも、小傘は何も言えなかった。
……いや、何も言わない事が正解だと思ったのだ。
ここで何を言ったところで、何かが変わる訳ではない。
……迷惑になるだけだ。
「お世話になりました……」
「ええ、あなた、一緒に参りましょう」
二人は小傘を置いて、そのまま去ろうとする。雨の中、傘も差さずに。
小傘は何も言わなかった。
呼び止める事もせずに、ただじっと、二人を見つめるばかりであった。
そこで、霊夢が咄嗟に小傘に耳打ちする。
「……いいの? このまま二人を行かせて」
しかし、小傘は立ち上がり、何処までも冷静に頷いた。
「これでいいんだよ……私は、何処までいっても、ただの忘れ傘だから……」
……長く続いた異変は、これで解決である。
幕切れは、あまりにも呆気ない物であった。
しかし、それでいいのかもしれない。
二人は、ようやく幸せになれるのだ。
あの世へと渡り、そこでようやく一緒になれるのだ。
そこに、水を差すような真似はしてはいけない。
自分は、ただの傘、ただの忘れ傘――。
「さようなら……私の、大事な人……」
去り行く背中に向って、小傘は聞こえないように小さく呟いた。
最後に自分に出来る事は、ただ静かに見送る事だけだ。
それでいい。それだけでいい。小傘は自分にそう言い聞かせた。
これは雨の日の幻想郷にて起きた、健気な付喪神の物語。
これにて、雨宿りの話は終わりである――。
もう、言葉はいらない。
小傘は無言のまま二人を見送る事に決めた。
――――そう、決めた、はずだったのに。
「待って――ッ!」
小傘の声に、二人はゆっくりと振り向いた。
小傘は咄嗟にバス停を飛び出し、ずぶ濡れになりながら、持ち主に向って叫んだ。
「私も……私も一緒に連れて行って……ッ! ずっと、あなたに会いたかった……私は……ッ」
言葉が、言葉が喉の奥で死んでいく。どんな言葉も、安くなってしまう。
それでも、伝えずにはいられなかった。
このままさよならなんて、出来る訳がなかった。
「私は、多々良小傘……ッ! あなたの傘です! あなたに忘れられた傘ですッ!」
小傘は必死の表情を浮かべ、本体である傘を抱きかかえながら懸命に言い放った。
だが――。
持ち主は優しく目を瞑り、首を横に振る。
「申し訳ないが――今日は、濡れて帰りたい気分なんだ」
「……ッ」
その優しい拒絶に、小傘は顔を歪ませる。
涙が、土砂降りの雨の中に溶けていく。
「嫌だ……嫌だ……連れて行ってよ……ッ! 私も、そっちに行きたいんだッ! あなたと一緒にいたいんだ……ッ! ずっと寂しかった、辛かったんだ……ッ!」
小傘は堪らず二人の元に駆け出そうとする。しかし途端、後方にいた霊夢に腕を掴まれる。
「駄目よ小傘ッ! このまま二人の後を追ったら、幻想郷に戻れなくなるわッ!」
この幻想郷に、未練などない……と言ったら嘘になる。
それでも、小傘は泣き叫んだ。
「離してッ! 離してよ霊夢ッ! 私はそれでも良いんだッ! わたしは、あの人の傘だっ! あの人の為の傘だ……ッ! 待っていたんだ……ずっと……ずっと……ッ!」
だが、どんなに叫ぼうと、持ち主は優しく笑いかけるばかりであった。
目には見えないが、その二人と小傘の間には確かな線がある。それは、命を終えた者と、未だ生きる理由を持つ者とを明確に分かつ線であった。その距離は、絶望的に遠い。
切なげな表情を浮かべ、小傘は悔しそうに泣き続ける。
……大粒の涙を流しながら、小傘は血を吐くほどの想いで声を絞り出した。
「……だったら……私は、どうすればいい……? どう生きればいい……?」
泣きじゃくる小傘に向って、持ち主は、何処までも慈愛に満ちた声で答えた。
「君はまるで、花のように綺麗な傘だ。冷たさに凍えながら、それでも懸命に雨の中で咲き続ける、気高き花だ。……私達の行く道にはもう、傘は必要ない」
ようやく会えたのに、もう、この人と共に歩む事は出来ない。小傘も、それは分かっていた。でも、素直に納得出来るほど強い訳ではない。小傘は縋るような目で持ち主を見つめた。雨が容赦なく降り続ける。いつかの夜も、こんな雨だった。静かで、悲しい雨であった。
何処までも報われない、悲しき運命である。しかし――。
「だから――これからは私ではなく、君は、この世界で孤独に苦しむ誰かの為に在り続けなさい。いつまでも、幸せに、君の好きなように――何処までも君らしく――」
君の好きな場所で、好きなように咲き誇りなさい。
多々良小傘は――。
彼女は、最後まで逃げなかった――。
返事をする代わりに、彼女は力いっぱいに泣いた。
一本の芯が通った、決して曲がらぬ意志を持った者の涙であった。
泥に膝をつきながら、いつまでも泣き続けた。
忘れ傘が泣いている。
雨に打たれながら泣いている。
愛し合う二人は、静かにこの世を去っていく。
それと同時に、誰かを待つためのバス停は、音もなく消えてしまった。
残された忘れ傘は、別れを惜しむように泣き喚いた。
今まで、大切にしてくれて、ありがとうございました。
……よりによって、一番伝えたかった事が、言えなかった。
「……小傘、もう行きましょう」
残された小傘に、霊夢はボソッと呟いた。
雨を凌ぐためのバス停はもう存在しない。
ずぶ濡れの霊夢を見て、小傘はゆっくりと彼女の頭上に傘を開いた。
小傘は、無暗に自身の傘を使われる事を嫌っていた。
霊夢は驚いたように口を開ける。
「いいの……?」
「……今回だけだよ」
多々良小傘は、永遠に誰かの忘れ傘。
ならば、これからは好きな場所で、好きなように咲こうと決めた。
「……もう、しんみりするのは終わりよ。人里行って、お酒でも飲みましょう」
霊夢の呑気な申し出に、小傘は涙を拭い、すんすんと鼻を立てながら頷く。
仄暗い幻想郷、人里の眩いオレンジ色の提灯が雨によってぼやけて見える。
「大丈夫よ、今は土砂降りだけれど、きっと、夜中には止むわ」
霊夢は優しく小傘に告げる。
誰の物でもない忘れ傘、多々良小傘は、切なそうに笑った。
「ねぇ、霊夢……聞いてほしい話があるんだ」
人里への道すがら、小傘はバス停での出来事を一つずつ霊夢に語っていく。妖怪と人間が交わる愉快な世界、幻想郷。幻想が住まう楽園の地――しかし、そこでは誰もが人知れず、必死に戦っている。幸せを願って、自分の道を懸命に歩んでいる。これはその一幕――。
何処にでもある「雨宿り」の話。
孤独な誰かへと向けた、とある雨の日の物語である――。
こういう一つ一つ組み上がって最後にやって来るのに凄い弱い
小傘なんて単なる萌キャラだと思ってた自分が恥ずかしい
面白かったです
個人的には妹紅とのやり取りが一番好き。
幽香と小傘の話の終盤は涙腺がすこしじくじくしました
参った! 持ってけ100万点
お話の優しさと残酷さと。小傘の生き様にやられました。100点です。
本当に素敵なお話でした。