鬼人正邪
今日も今日とて小傘は迷子のバス停で待機していた。
今日は朝から土砂降りの雨であった。一向に止む気配がない。
故に、小傘はその間ずっとバス停のベンチで座ったまま、途方もない気分で過ごしていた。
その時、ずぶ濡れの妖怪が無言のままバス停へと入ってきた。小傘がそっと顔を上げると、その妖怪はボロボロのフードを深く被ったまま、ゆっくりと小傘の方へにじり寄って来た。
「……傘」
その風貌や雰囲気とは裏腹に、妖怪の声は随分と幼かった。小傘が無言を貫いていると、突如、妖怪は乱暴に小傘が抱える傘に向かってその細い腕を伸ばしてきたのだ。
どうやらこの妖怪、小傘の傘を奪うつもりらしい。
「わっ! わっ! 何するのっ!」
「いいから、それをよこせ」
突然の事に、小傘は思わず悲鳴を上げた。
妖怪は傘を強く掴んだまま、鋭い目つきで小傘を睨んだ。
「うわあっ! やめてよぉ!」
小傘にとって、いつも肌身離さず持ち歩いているこの傘は言わば本体である。一時的に手放したりするだけなら問題ないが、長時間、他者の手に渡ると小傘は「人型」の姿を保てなくなる。それに、小傘はそもそも「傘」ではなく「忘れ傘」の付喪神であり、彼女の意思にそぐわぬ形で誰かに傘を使用された場合、小傘の存在その物が消滅してしまう事もあるのだ。
故に、小傘はその傘を誰かに無暗に使われるのを極端に避けていた。
「黙れ、役立たずのオンボロのくせに」
「っ! ……ううっ」
妖怪の心無い言葉に、小傘はポロポロと涙を零しながら必死に抵抗を続けた。
その時である――。
「……弱い者虐めはよくねぇな」
それは突然の出来事であった。妖怪の身体が、鈍い音と共に宙を舞い、そのままバス停の外へと吹き飛ばされたのである。一体、何が起こったのか……驚きながら、小傘は涙を拭って顔を上げる。すると、そこには見覚えのある女性が立っていた。
「ゆ、勇儀さん……!」
以前、このバス停で共に夜雨を過ごした鬼、星熊勇儀である。
どうやら、勇儀がフードの妖怪を横から思い切り殴り飛ばしたらしい。
妖怪は泥の中で気絶し、そのままピクリとも動かなくなっていた。
「よっ、傘のお化け。しばらくだな」
挨拶もそこそこに、勇儀は徐に懐から一升瓶を取り出し、「ん」と小傘に差し出してきた。
中身は酒のようだ。
「酔っぱらっててあんまり覚えてないんだけどよ、以前、ここでお前さんに迷惑かけたそうじゃねえか。これはその礼ってやつだ。受け取ってくれ」
小傘は困惑しながらそれを手に取る。瓶の中で清らかな液体が小さく波打っている。何とも目出度い贈り物であった。
「お前さんの事、気に入ったよ。今度は一緒に飲みにでも行こう。それじゃあな」
用が済むと、勇儀は自前の立派な傘をさして鼻歌を歌いながらバス停から出ていこうとする。そこで、先ほど目の前で吹き飛ばされた妖怪の姿が目に留まった。
「……ゆ、勇儀さん、この妖怪はどうするの?」
「あー、別にどうもしないよ。殺す価値もない。あれだけ食らわせたら、もうお前さんに危害を加えようなんざ思わないだろう。放っておけばいいさ」
「けど、このままじゃ、風邪引くかも」
もぞもぞと言葉を詰まらせる小傘に対し、勇儀は仕方ないというような表情で振り返った。
「哀れむ事ないよ。そこに転がってるのは、信念や狭義を持った妖怪なんかじゃない。それとは正反対の生き物だ。悪い事は言わん、お前さんは関わるな」
小傘はよく分からないという表情を浮かべながら首を傾げた。
勇儀はそれ以上何も言わず、ご機嫌な様子で去っていった。
しかしこうなると気まずい物がある。結局、勇儀は本当に妖怪をほったらかしにして帰ってしまった。小傘は、土砂降りの雨の中、泥に蹲って動かない妖怪を横目で見る。
……死んではいないだろうが、それでもこのままにしておくのはあまりにも寝覚めが悪い。小傘は恐る恐る妖怪に近付き、その顔を確認する。
黒と白の髪に、赤が混じった前髪、小さな二本の角、小傘は、ハッと息をのんだ。
こいつの顔は、人里の手配書で何度か見た事がある。
かつて異変を起こし、幻想郷を混沌に陥れた張本人だ。
彼女の名は鬼人正邪、天邪鬼である。
「う、うう……」
正邪はうめき声を上げながら、顔をひどく歪ませる。勇儀に殴られた右頬が赤く腫れている。どうやら勇儀もかなり手加減して殴ったのだろう。そんなに深刻な怪我ではなかった。
小傘は何も言わず、正邪の身体をずるずるとバス停の屋根の下まで引きずった。自分の大事な傘を奪おうとした悪者だが、このまま野晒しで放っておくのは流石に心が痛む。小傘はゆっくりと正邪の体を起こし、ベンチに座らせた。
「……離せよ、私に構うな」
ようやく口にした言葉がそれであった。小傘は不快を通り越してもはや呆れてしまった。
「どうして、私の傘を奪おうとしたの?」
至極当然な質問をぶつけると、正邪は何処までも機嫌の悪そうな表情で舌打ちをした。
「……この雨がうざかったからだよ」
仮に、腹が減っていたら食料を盗んでいただろうし、寒ければ衣服を剥いでいたのだろう。あまりにも単純な動機であった。暴虐極まりない思想だが……妖怪としては正しい在り方だ。
「……謝ってください」
すると、小傘は正邪の顔をまっすぐ見据えながら、力強く言い放った。
「ああ? 傘の一本や二本、何だってんだよ。そんなもん、別に――」
「傘を奪おうとした事じゃない。私に向って『役立たず』と言った事です」
あまりにもまっすぐ過ぎる視線に、正邪は思わず目を逸らし、そのまま何も言わず立ち上がった。小傘に手を出せば無事では済まない事を、正邪は先ほどの勇儀の拳で嫌というほど思い知っている。
「……あんまり調子に乗るな。私がその気になれば、お前みたいなオンボロ傘、いつでも殺せるんだぞ。だから――」
「謝ってください」
正邪はギロッと小傘を睨む。そこで、小傘の瞳から涙の雫が静かに流れている事に気付いた。これは、怯えの涙ではない。その証拠に、小傘の表情は揺るぎない「信念」に満ちていた。
小傘は忘れ傘、しかし、傘としての誇りを捨てた事は一度たりともない。
正邪は、そんな小傘の誇りを侮辱したのだ。
小傘の瞳に宿るのは、曇りのない怒りである。
これだけは絶対に譲らない、そんな意志を感じた。
「……畜生、これだから雨は嫌いだ」
正邪は根負けし、小傘から逃げるようにバス停から出ていこうとする。
「そんな……待ってよ! 逃げるなんて最低だよ!」
小傘は声を張って正邪を呼び止めるが、正邪は聞く耳を持たず、そのまま雨の中へと消えてしまった。小傘の周りに途方もない静寂が訪れる。
大粒の雨が降っているというのに、どうしようもないほど静かであった。
「……私、間違ってないよね……?」
正邪の言葉が頭の中で木霊する。小傘は顔を歪ませ、声を殺して泣いた。
「絶対、間違ってないよね……」
正邪の言葉が、本当に悲しかった。悔しかった。
小傘は何度も自分に「間違ってない」と囁き続けた。
雨はしばらく止みそうにない。
待ち人は、今日も来ない。