Coolier - 新生・東方創想話

雨を見くびるな

2020/04/23 20:18:20
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 風見幽香

 多々良小傘、忘れ傘の付喪神。

彼女は本体である傘を他人に使われる事を極端に嫌っていた。
ましてや、誰かの所有物になる事など以ての外であった。しかし――。
 
そんな小傘もたった一人、元の持ち主とは別に、心から「この人の傘になりたい」と思った相手がいた。
 

それは太陽の畑に住む大妖怪、風見幽香である。


それは、例のバス停が出現する前……。
いや、もっと言えば、現在の博麗の巫女、博麗霊夢が生まれるよりも前の話。


それは小傘にとって、忘れる事の出来ない、とある夏の物語である。

 ・・・

 大昔、うだるような暑い夏の日の事、その頃の幻想郷は今のようにスペルカードルールという無血の決闘が制定されておらず、妖怪は無秩序に人を襲い、人は我が身を守るために武装をしていた。人妖の抗争が絶えない時代であった。

当時、付喪神として幻想郷に生まれた多々良小傘は妖の側にも人の側にも関与せず、手当たり次第に誰かを驚かしながら一人気ままに放浪する日々を愉しんでいた。

そんなある日の事、人里から離れた奥地に、向日葵の花が見渡す限りに咲いている草原があった。ここは通称『太陽の畑』である。この場所は妖精にとって絶好の日向ぼっこスポットであり、里の人間は滅多に近付かない。呑気な小傘は嬉々として草原に入り込み、そこで見事に咲き誇る向日葵を眺めていた。

すると、畑の奥に誰かがいるのが分かった。

……ここしばらく誰かを驚かしていない。
これは好都合と、小傘はその者の背後へとにじり寄る。種族は不明だが、それは緑色の髪をした女性であった。小傘は彼女の背中に向かって大きな声を出した。

……しかし。

「……何?」

 その女性は驚くどころか、眉一つ動かさずに小傘の方へと振り返った。
その瞬間、小傘は自身の軽率な行動を深く恥じた。彼女は――。
 
彼女の名は風見幽香。
古今東西の魑魅魍魎が跋扈するこの幻想郷の中でも最上位に位置するほどの大妖怪であった。
小傘は思わず「ぴゃ」と可愛らしい悲鳴を上げ、そのまま尻餅をついてしまう。

「あわわわっ! 殺さないでえ!」

 小傘は即座に恥も外聞もなく命乞いをする。すると、幽香は少々困った表情を浮かべ、そっと腕を上げながら人差し指を立てて自身の口元へと運ぶ。

「しっ、ちょっと静かに」

 幽香は小傘に危害を加えるつもりは無い様子である。
その時、幽香の目の前に、何かが置かれているのが見えた。

ソレは小さな籠に入れられており、何やらもぞもぞと動いている。どうやら生き物が入っているらしい。幽香と小傘は肩を並べながら、ゆっくりと同時にその籠の中を覗き込んだ。

 そこには、人間の赤子がいた。

 人間の赤子、男の子である。

「……どうして人の赤ちゃんがこんなとこに?」

 小傘は困ったような表情で幽香に問いかけるが、幽香は首を振る。

「そんなの、こっちが聞きたいわよ」

 こんな時代である。捨て子がいる事も珍しい話ではない。
しかし、違和感があった。わざわざ人里から距離が離れているこの場所に赤子を捨てにくるだろうか? ここまでの道中には凶悪な妖怪の住処が幾つも存在する。妖怪退治の心得を持つ者でもそう簡単にはたどり着けない場所である。

それに加え、この子が捨てられた時期は一切不明だが、無抵抗の赤子がこんな場所に放置されて、一切無傷でいられるのはおかしい。妖怪にとって、人間の赤ん坊はこれ以上ないほどの馳走である。しかし、籠の中の赤子は健やかな寝息を立てていた。

……ここまで一度たりとも妖怪に襲われなかったのは奇跡としか言いようがない。

「……どうするの? この子」
 
小傘に問われ、幽香は面食らったような表情を浮かべた。

「どうするって……」

 ……言うまでもなく、幽香は人間の敵である。人と妖怪の種族争いが激化していた時期、幽香は武装蜂起した人間達と幾度となく交戦した。その度に、容赦なく人間を殺した。何人も。何百人も。その姿はまさに、大妖怪に相応しい「修羅」の像であった。

幽香自身、人間を殺す事は生きる上での延長でしかないと考えていた。人間を殺す事に対し、微塵も罪悪感を抱かなかった。妖怪として、それが普通だと思っていた。

我が身に降りかかる火の粉を払いのけただけ、その程度の認識だった。

 そんな大妖怪が、たった一人の人間の赤ん坊を前にし、狼狽えていたのだ。

 武具を身に纏い、敵意を剥き出しにした人間にしか出会った事が無かった幽香は、目の前に存在する無防備な赤子を見て、ただただ困惑していたのだ。

これまで、幽香は幾度となく人の命を奪ってきた。

だがそれは、その人間達が皆「自身に対して牙を突き立てる者」だったからに過ぎない。有り体に言えば、それは幽香なりの防衛であった。刃を向けられたから、刃で返しただけの事である。その実、幽香から人間を襲った事は全くの皆無であった。彼女自身は静かで平穏な暮らしを望んでいるのに、いつも決まって人間達の方から争いを持ち運んでくるのである。
……それ故に、幽香は人間が嫌いだった。野蛮だから、醜いから……弱いから。

 それなのに、目の前の赤子はどうだろう?
 
大妖怪である幽香を目の前にして、一切怯える事なく、安らかに、ただあるがままにそこに存在している。理由などなく、言葉すら用いず――。

 まるで、そこに咲くように運命づけられた草花のような尊さがあった。
不平不満を持たず、ただ、漠然とそこに存在する。ただ、ただ、意味さえ持たずに咲き誇る花のような命。幽香は無言のまま、そっと籠の中に両手を入れ、綿を抱えるように優しくその赤子を抱き上げた。……幽香本人も、どうしてそのような事をしたのか分からなかった。
あくまでも「何となく」幽香はその赤ん坊を抱いたのだ。

 花弁を愛でるように、幽香は赤子の頬を撫でる。
紛れもなく、人の肌、人の体温だ。

すると、大妖怪の腕の中で赤子が眩しそうに眼を開いた。
赤子の大きな黒い瞳を見つめながら、幽香は、人の子を抱くという初めての経験に、ひたすら動揺した。彼女は知らなかった。人間の赤子が、これほどまでに無垢である事を。

……その時。

 向日葵の咲き乱れる草原に、静かな風が吹く。
一片の花びらがふわりと宙に舞い、赤子の鼻先に音もなく触れる。

その途端、これまで平然としていた赤子の顔が見る見るうちに歪んでいく。
そして一拍ほど間を空けたかと思いきや、まるで蕾が花開くかのように泣き出してしまった。水のように止めどなく。その瞬間、赤子の身体に秘められた、形状の無い何かが大きく膨らんだ。人間や妖が一定に持つ、生命力のような何か、言うなれば、その小さな身体の内側で、魂が膨張を始めたのである。腕の中で泣き喚く赤子を見つめながら、幽香は額に汗を浮かべた。

「ちょ、ちょっと、コレ、どうすればいいの?」

 幽香は思わず、隣にいた小傘に問いかけてしまう。
当時の小傘も、人間達とはあまり接点を持つ事がなく、人間の赤子の扱いにはあまり慣れていなかった。幽香と小傘は二人して慌てふためくばかりであった。そうしてる間にも赤子の泣き声はまるで燃え上がる火のように高く、熱を帯びていく。

「ど、どうしよう……ねぇこの子、どうすれば泣き止むの?」
「そんなの知らないよう、私……赤ん坊なんか触った事ないし……」

 四季の大妖怪と、傘の付喪神。人間の赤子を前に、二人して何も出来ずにいた。無理もない事であった。……だがその時、あれだけ激しく泣き叫んでいた赤子が、ふと不思議そうな表情で小傘の方を見た。いや、正確に言うなら小傘がその手に持つ紫色の傘に注目していた。

どうやらこの奇抜な色が気になる様子である。その視線に気付いたのか、小傘は恐る恐る赤子の前に傘を出し、ユラユラと揺らして見せる。あれだけ激しかった泣き声が止み、心地良い静寂が訪れる。小傘がその傘を下ろそうとすると、再び赤子の表情が曇り始めた。

「アンタ、その傘……」

 幽香に言われ、小傘はこくこくと頷きながらゆっくりと傘を構え、勢いよく広げて見せる。子供を驚かすためにデザインした大きな目玉が現れる。その途端、何が面白いのか、先ほど泣いていたのが嘘だったかのように赤子が笑い出したのである。

「びっくりさせる為にこの目玉描いたのにーっ!」

 しかし、小傘は不満そうであった。この傘の奇抜なデザインは人を怖がらせる為の物なのに、赤子にここまで喜ばれては全く意味がない。

しょんぼりしている小傘をよそに、赤子はとても嬉しそうな表情でその傘に手を伸ばそうとしていた。どうやら、赤子は小傘の持つ傘を大輪の花だと思っているらしい。

それに気付いたのか、幽香は赤子を抱きながら、片手の指を軽く振った。

 すると、ここ一帯に咲いている満開の向日葵が何処かおどけたような動きで赤子の方へと振り向き、まるで手を振っているかのように茎や葉を揺らし始めた。
これは幽香の持つ能力である。

赤子は、まるで母親にあやされているかのように安らいだ表情でその光景を見つめていた。赤子を優しく抱きながら、幽香は演奏の指揮のように指を振り続ける。

一帯に風が吹き、黄色い花弁が真夏の太陽に照らされながら粒子のように空中で舞い踊る。……その幽香の姿に、思わず小傘は心を奪われてしまった。今この瞬間、この世の何処よりも幻想的な景色が目の前に広がっていた。舞い上がる黄金色の風が音色のように緩やかに幽香達を覆う。強い日差しさえも霞んでしまうほどの煌びやかさであった。

葉の擦れる音、穏やかに流れる風の音、遠くで聞こえる蝉の声、全ての音が心地良い子守唄となって赤子を優しく包み込んだ。一頻り泣き、一頻り笑って疲れたのか、赤子は再び静かに眠りについた。

「す……凄い……」

 小傘は、感嘆しながらその場にへたり込んだ。はっきりと理解した。
 妖怪としての次元が違い過ぎる。

今、この場には「自然」という名のありとあらゆる生命が満ち溢れている。
幽香はその全てをほんの少しの力で完全に掌握しきっていた。
小傘は今、日常では決して拝む事の出来ない奇跡を目撃したのだ。

赤子をあやして一安心したのか、幽香はその身に纏った妖力を少しずつ収めていく。次第に、生き物のように動いていた向日葵達も元の方へと向き直り、辺りには静寂が戻ってくる。

「ねぇ」
「は、ひゃ、ひゃい!」

 そこで、唐突に幽香が小傘に声をかけてきた。小傘は背筋を伸ばし、真っすぐに幽香の方を見つめながら勢いよく返事を返した。もう、小傘の瞳に恐怖はなかった。代わりに、大妖怪、風見幽香に対する尊敬の念だけが色濃く宿っていた。

「ところで、アンタ誰?」

 そういえば自己紹介すらしていなかった。多々良小傘、そう名乗ると、幽香はすぐに興味なさそうな表情でその場から立ち去ろうとした。……その手に赤子を抱えたまま――。

「幽香さん……その子、どうするの?」

 小傘に問われ、幽香は少しだけ間を置き、それから、若干気恥ずかしそうに、消え入りそうな声で呟いた。

「……私が育てる」

 幽香のその一言に、小傘は何処か気が遠くなりそうな表情を浮かべてしまった。……妖怪が人の子供を育てるなど、前代未聞である。しかも、幻想郷有数の大妖怪である風見幽香がそれを言うのだから、小傘は驚きを通り越して逆に不安になった。

「大丈夫なの? 幽香さん一人で」

 そう言われると途端に心細くなってしまう。
幽香は小傘の方を振り返り、それでも目を逸らしながら、これまた小さな声で呟く。

「……子育てって、何が必要なの?」
 
……。
 控えめに言ってヤバそう。小傘は仕方なさそうにため息をついた。小傘のその態度に、幽香は少々顔を赤くして俯いてしまう。多分、幽香一人では無理である。

赤子はというと、そんな二人の事など知りもせず、幻想郷最強の大妖怪の腕に抱かれているという事実さえ分からぬまま、いつまでも幸せそうに眠っていた。

 ・・・

「心配ないよ。私が手伝ってあげるからさ!」

 向日葵の草原を歩きながら、小傘は鼻を鳴らして幽香に力説する。

この時代の幻想郷は前述のとおり、人間と妖怪が真っ向から対立している状況であったが、その内部は強硬派と穏健派の二つの組織に枝分かれしていた。小傘や幽香は傾向的に言えば穏健派に属している立場である。表立って争う事をせず、もしくは争う事自体を好まず、妖怪は妖怪として自由気ままに暮らしている者たちの事である。

 人間にもそれと似た立場の組織があった。無益な戦いを好まず、この土地を想像した賢者に守られながらひっそりと静かな暮らしを続けている者達、彼らなら協力してくれるに違いない、と小傘は考えたのである。

「私みたいに怖い妖怪の頼みなら、人間達も言う事を聞くと思うし!」
「……アンタの事は別にどうでもいいけど、それで、何が必要なの?」

 何しろ全てが初めての経験である。用意出来る物は今すぐにでも用意しないといけない。それに、何と言っても食事である。何処かで乳母となってくれる女性も探さないといけない。

……結局、全てが手当たり次第である。
それなら、幽香が育てるのではなく、人里に預けた方がまだ現実的である。

しかし――。

「ダメよそんなの! また人間達に酷い事をされるに決まってるわ!」

 幽香がわっと声を荒げた。
その瞬間、腕の中で眠っていた赤子が途端にぐずり始める。小傘が慌てて赤子をあやす。

……そう、忘れてはいけない。
この子は捨てられた子なのだ。

今更人間達の元に返してもきっとロクな事にはならないだろう。しかし、最低限の協力は必要である。小傘は人里での記憶を思い出しながら一つ一つ挙げていく。だがその前に――。

「やっぱり一番必要なのは『名前』だよ! 幽香さん、この子の名前を考えよう!」

 そんな急に名前と言われても困る。幽香は黙ったまま、赤子の顔を見つめ続けた。
命名するとなると非常に難しい顔をしている。

太陽の光に照らされながら、幽香はふと辺りを見渡した。
ここは一面見渡す限りの向日葵の草原である。

 ……ここで出会ったのはきっと偶然ではない。

腕に抱いたその小さな身体は陽の光のように暖かく、命本来の重みを感じさせる。その時、一つの言葉が幽香に舞い降りた。この子に付ける名前としては申し分ない言葉であった。

……少々安直ではあるが、幽香はもうこれ以上に似合う名を思い付けなかった。
この子は、日差しの中で生まれた子供だ。

「――イチヨ」

 一陽、文字通りの名前であるが、幽香がこの名前に拘るのには理由があった。彼女は四季の巡りに深く関係する妖怪だが、そんな彼女が好きな言葉の一つに『一陽来復』という物がある。

冬が終わり、春が訪れる事を指しているが、それ以外にも一つ、この言葉には重要な意味があった。それは、不運の先には必ず幸運が待っているという事。

まるでこの赤ん坊の境遇のようであった。
幽香はその言葉の一部を赤ん坊に授けたのである。

「イチヨ、この子の名前はイチヨ」

 幽香は名前を呼びながら赤ん坊の顔を見つめた。

この赤ん坊の名前はイチヨ、何度もその名を口にするうちに、赤ん坊の身体がほんの少し「重くなった」ような気がした。――『名前』とは不思議な力を持っている。

赤ん坊に名前を与えた途端、どうして命は重いのか、その理由が、何となく分かった。

「イチヨ、ちゃん。いい名前だね」

 小傘はそう言うと、イチヨの目の前でにへらと笑みを浮かべた。
出会ったばかりである筈の赤ん坊が、途端に可愛らしく見えてしまう。

――その時。

 道中を歩いていると、前方に数匹の妖怪が姿を現したのである。
ここは人里離れた正真正銘の危険区域、妖怪など珍しくはないが、異様なのは彼らの装備である。まるで戦帰りの野盗のように仰々しい出で立ちをしていた。

本来、妖怪が武具を所持する事などあり得ない話である。……そう、彼らは妖怪の中でも残忍な思想を持った組織、人間の里を滅ぼし、彼らの暮らしを根こそぎ掌握しようと企む強硬派の連中である。剣呑な雰囲気であったが、どうやら敵意は無い様子である。

「小傘……イチヨを」

 すると、先ほどまで穏やかだった幽香の顔が途端に険しい物になる。
幽香はそっとイチヨを小傘に任せ、一人、単身で妖怪達の前へと歩み寄った。

「……「あの話」なら断った筈よ。私は、誰の指図も受けない」

 ……どうやら、この妖怪達は幽香を一派に引き入れようと目論んでいるらしい。

確かに、ほぼ無尽蔵の妖力を持つ幽香である。彼女がその気になれば、人間達を根絶やしにする事など造作もないだろう。しかし、彼女は強硬派の勧誘を頑なに断っているのである。

妖怪達は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
大妖怪ともあろう貴女が、人間を擁護するのか、貴女は一体どちらの味方なんだ、そう問いかけられ、幽香は心底うんざりした表情で舌打ちする。

「私は誰の味方でもない。お前ら有象無象の物差しで私を測るな」

 その言葉を真っ向から口に出来るのは恐らく幽香だけだろう。
彼女の力は言わば何にも縛られる事のない自然災害の具現であり、下等な種族程度では彼女の足元にすら及ばない。ある意味、風見幽香とは意志を持った厄災そのものだ。
だがそれ故に、彼女を一派に引き入れようと企む組織は後を絶たないのである。

すると、妖怪の内の一匹が幽香に首を垂れながら、厳かに口を開いた。

――近いうちに、この戦にも『分け目』の時が訪れるでしょう。貴女も妖怪であるならば、敵か味方か――、その分別は付けなければならない。この有限の結界の中で、いつまでも中立を保てるとは思わない事です。……今日のところは引き下がりますが、風見幽香、いつか必ず、選択を迫られる日が来る。貴女は誰で、どの立場にいるのか、それを努々忘れぬように……。

 そう言い残し、妖怪達は音もなくその場から去って行ってしまった。
イチヨを抱きながら、小傘はゴクリと息を呑む。幽香は彼らを軽くあしらっていたが、小傘から見れば、彼等は妖怪の中でも決して侮ってはならない猛者達である。残忍な思考を持ち、平然と殺戮を繰り返してきた怪物達、己が種族に絶対的な誇りを持っており、人間という脆弱な存在に一分の理解すら持たない凶悪な連中であった。

「……くだらない」

 幽香は退屈そうに吐き捨てた。
何処までも不敵な態度を取る幽香を見て、小傘は内心であの妖怪達の言葉を考えていた。

 自分は誰で、どの立場にいるのか――。

 確かにその通りだと思った。妖怪は、何処まで行っても妖怪である。
小傘は改めてイチヨの寝顔を見つめる。根本的に、妖怪は人間とは通じ合えない。

人間に理解を持ち、その存在を尊重し、傷付けず、辱めず、一つの命として慈しむ――。


 それをしないから、妖怪は『妖怪』と呼ばれているのだ。


 幽香が小傘の元へと戻ってくる。小傘は無言のまま、イチヨを幽香に預ける。
小傘は途端に不安のような物を覚えた。

人妖の抗争が絶えないこの時代に、幽香は全く矛盾した事を行おうとしているのだ。どれだけ幽香という存在が強大であろうと、種族の壁という物は目に見えぬ形で現れる筈だ。

……しかし、だからこそ。

「とりあえず、人間達に助けてもらえるように私から掛け合ってあげるよ!」

 風見幽香、何にも囚われず、全ての種族の頂点に立つ最強の妖怪、そんな彼女の生き方を、人との接し方を、小傘は見てみたいと思ったのだ。

 ・・・

 この時代の幻想郷にて、人の住む場所は各地に分散されていた。小傘は太陽の畑に幽香とイチヨを帰らせ、単身で山の中にある隠里へと向かった。そこは、妖怪との戦争に一切関与する事なく、穏やかに暮らしている人々の拠点の一つであった。さらに他の里とは違い、ここには人間だけではなく非力な妖怪にも比較的温和な態度で接してくれる住民がいた。力を持たぬ者にとって、ここはまさに幻想郷で唯一安全な地帯といえるだろう。……何を隠そう、この多々良小傘も、放浪時に腹を空かせるたびに、この里の人間の世話になっていたのである。

 小傘は人々に事情を説明し、赤子を育てる為の知識を一通り教わり、それに合わせて必要な道具を揃えた。それに加え、ここには赤子を育てている母親も多くおり、乳が必要になればいつでも連れてきてもいいと言ってくれた。これで当面の間は何とかイチヨを守る事が出来そうである。

 早速、太陽の畑にある幽香の家へと帰ってみる。すると、イチヨの甲高い泣き声が響いていた。傍には、どうすればいいのか分からずオロオロと立ち尽くす幽香の姿があった。小傘が帰ってきた事に気付くと、途端、幽香は涙目になりながら彼女に取り縋って来た。

「イチヨがどうやっても泣き止まないのよっ、どうしよう……どうするの……?」
「……ふふっ」

 思わず、小傘は笑みをこぼしてしまった。
 その日から、幽香と小傘、そしてイチヨの生活が始まった。

 ・・・

 隠里の人間に手を貸してもらいながら、二人は何とか懸命にイチヨを育て続けた。全てが初めての経験であったが、それでも幽香は一つ一つ小傘と共に育児を覚えていった。おしめの替え方や乳を与えるタイミングなどは慣れたらどうという事は無かったが……問題は、イチヨの行動である。

 幽香がイチヨを家に連れ帰って数日、イチヨは自らの手足で這う事を覚えたのである。
二人は最初こそ感激していたが、それは次第に悩みの種と変わっていった。

イチヨはとにかく目に映る全てに興味を示し、すぐにそれに触ろうとする癖があった。
ほんの一瞬、目を逸らしていただけでイチヨは寝床を離れようとしてしまうのだ。
これには天下の大妖怪も気が気ではなかった。

「ぎゃーっ! イチヨちゃん、やめてぇーっ!」
 二人が目を離している隙に、イチヨが家の段差を登ろうとしていたのだ。ほんの小さな段差であったが、もし万が一足を滑らせたら怪我では済まない位置にある。小傘は悲鳴を上げながらイチヨを抱きかかえた。基本、子供は「危険」という概念を知らない。どんな場所であろうと、問答無用で飛び込もうとする。無邪気故に、二人はそれに頭を抱えた。

知らなかった。人間の赤子がこんなに活発である事を。

「……眠れない」

 深夜、幽香はイチヨの夜泣きによって目が覚めた。
……今宵、これで何度目だろうか。その度に幽香はイチヨを抱いてあやす。

しかし、一度灯った火が自然には消えないのと同じで、イチヨは容赦なく泣き続けた。
……一人だけでは、こんな生活続けられなかったかもしれない。イチヨが泣いていると、隣の部屋に勝手に居候している小傘が寝ぼけ眼で幽香の寝室に入ってきた。

「おーい、イチヨちゃん。もう大丈夫だよ、大丈夫だからねぇ」
 
小傘は眠そうにイチヨの前で舌を出し、寄り目を作る。どういう訳か、イチヨは小傘の変顔が好きだった。小傘の表情を見ると、すぐに泣くのを止めて笑いだすのである。
これには幽香も助けられていた。疲れてしまったのか、イチヨはそのままうつらうつらと目を閉じ、再び眠る。……とても変な時間に目が覚めてしまい、二人とも疲労困憊の表情でそのまま椅子に腰かける。

「人間って……本当に手のかかる生き物ね」
「……そうだねぇ」

 幽香と小傘はおかしそうに目の下のクマを歪ませた。
人の子を育てるのって、想像以上に大変だ。
でも何故か二人とも、それを苦痛とは思わなかった。

 幽香は、家族という物を知らなかった。彼女だけではない。基本、妖怪は人間達のように同種で交わって生まれる訳ではない。それ故に、親と子の絆という物には無縁であった。
イチヨを育てているうちに、二人は誰かを守る事の険しさと、尊さを学んだ。

……言葉にすれば安くなってしまうが、二人とも、今の生活が楽しかったのだ。
誰かが自分を必要としてくれているという事に、充実感を覚えていた。

この世に生まれ落ちた時点で孤独を強いられていた幽香は特にそうである。彼女にとって、イチヨと、そしておまけの小うるさい唐傘お化けと共に過ごす日々は新鮮に感じられた。この二人と一緒にいる時だけは、自分が大妖怪として恐れられている事実を忘れる事が出来た。

しかし、心の片隅で、幽香はある事を考えていた。

イチヨが大きくなっても、今のように穏やかな生活を続ける事が出来るのだろうか?
 幽香と小傘は、イチヨとは違う。種族も、その在り方も。

このままイチヨを育てれば、イチヨは一人の立派な人間となる。
そうなれば、イチヨは妖怪である自分を受け入れてくれるだろうか?
 人と妖怪、そのような関係を、いつまでも続ける事なんか、果たして出来るのだろうか?

 幽香は、これまで出会ってきた人間達を思い出していく。
顔も名前も覚えていないが、彼等には一つ共通点があった。

 皆、幽香に刃を向けていた。
問答無用の敵意であった。

 人間の共通する価値観だ。
奴らは、自分とは異なる存在がどうしようもなく怖いのだ。受け入れる事が出来ないのだ。
幽香はじっとイチヨを見つめながら、何処までも儚い表情を浮かべる。


この子も、他の人間と同じように、妖怪(自分)に刃を向ける日が来るのか――?


……やめよう。イチヨの寝顔を見ながら、幽香はそう思った。こういうのは気持ち一つだ。こころから愛情を注げば、きっと、イチヨもそれに応えてくれる筈、そんな、何処までも楽観的な考えが頭に過った瞬間、幽香は思わず自嘲気味に笑ってしまった。

「……いつの間にか、立派に人の親ね。私とアンタ」

 幽香につられ、小傘も嬉しそうに笑みをこぼした。幽香は、人間なんて嫌いだった。人間は妖怪と比べ、下等で醜悪な種族である。すぐに吹き消されてしまう灯のように、まるで生きる価値がない。そんな種族など、好きになれる訳がない。

「幽香さんは、どうしてイチヨちゃんを育てようと思ったの?」

 唐突に小傘に問われ、幽香は小傘の瞳を見つめたまま硬直してしまう。

「そういえば……どうしてだろう?」

返事というより、まるで独り言に幽香は呟いた。人間に関心を示した事など一度としてなかった。人間が野生動物を対等に見ないのと同じだ。だというのに、何故か幽香は無条件でイチヨに手を差し伸べた。何故? 改めてそう問われると答えに窮してしまう。

答え、そもそも答えなんてない。だが、強いて言うのなら――。幽香は小傘の真っすぐな視線から目を逸らし、虚空を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。

「この子が、もっと生きたいと願っていたから……」

 正直に言えば、そんなのデタラメだ。これは幽香の咄嗟の思い付きである。赤ん坊であるイチヨの感情など分かる訳がない。しかし、イチヨをその腕で抱き上げた時に漠然と「生命」を感じたのは本当であった。この子はきっと、ここで終わる事を望んではいない。この子は、イチヨは、生きる事を望んでいる。言葉を介さずに「生きたい」と叫んでいる。それを感じ取った瞬間、幽香は目の前の小さな命を守らなければならないと思った。

……本来、人間など、助ける価値もない。人間はこの世で最も醜い生き物だ。それはきっと間違いではない。幽香は、これまでに幾度も人間の生み出した戦乱の世を見てきた。大妖怪として長く生き続ける間、何度もこの「人間」という種族に失望させられた。狭義も持たず、信念も持たず、ひたすらにケモノの延長でしかない彼らを愛する理由など何処にもない。

その上で――幽香は、イチヨの事が大好きだった。

静かに寝息を立て続けるイチヨを見つめながら、幽香はそう思った。

……ふと小傘の方へ視線を移すと、小傘は椅子に座りながらこくこくと船を漕いでいた。

「……アンタこそ、どうして私に親切にしてくれるの?」

 眠りに落ちた小傘に対し、幽香は一方的に問いかける。
仮にも幻想郷最強の妖怪である幽香を相手に、普通ここまで心を許せるだろうか?

弱小の妖怪であれば幽香を前にしただけで恐れ戦き、一目散に逃げだしてしまう筈である。だというのに、何故か小傘は懸命に手を貸そうとしてくれる。別に頼まれた訳でもないのに。

イチヨを抱きながら、幽香は眠る小傘の鼻先をちょこんと突く。小傘が「うー」と苦しそうな表情を浮かべる。それを見て、幽香は思わず微笑んでしまう。

その瞬間、分かった。
 どうして、イチヨを育てようと決めたのか。


 この子は、自分を怖がらないのだ。


 イチヨと一緒にいると、どうしてこんなに心がざわつくのか。
小傘と一緒にいると、どうして照れくさい気分になるのか。

それは紛れもなく、幽香自身がこの二人に『認められて』いたからである。幽香にとって、これまで自分を対等な存在として接してくれる存在など皆無であった。皆、幽香の事を凶悪な妖怪として畏れるあまり、彼女の大妖怪としての側面以外を見ようとしなかったのだ。

 だが、イチヨと小傘、この二人は違う。恐れる事なく、遠ざける事もなく、ありのままの幽香を受け入れてくれるのだ。嬉しくなると同時に、それが怖いとも思った。取るに足らない事の筈なのに、それを失う事を恐れてしまった。

 いつまでも、こんな日々が続けばいいのに。

 安らかに眠る二人を見つめながら、幽香は気恥ずかしそうに、そっと呟いた。

・・・

だが、幽香達の穏やかな生活とは裏腹に、幻想郷で行われている争いは徐々に悪化していった。妖怪の強硬派による襲撃事件は増え続け、人間もまたそれに合わせて武器を手に取る。戦を行っていた時代とまるで変わらない。徴兵や、それによる兵糧の搾取によって人が住む里は次第に飢えていった。それにより、少なからず幽香達の暮らしにも影響が出始める。

まず太陽の畑にて、やたらと凶暴な妖怪達の姿が目に映るようになった。幽香を一派に引き入れようとする者達である。彼らは何もせず、遠巻きに幽香達を監視するばかりであったが、安全とは言い難い。これは所謂遠回しな脅しである。幽香の家には小傘とイチヨがいる。無事に過ごしたいのであれば、我々の軍勢に加われ、でなければ二人を……と、無言の圧力をかけているのだ。これには流石の幽香も我関せずという訳にはいかなかった。

「……見張りの妖怪、どんどん増えているね」
 
太陽の畑の真ん中に位置する幽香の家、小傘が窓の外を見つめながら呟いた。
こんな生活がかれこれ数日以上続いている。
幽香にとって、外にいる妖怪を屠る事など容易い事であったが、問題はイチヨと小傘である。小傘は人外の中でも非力な部類であった。いつでも助けてやれる保証はない。

これまで、小傘は毎日のようにイチヨを連れて人の住む隠里へ出入りを繰り返していたが、ここまで妖怪達に監視されては迂闊に出歩く事すら出来ない。小傘一人ではイチヨを守る事など無理だ。もし、幽香が軽率に外の妖怪達を攻撃すれば、きっとその報復は小傘とイチヨに降りかかる。それが理由で、幽香は手を出せないでいたのだ。

「……どうしてこう、上手くいかないのかしらね」

 ただ、平和に暮らしたいだけなのに、幽香は寂しそうに言う。しかし、呑気には構えていられない。イチヨには食事である乳が必要である。その為にはまた隠里へと出向く必要がある。いくら何でもこの状況で小傘だけにイチヨは任せられない。

……これまで幽香は人を警戒させないために隠里へは近付かないように努めていたが、事態が事態である。本日は小傘の護衛の為に、共に隠里へと出向いた。

 ……。

 幽香が隠里の入り口に立つと、人々は畏怖の表情を浮かべた。

人間にとって、小傘のように無害な付喪神とは違い、風見幽香は名の通った正真正銘の化け物である。その存在は妖力を纏わずとも脅威であると分かる。

小傘はいつものように里の乳母の元にイチヨを預ける。
しかし、その日はいつもと様子が違った。無理もない。
これまで人懐こい付喪神だと思っていた少女が、災害に匹敵するほどの怪物を連れて里へとやって来たのだから。皆が猜疑の眼差しで小傘と幽香を見つめていた。

 ……里の人間達が小傘を遠ざけるのは何も幽香だけが原因ではない。

ここ最近の幻想郷の情勢も相まって、この隠里の皆も妖怪に対し、少なからず差別的な念を抱いていたのだ。これまで、もう何人という人間が妖怪によって命を奪われている。
この平和な里が標的にされるのは時間の問題である。

 幽香だけではない。今、里の住民は非力である小傘の事も、そして、その二人が育てている赤子のイチヨさえも危険視していたのだ。

 食事が済み、幽香と小傘はイチヨを連れて里を出ようとする。
いつもは気さくに話しかけてくる住民達も、この時ばかりは皆、小傘によそよそしい態度であった。しかし、小傘はいつもと変わらない、おどけたような態度を取って過ごしていた。
ずっと、笑顔を絶やす事なく――しかし。

太陽の畑への帰路へ付く中、徐に小傘は幽香に話しかけた。

「幽香さん……私達、どうなっちゃうのかな?」

 その声は若干震えていた。……内心、小傘もショックを受けていたのだ。
あれだけ暖かだった里の住民達の、鋭く冷たい視線が怖くて堪らなかったのだ。

本当は最後まで明るく振舞うつもりだったのに、本音を吐露した瞬間、小傘は瞳に涙を浮かべ、静かにすんすんと泣き出してしまった。小傘のそんな姿を見て、幽香はイチヨを抱きかかえたまま、静かに小傘の震える方に手を置いた。

「不幸はいつまでも続かないわ……今を乗り切れば、きっと幸せな日々がやってくる筈……この子の名前はイチヨ、その名前の意味、もう忘れたの?」

 一陽来復のイチヨ、永遠に続く不幸など存在しない。
涙を流す小傘に、幽香はそう優しく諭した。小傘は懸命に頷いてそれに応えた。
一陽来復、今が最悪の時代なら、その後にはきっと楽しい未来がやってくる。そう信じた。

 信じるしかなかった――。
 
……。

 太陽の畑へと続く道の途中、何やら辺りがざわめいていた。
その瞬間、何かを感じ取ったのか、幽香の目つきが変わる。
 
そこで、最悪の光景を見てしまった。

 太陽の畑、一面に向日葵が咲き乱れる草原、その中心地が赤く染まっている。
それは、全てを焼き尽くす紅蓮の炎であった。
それに気付き、二人は足早に付近へと駆け寄る。

幽香の家が、三人の家が、激しい轟音を立てながら燃えていたのだ。

 幽香達が留守の隙に、妖怪達が家に火を放ったのだ。
イチヨを抱きながら、幽香はその場で呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。

「うわああ……っ! 幽香さんっ! どうしよう……どうしてこんな事……っ!?」

 呆ける幽香に向って小傘が叫ぶ。しかし火の勢いは増していくばかりである。
……もはや、今更何をしたところで手遅れなのは明白であった。家の柱が火炎の唸り声と共に崩れ落ちる。三人の思い出が、跡形もなく炎に包まれていく。燃える音と共にイチヨの泣き叫ぶ声が辺りに木霊した。その時――。

 突然、三人の前に一匹の妖怪が現れた。
以前、幽香に勧誘の話を持ち掛けた妖怪である。その瞬間、幽香はその場で腰を抜かしている小傘にイチヨを預け、妖怪が口を開く前に、鬼のような形相でそいつの胸倉を掴んだ。

「……一体、何のつもりよ……私が、アンタ達に何をしたと言うの……?」

 幽香の声は怒りを通り越し、もはや嘆き悲しむように激しく震えていた。

「……ここまでして……アンタ達は何が欲しい? 私の、ほんの一時の安寧さえ踏み躙って、私の、『私達』の幸せな日々を奪って……どうして……こんな……っ」

 ――貴女は、何も行動しなかった。

 しかし、幽香に胸倉を掴まれながら、妖怪は何処までも冷め切ったように吐き捨てた。
まるで、こうする事が正義だと言わんばかりに……。

「何ですって……?」

 ――言った筈――、己の立場を忘れるなと、風見幽香、貴女は妖怪の象徴たる存在でなければならない――妖怪として最上の力を持つが故に、全ての妖の「指針」として振舞わなければならない。その義務がある。……我々から言わせれば、おかしいのは風見幽香、貴女の方だ。何故、人の子を育む? 何故、何故――。

 妖怪は、幽香の後方で座り込む小傘、彼女の腕の中で激しく泣き続けるイチヨを指差しながら言い放った。……立場で言えば、この妖怪の言っている事は正しい。

 ――風見幽香、どうして人間の子供を愛でる? 貴女程の妖怪が、人間の本性を知らぬ訳があるまい。矮小で、卑劣で、何処までも残虐な――。

「あの子は違うっ! イチヨはそんな子じゃないっ!」

 幽香は被りを振って応えた。その表情は、子を侮辱された親のソレであった。

「そうだよう! イチヨちゃんは……イチヨちゃんは違うよう!」

 イチヨを悪く言われた瞬間、後方にいた小傘が足を震わせながら立ち上がった。
それを見て、妖怪は何処までも悲観的な表情を浮かべた。

 ――やはり思った通りだ、風見幽香、貴女は母子の情という物に憧れているだけだ。それは、我々妖怪には存在しない物であるが故、貴女は、『仮初の家族』という戯れ合いに興じているだけだ。最強の妖怪といえど、それは決して手に入らない物だから、人間の母親の真似事をしてその空虚を満たしているのだ。嘆かわしい、あまりにも嘆かわしい。妖怪が人の母を騙るなど、くだらない――。風見幽香、今日までに一体何人の人間を殺してきた? どれほどの命を奪ってきた? そんな貴女が人の親だと? こんな滑稽な話はない。所詮戯れ、所詮、ままごとよ――。



 ところで風見幽香、この赤子はどうやって殺すつもりだ? いつ食うのだ?



 その瞬間、幽香の眼の色が変わった。暗く、この世の果てまで広がるほどの憎悪が込められていた。イチヨを可愛がっていた時の姿など何処にもない。

その姿は、その身に纏う気迫は、紛れもなく「化け物」のそれであった。

「……お前、もう一度言ってみろッ!! お前みたいなクズに私の一体何が分かる!? 赦さない、赦さない、赦さないッ!! 殺してやる、殺してやる……ッ!」

「ゆ……っ、幽香さん……」

 幽香の激高に、小傘は何も出来ず、ただ怯えてしまった。並みの妖怪の小競り合いとは訳が違う。この土地で最も凶悪な妖怪が怒り狂っているのだ。何の力も持たない妖怪では、今の幽香の傍にいるだけで気を失ってしまうだろう。小傘が気を保てているのは、幽香の持つ優しさを知っているからだ。イチヨとの穏やかな日々を知っているからだ。

しかし、胸倉を掴まれている妖怪は、幽香の恫喝に眉一つ動かさず、平然と言葉を続けた。

 ――それが、貴女の本来の姿だ、風見幽香――。

「なっ……」

 妖怪の言葉に、幽香は我を取り戻した。
今まで、イチヨには見せた事もない、凶悪な自分がいる事に気付いた。
子供の前だという事を、忘れていた。

 ――風見幽香、四季を司る厄災の権化、人間を脅かす凶悪な大妖怪、それが本来の貴女だ。忘れるな、いつまでもくだらない戯事にうつつを抜かすなど、許されて良い筈がない。……今、我々妖怪は境地に立たされている。人間との戦によって、我々妖怪は「妖怪としての権威」を汚されつつある。もう、数え切れぬほどの妖怪が人間達の手によって命を落としている――人間に畏れられなくなったら、我々妖怪は生きてはいけない。妖怪には、妖怪の事情があるのだ。妖に対し、人間が武装蜂起するなど、あってはならない事なのだ――風見幽香、妖怪として成すべき事を成せ――自分が何者なのかを思い出せ――貴女は、気高き妖怪なのだ――。

「違う……違う……っ! 私は……私、は……」

 そこまで言われ、幽香は妖怪の胸倉から手を放してしまう。妖怪は、用は済んだとばかりにその場から消えてしまった。そこで、丁度良く頭上に雨雲が流れてきた。次第に雨が降り始める。この分なら、これ以上炎が向日葵の草原に広がる事は無いだろう。小傘は傘を差し、イチヨを抱えたまま、放心し続ける幽香に声をかけた。

「幽香さん、行こう……もう、ここには居られないよ……」
 小傘にそう言われ、幽香は力無く頷いた。

 ・・・

 向日葵の草原から離れ、幽香達は例の隠里を訪ねた。先ほど、里の人間達に怪訝な目で見られているせいか、どうにも気まずい物があった。しかし、背に腹は代えられない。

隠里の入口へと立った瞬間、案の定、三人は人間達に警戒された。
しかし、小傘はそんな彼らの冷たい視線に一切怯む事なく、高らかに言い放った。

「お願いします、私達を匿ってください……お願いします!」

 小傘は懸命に人間達に頭を下げる。
傘を差し、その腕に眠るイチヨの身体をほんの少しだけ高く掲げながら――。

そう、小傘は彼らの情に訴えかけていたのだ。小傘の突然の大声に、イチヨは雷鳴のように激しく泣き出した。それを見た人々は、途端に心を痛ませたような表情を浮かべた。
恐らくだが、皆、小傘達とは関わらない方がいいのではないかと考えていたのだろう。

故に――彼らは恥じ入ったのだ。赤子には何の罪もない。
これを見殺しにしては、それこそ人としての良心の呵責に耐えられないだろう。
小傘はそれを感覚で分かっていたから、あえてイチヨを高々と皆の前に掲げて見せたのだ。

幽香はそれに気付き、すかさず小傘の前へと立つ――。

「……お願いします。私の事はどうでもいい、小傘と、この子、イチヨだけは、どうかここで匿ってあげてはいただけませんか? お願いします、お願いします」

 そう言いながら、幽香は人々に向かって取り縋るように訴え、ぬかるんだ泥の上に膝をついたのである。その行動に、皆が驚きの表情を浮かべた。

 仮にも、風見幽香はこの幻想郷の頂点に立つ妖怪である。そう簡単に遜っていいような立場ではない。それは幽香自身よく分かっている筈である。彼女も、誰かに頭を下げる事、いや、そもそも誰かに何かを頼む事自体、初めてであった。しかし、その行為に羞恥は一切なかった。こうする事が当然だと思った。イチヨと、小傘を守る事が出来るのなら、妖怪としてのくだらないプライドなど、いくらでも捨てる事が出来る。心の底からそう思った。

「お願いします。二人を、守ってください。お願いします」

 雨に打たれながら、幽香は凛とした声で懇願する。その行為に、誰もが動揺する。幽香ほどの強者に頭を下げられる事などあり得ない。彼女は人妖問わず、全ての種族から恐れられている妖怪である。そんな彼女が、人間の赤子の為に、助けを求めているのだ。これをどう判断すればいいのか、しばらく人々は沈黙し、やがて――。

三人の前に隠里の長が姿を現し、自分の自宅へ招くと言ってくれたのである。

 ・・・

 三人は古くなった納屋を寝床として宛がわれた。
幽香の家と比べれば天と地のような差があったが、とにかく、今は屋根があるだけでも感謝しなければならない。それに、イチヨの面倒に関しては里の皆が率先して手伝ってくれたので、二人としてもそれは有難い事であった。

……流石というか、人間の本能というべきか、やはり明らかに二人より赤ん坊の扱いに慣れている。イチヨは里の女性達からとても可愛がられた。乳母の腕の中で健やかに笑うイチヨを遠巻きに見ながら、幽香と小傘はホッと胸を撫で下ろした。

それと同時に、何処か感傷的な気持ちもあった。

「……ひょっとしたら、最初からこの方が良かったのかな?」

 幽香が隣にいる小傘に向って寂しげに問いかけた。小傘はどう答えていいものか分からず、無言のまま首を傾げた。イチヨは人間の子だ。であれば、人間と共に暮らすのが一番良いに決まってる。それは最初に小傘が幽香に言った事である。

「やっぱり、妖怪といるより、人間達と一緒にいた方が……」

 そこで、イチヨが突然切なげに声を上げて泣き出した。
女性達がイチヨをあやすが、一向に泣き止む様子がない。

まるで、誰かを呼んでいるような泣き方だ。

 その途端、幽香の脳裏に、初めてイチヨと出会った時の光景が浮かび上がった。
あれは太陽の畑、満開に咲く向日葵の草原――身を守る術を何一つ持たないまま、イチヨは独りぼっちで置き去りにされていたのだ。

イチヨは一度、人間に裏切られているのだ。

幽香は静かに立ち上がり、イチヨの元へと歩み寄っていく。
それに気付いた女性達は何処か緊迫した表情を浮かべ、泣き続けるイチヨを何も言わずに幽香へと返した。幽香がイチヨを抱くと、イチヨは瞬く間に安心したような表情になった。

 ……やはり、イチヨは誰にも預けられない。
 人間を信じてはいけない。
 自分でなければ、イチヨを守れない。
 最強の妖怪である自分でなければ――。
 
まるで自分に言い聞かし、戒めるように幽香はその言葉を唱えた。
しかし、どの口がそれを言うのだと自虐的な気分になってしまう。
人間の助けがなければ、イチヨに与える為の母乳でさえ確保出来ないと言うのに――。

途端、惨めになる。

 幽香はこれまで、涙を流した事などなかった。何かに傷付けられた事などなかった。
それなのに、今この瞬間、幽香は妖怪の尊厳を全てかなぐり捨てて無様に泣き叫びたいという衝動に駆られた。イチヨを動揺させないように、どうにか叫び声を喉の奥で押し殺す。

イチヨが嬉しそうに笑いながら幽香を見ている。
その笑顔にこそ、種族の壁を感じてしまう。

涙がどういう物なのか、幽香は知らない。目の奥がじわりと熱くなる。
ごめんね……。声には出さず、幽香はイチヨを抱きしめながら呟く。

 こんなお母さんでごめんね。

声に出さず。口に出せず。イチヨは何処までも幸せそうであった。
そんな幽香の背中が寂しく見えたのか、後方で座っていた小傘がそっと彼女に語りかける。

「幽香さん、しっかりしよう。しっかり、一緒にイチヨちゃんを守ろう」

 ……この小傘の言葉に一体どれだけ救われただろうか。
幽香は目を閉じ、ゆっくりと頷く。今だけは、立場などゼロに等しい。今はとにかく気丈に在らねば、幽香は自分にそう言い聞かした。これまで、幽香には怖い物など無かった。力を持つ故に、恐怖という物を一切知らずに生きてきた。

だというのに、今は目に映る全てが怖く思えた。全てが脅威に感じられた。強者故に、守る物など一切持たない生き方をしてきたのだからそれは当然である。幽香はイチヨと小傘を交互に見つめる。……今は、守りたい物が多過ぎる。

「しっかり、ちゃんとしなくちゃ……ちゃんと」

 幽香は自分自身に何度も念じた。
自分が、二人を守るのだと、堅く――。

 ・・・

 だが、ここで予想だにしない事が起きた。
 隠里に移住しておよそ二週間たった日の朝の事である。

 イチヨはいつも朝日が昇ると当時に無邪気な声を上げるのだが、今朝はそれが全くなかった。

二人は不審に思い、イチヨの顔を覗き込んだ。
その瞬間、二人は混乱し、言葉を失くしてしまった。

 イチヨの額に、小さな角が生えていたのである。

「幽香、さん……これって」
「イチヨ、まさか……」

 幽香は静かに、イチヨの角に触れる。微弱であるが、明らかに妖力が込められている。
その瞬間、全ての謎が繋がってしまった。
 イチヨは、人間と妖怪の混血種(ハーフ)だったのである。
 
どうしてイチヨはたった一人、あの太陽の畑に捨てられたのか――この時世、人間が妖怪と結ばれるなど、まして子供を産むなど、あってはならない事である。

 こういう話がある。

 それは人間の里にある大手の道具屋で生まれた混血種のとある少年の事だ。生まれた直後は普通の人間と何一つ変わらない赤ん坊であったが、次第に体内に存在する「妖」の力が発芽し、その少年は里で迫害にあった。妖怪の力を持たぬうちに殺してしまえという声もあった。だが、道具屋の主人の計らいにより、幼少期の間、里から隔離される形で育てられているのだという。

彼の名は森近霖之助。混血種として生まれ、今もなお人の目を避けて生きているらしいが、詳細は不明である。

 恐らく、イチヨもその類だろう。何らかの事情があったのか、どうやら親はイチヨが生まれてすぐに里から追われたのだろう。この時代の混血種は人間だけではなく妖怪からも厄介視される。この子を連れた状態で生きていく事は容易ではない。

それ故に、二人の両親はイチヨを、わざわざ人の行き来がない太陽の畑に捨てたのだ。
この子がいると、生きていけないから。何処にも属せないから。

……だからこそ幽香はそれを許せないと思った。
そこにどれほどの葛藤があったのかは知らないが、理由はどうであれ、この子の両親は我が子であるイチヨを捨てたのだ。そんな無責任な話があって良い筈がない。――しかし。

そうなると事情が変わってくる。
この隠里の人々は、イチヨの事を純粋な人間だと思っている。この子を人間だと思っていたからこそ、手を差し伸べてくれていたのだ。イチヨの正体が混血種だと分かれば――これまで甲斐甲斐しく世話をしてくれた人達も、イチヨの事を危険視するようになってしまう。

案の定、イチヨの話は瞬く間に隠里中に広まった。同時に、今までイチヨの為に協力してくれた人々は音もなく離れていってしまった。ほんの少し、妖怪の血が混じっているというだけで、イチヨはまだ何も出来ない子供だ。しかし、人間達にそんな理屈は通じなかった。

見た目が幼くとも、イチヨには妖怪の血が流れている。
嫌悪の対象にされるには十分すぎるほどの事実である。

 もう、誰もイチヨに近付こうとはしなかった。
問題は食事である。このまま何も与えない訳にはいかない……しかし。

 妖怪としての力が目覚めた今、イチヨは母乳を欲しがる事は無くなった。その代わり、以前と比べ、イチヨはじっと動かなくなる時間が圧倒的に増えた。
恐らく、体内に巡る妖力を栄養として補給しているのだ。それ故に、これまで通りの食事を摂らずに済むようになったのだ。ただ、その妖力の循環には相当な体力を要するのか、イチヨは、泣かなくなった。笑わなくなった。感情に余計な力を回す余裕がなくなったのだ。

人の子というより、最早、羽化を待つ蛹のようであった。

「ねぇ、イチヨちゃん」

 小傘が変な表情を作ってイチヨの目の前に現れる。
これをやると、イチヨは決まって笑ってくれた。

だが、今のイチヨはもう何を見ても無表情であった。

「……ねぇ、ねぇ、イチヨちゃん」

 小傘は懸命にイチヨを笑わせようとする。だが、イチヨは石のように硬直したままであった。小傘のおどけた表情が、見る見るうちに悲しいものになっていく。

「ねぇ……イチヨちゃん、嫌だ……嫌だよう……笑ってよう……」

 ぽろぽろと涙を零しながら、懸命に顔をおかしく歪ませる小傘、その様子を見て、幽香は何も出来ず、何も言う事が出来ず、すり潰れるような思いに打ちひしがれるばかりであった。

どうして、どうしてイチヨがこんな目に遭わなければならない?
幽香は、ひたすら、不条理を憎んだ。世界を恨んだ。

・・・

 状況は悪くなる一方であった。

 ある日、隠里で事件が起こった。里の外へ狩りに出ていた若い男達が妖怪達に殺されてしまったのである。それがきっかけで、妖怪達にこの隠里の場所がばれてしまった可能性が出てきたのだ。これまで穏やかだった隠里は戦々恐々とした雰囲気に包まれていた。

それだけが原因という訳ではないが、人々の、幽香達を見つめる目が明らかに変わった。
妖怪達への憎悪を、幽香達に向けているのだ。日に日に居場所がなくなっていく。

どうにかしなければ。どうにかしなければ。焦れば焦るほど答えが見えなくなる。今のこの時代、安全な場所など何処にもない。今までの平穏な暮らしにはもう戻れない。

残酷だが、それが幽香達の現実である。

 最悪な状況の中でも不幸は重なる。

強硬派の妖怪達がこの隠里の場所を突き止め、一軍を率いて攻め入ってきたのである。
これまで戦とは無縁だった故に、隠里の皆は抗う術を持たなかった。

このままでは、全てを蹂躙し尽くされてしまう。

 だが、妖怪達は知らなかった。
この人間の住む里に、幻想郷最大の戦火である妖怪、風見幽香が潜んでいる事を――。

 小傘にイチヨを任せ、幽香は単騎、妖怪達の群れの前に立ちはだかる。
途端、妖怪達は動揺した。どうして、妖怪である筈の幽香が人間達に加勢をするのだと、口々に疑問を投げかける。どれもこれも、「幽香から見れば」屠るに値しないほどの弱者である。

しかし群れを前にし、幽香は、恐ろしい笑みを浮かべる――。
「このやり場のない怒りをぶつけるには丁度良いかもね」

 悲しい気持ちを、闘争心で掻き潰す。それが幽香の鬱憤の消化方法であった。
里に踏み込む隙を与えず、幽香は力の限り妖怪達をねじ伏せた。

地獄があるとしたら、恐らくこの光景の事を指すのだろう。
まるで暴虐、鬼神の如く、幽香は妖怪達へと襲い掛かる。
人外の阿鼻叫喚が平和だった里に響き渡る。
妖怪に、そして里の人々に恐怖されながら、幽香は笑った。

泣きそうな顔で笑っていた。

 頭の中で、イチヨの笑い声と泣き声が木霊する。
妖怪としての血が目覚めてしまったイチヨは、もうこれまで通りの健やかな赤子ではなくなる。白い水が朱に染まれば、もう元の純粋な色に戻れなくなるのと同じだ。
もう、イチヨは真っ新な色ではない。幽香はその思いを暴力に乗せた。
繰り出される人外の業はこの世の理を超え、容赦なく妖怪達を追い込んでいく。
次第に士気も下がり始めた……ここまで交戦すれば嫌でも気付く。

勝てる筈がない。

幽香の強靭な妖力に恐れをなし、妖怪達は隠里の制圧を諦め、すぐに撤退を開始した。

 後に残ったのは、惨殺された妖怪の死体と、破壊された里の住居、そしてただ一人、妖怪の返り血によって真っ赤に染まる幽香の姿――不敵、まさに、彼女の一生を物語っているかのような光景であった。誰もが思った。この妖怪の傍には居られない。この妖怪は災いと混乱を招く妖怪だ。決して共存など出来ない。

 この妖怪は、存在してはならない。

 血まみれになった幽香は、おぼつかない足取りで小傘の待つ納屋へと帰っていった。
幽香の凄惨な姿を見て、小傘はすぐに手にしていた布で幽香の頬を拭った。

「幽香さん、辛かったね……頑張ったね……」

幽香の頬にこびり付いた妖怪の血を拭き取りながら、小傘は優しく言い聞かした。その瞬間、激しい戦闘による高揚が一気に冷たくなった。我に返り、幽香は自分の両手を見つめた。殴られたかのように、瞬時に目が覚めた。

「痛かったね、怖かったよね……」

 ……そんな訳がない。幽香は思い返す。
あの妖怪達との戦闘を愉しんでいる自分がいた。
傷付き、傷付けられる事で癒されている自分がいた。

戦いの中で、何かを満たそうとしている、何処までも凶悪な自分の姿があった。
 
――それが、貴女の本来の姿だ、風見幽香――。

 以前、例の妖怪の言われた言葉を思い出した。
あの時は咄嗟に否定したが、今の自分の姿はどうだ?
 正真正銘、凶悪な妖怪のソレである。何も否定出来ない。

そんな彼女に向って、小傘は、何度も何度も暖かい言葉を投げかけた。

「……小傘、何を言っているの? 辛かった? 怖かった? 私が……?」

 血まみれのまま、放心したように立ち尽くす幽香の頭を、小傘は優しく撫でた。
まるで怪我をした子供を慰めるように、そっと――。

ただ幽香は、その小傘の言葉の真意が理解出来なかった。
優しくされる権利なんかない。自分は妖怪だ。血も涙もない怪物だ。
それなのに、小傘はどうして自分に優しくしてくれるのだろうか?

 その日の夜――。

 幽香と小傘は納屋を貸してくれている隠里の長に呼び出された。
この里に妖怪が攻め込んできた時点で覚悟はしていた。
 
人間の血を持つイチヨはこの里で保護する。
しかしその代わり、幽香と小傘には、この隠里から出て行ってほしい。

長は厳かにそう言い放った。しかし、幽香も小傘も、その提案に対し、眉を顰める事はしなかった。この数日間で悪化した人間と妖怪の関係を見れば納得出来る。純粋な妖怪が人間の世界に交わろうとする事自体が間違っていたのだ。これ以上、つまらない対立に隠里の人間達――つまり、イチヨを巻き込むわけにはいかない。……しかし、それ以上に――。

 幽香は長に言われるがまま、その条件を呑んだ。
小傘は何かを言おうとしたが、幽香の意気消沈した横顔を見て、すぐに考えを改めた。

 イチヨとの別れ、隠里から出る直前、最後に小傘はイチヨを抱いた。
しかし、幽香はイチヨの顔を見ようとすらしなかった。
まるで初めから興味がなかったかのように、何処までも冷たい目をしていた。

「ねぇ、幽香さん。最後だよ……イチヨちゃんに……何か、最後に……」
「……」

 小傘にそう言われるも、幽香はイチヨに一瞥もくれず、無言を貫いていた。
幽香に代わり、小傘は泣きながら、ひしとイチヨを抱きしめた。
イチヨは相変わらず何の反応も示さない。それが悲しかった。
頭の中で、イチヨとの日々が蘇ってくる。もうこれ以上、無感情なイチヨを見ていたくなかった。イチヨとの出会いが、全て嘘になってしまうような気がしたから。

どうかせめて、この子の一生が幸で溢れる物でありますように。
精一杯にそう願った。

真夜中、住民達からの冷ややかな視線を受けながら、二人は隠里から出て行こうとする。

――その時である。

 闇夜をつんざくような声が隠里に響き渡った。

聞き間違える筈がない。
これまで沈黙を保ち続けたイチヨが、唐突に泣き始めたのだ。
その声を聴いた瞬間、幽香は堪らない気持ちになり、咄嗟にイチヨの方へ振り返り、急いでイチヨの元へ駆け寄ってしまった。幽香はそのまま、イチヨを力いっぱいに抱きしめる。

「イチヨ……っ、駄目っ、泣いちゃ駄目よっ!」

 イチヨは今、生きる為に身体の中の妖力を循環させている。その為に、余計な体力を消耗させてはならない。だからイチヨは今の今まで泣いたり笑ったりするのを止めていたのだ。

イチヨも、幽香と小傘が自分から離れていく事を感覚で理解したのか、イチヨは以前のように、天真爛漫に力強く泣き叫んだ。泣いて、二人を引き留めようとしていた。
イチヨに背を向けながら、小傘が肩を震わし、大粒の涙を流す。
幽香は、三人で住んでいた頃のように、優しくイチヨをあやす。

「お願い、イチヨ……今は、無駄に体力を使わないで、泣き止んで……っ」
 
イチヨは泣き止まなかった。見かねた里の者が、幽香からイチヨを引き剥がそうとする。
そこで、ついに折れてしまったのか、後方にいた小傘が言い放った。

「もう少し待ってあげてよッ! いいじゃんか別にッ! ずっと一緒にいたんだッ! 家族なんだよッ! もう少しだけ、一緒にいさせてあげてよ……っ!」

 小傘が里の皆に向かって泣き叫んだ。その姿に気圧されたのか、人々は言葉を失くし、困惑した表情を浮かべて三人を見つめた。イチヨの泣き声が物悲しく響く中、幽香はイチヨを抱きしめながら、そっと呟いた。

「じゃあね、イチヨ、じゃあね、元気でね、イチヨ……」

 ――大好きだよ、イチヨ。
どうか、幸せに――。

 本当は、言わないでおくつもりだったのに、その言葉を最後に、幽香はイチヨを里の住民に預け、小傘と共にその場を離れる。その間、イチヨは何度も泣き叫びながら二人を呼んだ。こうやって泣いていれば、いつものように迎えに来てくれると思ったから、イチヨはいつまでも泣き続けた。イチヨの声を背に、幽香と小傘は隠里から出て行った。

三人の暮らしは、こうして幕を閉じた――。

 ・・・

 幽香と小傘は足取り重く野山を歩き続ける。

イチヨがいなくなった今、二人はもう共にいる理由などない筈だ。しかし、小傘は幽香から離れようとはしなかった。幽香も、それについては何も言わなかった。

ぎこちない沈黙が二人の間に流れる。そうこうしているうちに、隠里から少し離れた場所で無人の小屋を見つけた。太陽の畑にある幽香の家は完全に焼き尽くされている。もうあの家には帰れない。もう、あの幸せだった日々には戻れない。小屋にはカビだらけの一枚の麻布と、埃被った一脚の椅子が放置されているだけであった。当面、雨風を凌げれば問題はない。
 
二人があの隠里の近辺を離れないのには理由があった。
それは、昼間に隠里を襲撃してきた妖怪達である。幽香は妖怪の大半をその場で殺害したが、取り逃がした妖怪達も少なくはない。またいつ奴らが襲撃にやってくるか分からない状況である。その為、二人は隠里を守るためにこの場に留まっているのである。

何より、あの隠里にはイチヨがいる。
イチヨを守る為に、あの隠里を何としてでも死守しなければならない。

「……ずっと聞きたかったんだけど、小傘はどうして私についてきてくれたの?」

 真夜中の静けさの中、幽香は椅子に座りながら、疲れ果てて床にへたり込んでいる小傘にふと問いかけた。小傘は黙り、少しだけ悩む素振りを見せた。

「……私はさ、多分、本能的にそういう付喪神なんだよ」

 そこから、小傘はぽつりぽつりと自分の境遇について語り始めた。

 自分は元々、何の変哲もない傘であった事。
持ち主がいた事。その持ち主が好きだった事。

そして、その大好きな持ち主に捨てられた事――。

「この姿になって、幻想郷に流れ着いたんだけど、詳しい事は何一つ覚えていないんだよね。捨てられたって事以外は、何も分からない。……だからかな」

 独りぼっちの人を、見捨てられないんだよ。

 幽香は何を言うでもなく、黙って小傘の言葉を聞き続けた。

……今の小傘に、軽く言っていい言葉ではないかもしれないが、幽香は少しだけ真剣に考え、そして、ゆっくりと、一度だけ、小傘に向って問う――。





「だったら、私が新しい持ち主になってあげようか?」






 一瞬、何を言われたのか、小傘は理解出来なかった。
冗談を言っている様子はない。幽香は本気で言っている。

小傘には持ち主がいた。故に、気安く誰かの所有物になる事を拒んでいた。傘として、忘れ傘として、誰にも媚びを売らず、誰の言う事も聞かず、今の今まで生きてきたのだ。

そんな小傘に対し、目の前の大妖怪は本心から問いかけている。
小傘は無言のまま、ひたすらに胸の高まりを抑えた。幽香の言葉を何度も頭の中で反芻する。

本当は、心の何処かで、誰かにそう言われる事を待ち望んでいたのかもしれない。
もしここで、幽香の所有物になれば、もう二度と寂しい思いはしなくて済むかもしれない。何を考える事もなく、人間と妖怪の争いに悩む事もなく、そしていつか、ただの一本の傘として壊れる事が出来るかもしれない。幽香が、本当は優しい妖怪だという事は知っている。

彼女なら、幽香なら、自分を幸せにしてくれる。
壊れるまで、大切に扱ってくれる。それは確かだ――。

……しかし、小傘は切なそうな顔で微笑んだ。

「私は、忘れ傘……私は、誰の物でもないよ」
 小傘の声は震えていた。小傘は膝を抱きながら、ゆっくりと顔を伏せる。

「そう、残念」

 そう言うと、幽香は椅子から立ち上がり、そっと小傘の横に座る。
そのまま彼女の震える肩に腕を回す。小傘は幽香の身体にもたれかかる。
風見幽香はこんなにも優しい。こんなにも暖かい。

「アンタのそういう強情なとこ、私、好きだよ」

 小傘の強さに何度も助けられた。小傘の芯の強さに何度も救われた。
幽香は小傘を優しく抱きしめる。
決して貴女を独りにはしない。そう言われたような気がした。
小傘も、この人になら――と、心の底では思っていた。

それでも、小傘は誰かの忘れ傘である。彼女の傘にはなれない。

本当は、楽になりたいよ、もう。

その本音は言わなかった。小傘は、声を殺して泣いた。

・・・

数日、静かな日々が続いた。幽香と小傘の生活は至って平穏そのものであった。
しかし、何処か満たされない。何をしていても、何かが欠けているような気がする。
まるで空虚な時間であった。幽香と小傘の間に、赤ん坊一人分の隙間が空いている。静けさに包まれると、何処からかイチヨの泣く声が聞こえるようであった。

しかし、もうここにイチヨはいない。そう思う度に、感傷的な気分になる。

何度か、イチヨの顔が見たくて例の隠里を訪ねたくなる衝動に駆られた。
しかし、それはきっとイチヨの為にならない。

イチヨは人間と妖怪の混血種、ただでさえ里の住民達の印象は良くないのに、これ以上幽香達がイチヨに干渉すれば、唯一の譲歩であるイチヨの安全の保障さえも反故にされる可能性がある。あの里を追われたら、いよいよイチヨの行き場が無くなってしまう。

故に、二人はただ静観するしかなかった。
隠里の外で、ひたすらに――。

「イチヨちゃんは、どんな大人になるのかな?」

 その寂しさを紛らわすために、小傘は無邪気に幽香に質問する。

「どんな大人になっても構わないわ。健康でいてくれたらそれでいい」
 それは幽香の、何処までも真っすぐな願いだった。

 今、幻想郷は着実に一つの時代の節目に向かおうとしていた。

人妖の抗争は勢いを増すばかりであったが、双方既に疲弊しきっている。恐らく、近いうちに妖怪の賢者によって何らかの条約が制定されるだろう。この不毛な争いが収まるのは時間の問題だ。そうすれば、再びこの地に平和が訪れる。ようやく、イチヨが怯える事のない時代になるのだ。いつ終わるのか、幽香達はその時期を静かに待ち続けた。


……だがその日、幽香達の運命を左右する出来事が起こる。


いつものように隠里の近辺を警護する二人の前に、いつぞやの妖怪が唐突に姿を現したのだ。以前、幽香の家に火を放った妖怪である。当然、幽香はすぐに臨戦態勢を取る。

だが、その妖怪は落ち着き払った様子で、畏まったように言う。

 ――風見幽香、我が軍勢に加われ。

 要求は相変わらず、風見幽香の勧誘であった。
幽香は呆れ返り、けんもほろろにその申し出を拒否する。

「くどい……お前達には関わらないと何度も言った筈よ」

しかし、幽香の冷淡な態度に妖怪は一歩も引かず、何処か切迫した様子で食い下がる。

 ――風見幽香、時間がないのだ。今、幻想郷では『妖怪の賢者達』と『博麗の守護者』によって一時的な停戦協定が結ばれようとしている。妖怪の持つ権限の一部を人間に譲渡する事になる。そうなってしまえば、我々が行ってきた戦いの全てが無に帰す事となる。我々妖怪は人間と戦い続けなければならない。人間を弾圧し、その全てを手中に収めなければ、いずれまた今回のような戦が起きるだろう。争いの火種は根底から淘汰せねば意味がないのだ。故に、風見幽香――我々の軍に加わり、人間達の制圧に協力してほしい。――これは最後の警告だ。

 妖怪の賢者と、当時の博麗の巫女による停戦協定が結ばれたら、妖怪の勢力のほとんどは制限されるだろう。強硬派にとって、それは是とするべきではない条件であった。

もし、ここで幻想郷最強の妖怪である幽香が妖怪側に加われば、その計画は白紙に戻る。
人間は無条件の降伏をしなければならないだろう。

強硬派が望む、人間を完全に「家畜化」する未来を手に入れる事が出来るのだ。
そうなれば、この幻想郷において妖怪の地位は揺るぎのない盤石な物になる。

「……くだらない事ばかり言うなッ! そんなに戦争したきゃ勝手にしてなさいッ! そして、妖怪同士勝手にくたばればいいッ! お前らなんか……ッ!」

 しかし、幽香の意志は変わらない。
人間にも妖怪にも興味はない。どちらに加担する気もない。

ただ一つ、幽香には守るべき存在がいる。
その子は人間の人々の手によって守られている。

大妖怪である幽香が人間を守る唯一の理由である。

だが、幽香がそう言い放った瞬間、妖怪はこれまでの態度を一変させ、気味の悪い表情を浮かべながら、重く呟いた。

 ――最後の警告といった筈だぞ、風見幽香――。

 妖怪はそう言いながら、急に『ある方向』を見つめた。
その瞬間、傍にいた小傘の顔が青ざめていく。

妖怪は、イチヨのいる隠里の方を向いていたのだ。

「ま、まさか……」

 小傘がそう呟くと、妖怪は何処までも冷め切った声で答えた。

 ――あの人間の隠里には、貴女が育てていた人間の子がいる筈。全部調べはついている。今宵、我々はあの隠里に総攻撃を仕掛け、あの赤子を捕らえる。あの赤子を人質にすれば、風見幽香、貴女の考えも少しは――。

 それ以上、口を開く事は許さなかった。幽香は目にも止まらぬスピードで妖怪の首を刎ねた。どす黒い血が噴水のように溢れ出てくる。首を失くした妖怪の身体は糸の切れた人形のようにかたりと倒れる。絶命の瞬間、妖怪は首だけの状態で、からからと笑い続けた。

 ――風見幽香、それが貴女の答えか、私を殺したところで、我々の作戦は変わらない。我々の足は止まらない。例え、貴女が立ちはだかろうとも――。

 そう言いながら、妖怪は塵のように消失していった。

「幽香さん、どうしよう……どうしよう……ッ?」

 小傘は半ばパニックを起こしたように幽香に問いかける。しかし、幽香は対照的に冷静であった。冷たい表情のまま、落ち着いた声で小傘に語りかける。

「小傘……アンタは、隠里の人間達にこの事態を伝えてきなさい。皆をあの里から避難させるの。……有象無象とは言え、総攻撃となれば、私も皆を守り切れる保証がない。小傘、イチヨ達と一緒に、あの隠里から逃げなさい」

「そんな……まさか、幽香さん……」

 そう、幽香は隠里を守るために、たった一人で妖怪達を迎え撃とうと考えていたのである。いくら幽香が最強の妖怪と言っても、相手は妖怪の強硬派、その総員である。無事で済む筈がない。しかし、幽香はとっくに覚悟を決めている様子であった。

自身の命を差し出す事など、今更恐れてはいない。

「嫌……嫌だ……幽香さん、駄目だよ、一人でなんて……ッ」

 小傘は目に涙を溜めながら幽香の裾を掴んだ。
しかし、幽香は小傘と目を合わす事なく、そっと彼女の頭に手を置く。

「……小傘。アンタ、私が誰だか忘れてない?」
 幽香はそこで、ほんの少しだけ不敵な笑みを浮かべた。

「心配いらないわ……私、最強の妖怪なのよ?」
「……ッ」

 これ以上、小傘は幽香を止める事が出来なかった。
溢れ出しそうな涙を乱暴に拭い、小傘はぐっと息を呑む。
これ以上、彼女の覚悟を汚す訳にはいかない。小傘には小傘の戦いがある。

小傘は何も言わず、一度だけ固く頷く。幽香の言う通り、小傘はすぐさま隠里へと向かった。
何度も、何度も、神様に願った。

 幽香をどうか、大妖怪、風見幽香をどうか守って――。

 時は既に夕刻――決戦の時間が近付いている。人と妖、『分け目』の瞬間がやってくる。小傘も幽香も、心の中で静かに理解した。恐らく、ここが最後の戦いになる。

これを超えれば、愛する人を脅かす日々が終わる。
 命を懸けるに相応しい。それは、何処までも妖怪らしからぬ想いであった。

 ・・・

 小傘が必死の表情で隠里の入り口をくぐる。
途端、人間達が何事かと小傘の周囲に集まり出した。
小傘は声を張り、この場にいる人間全員に今の状況を説明した。

「妖怪が総出でこの隠里に攻め入ろうとしている! 皆、今すぐここから逃げて!」

 途端、人々から悲鳴にも似たどよめきが上がった。また、以前のような惨劇がこの隠里で繰り返されるのかと、皆が絶望に等しい表情を浮かべた。

「……今、幽香さんが妖怪達の進軍を食い止める為に、隠里の外で待機しているの……みんな、お願いだよう……もう時間が無いんだよう……ッ!」

 ここまで説明すれば、皆、何も言わずに従ってくれると思った。

 しかし、人々から返ってきた言葉は、小傘の予期していなかった物であった。


ふざけるな! 本当は、お前達が手引きしてるんじゃないのかッ?


「なっ……そんなっ! 違う……私達は……ッ!」

 ここに来て、ついに隠里に住む人間達の疑心暗鬼が暴走したのである。
誰かが口火を切った瞬間、皆が口を揃えて小傘に罵声を飛ばし始めた。
 
 お前らがここに来てから、状況は悪くなるばかりだ!
 妖怪なんかに手を貸すべきじゃなかったんだ!
 全部、お前らのせいだ! お前らのせいで……ッ!
 やっぱり妖怪は悪だ! こいつら、本当は俺達を根絶やしにする気なんだ!
 こいつらは人間の敵だ! 人間を『食い物』としか見ていない獣だッ! 化け物だ!
 言う事を聞けば、きっと、全員皆殺しにされるぞ!
 こいつの言っている事は全部罠だッ!
 妖怪のせいで……一体何人の里の人間が犠牲になった?
 幻想郷で、何人の人間が殺されたッ?
 本当に人間達の事を想っているのなら、今すぐこの場で死んで詫びろッ!
 妖怪が憎いッ! 妖怪は間違っているッ!
 いつだって正しいのは人間だけだッ!
 妖怪は血も涙もない、醜い存在だッ!

 こいつらには『心』がないッ! 

 その言葉はまるで狂飆の如く、容赦なく小傘の身に降りかかった。

人間達の、妖怪への全ての憎しみが小傘一人に降り注がれる。小傘は足を震わしながら、静かに涙を流した。しかし、今は泣いている場合ではない。荒れ狂う罵声の嵐に向かって、小傘は何度も何度も弁解する。喉が張り裂けるほどの声で、人間達に叫び続ける。

「違うッ、違うッ! 私達は……本当に、皆を助けたいだけなんだよ……ッ! 何で、こんなに言ってるのに、どうして分かってくれないんだよ……ッ!」

しかし、小傘の声は人々の憎しみの叫びによって虚しくかき消されてしまう。

その時、ひと際憎悪の込められた暴言が辺りに響き渡った。



 あの赤子も、人間を惑わすための餌だったのかッ?



 その言葉を聞いた瞬間、小傘の目つきが変わる。イチヨの事を言われ、これまで感じた事のない、真っ黒な感情が小傘の中で静かに広がる。何処までも激しく、何処までも鮮烈な、底を知らぬ純粋な『怒り』であった。小傘は一瞬我を忘れ、その声の方に向かって、これまで見せた事のない激怒の表情で叫んだ。

「……今の言葉、言ったのは誰ッ!? よくも……ッ! 何の罪もない子供に向かって、よくもそんな事……ッ! 混血だろうと何だろうと……あの子は立派な『人間』だよッ! 妖怪には『心』がないだって……ッ? ここにいる皆だって同じじゃないかッ! 人間なのに、人間のくせに、恥ずかしくないのか……ッ!」

 豹変した小傘を見て、しかし、人間達の怒りはさらに増していくばかりであった。

 殺せッ! あの赤ん坊を八つ裂きにしてやれッ! こいつらの仲間だッ! あの赤ん坊は妖怪だッ! こいつらと同じなんだッ! 今殺さないと、いずれきっと人間達に牙を剥くぞッ! あの赤ん坊をここに連れてこいッ! 殺してやるッ!

 最早、狂気の光景であった。人間達が、無抵抗な赤子を指して「殺せ」と叫んでいる。憎しみは留まる事を知らない。小傘は怒り狂いながら人間達に呪いの言葉を吐きまくった。

……否、人間に向かってではない。小傘は「種族」という壁を生んだこの世界そのものに向かって、あらん限りの罵声を飛ばしていた。涙を流しながら、何度も、何度も恨みをぶつけた。壊れるほどの激しい怒りを持って――。

 その時、――小さな石が小傘に向って飛んできた。住民の一人が投げたのだ。
石は小傘の額に命中する。小傘は怯み、その場に倒れ込んでしまった。

それでも、人間達の妖怪に対する憎悪は鳴りやまない。
……このままでは、皆、妖怪達に殺されてしまう。イチヨが殺されてしまう。

大好きなのに……。

イチヨだけではない。ここにいる人間達全員、皆、かつては優しかった人達だ。この人達を死なせたくない。みんな、本当は心の優しい人達なんだ。みんな、戦のせいで正気を失っているだけなんだ。小傘は自分にそう何度も言い聞かせる。鋭い痛みに顔を歪ませ、額から流れる血を拭いもせず、小傘はゆっくりと立ち上がる。

……もう、これしか手は残っていない。

小傘は自身の中に溢れる「恥」を押し殺しながら、覚悟を決めて叫んだ。


「……イチヨちゃんに万が一の事があったら……幽香さんが黙ってないぞッ!」


 幽香の名を出した瞬間、これまで業火の如く燃え広がっていた怒鳴り声がピタリと止んだ。この静寂を見逃してはならない。小傘は一気に言葉をまくし立てた。

「幽香さんは大妖怪だッ! 幽香さんは怖いんだぞッ! お前ら人間なんか、簡単に皆殺しに出来るんだぞッ! ……死にたくなかったら、私の言う事を聞いてよッ!」

 叫ぶ言葉とは裏腹に、小傘の表情はこれ以上無いほどの悲壮で溢れていた。

本当は、口にしたくもない言葉であった。

小傘は心の中で何度も詫び続けた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
幽香に、そして目の前の人々に向かって、何度も、何度も。

 小傘の言葉に、人々はそれ見た事かと嘲るような言葉を投げつけた。
小傘は、恥ずかしくて堪らなかった。……この無様な行いが、ではない。

 幽香の事を、脅しの引き合いに出した事が、恥ずかしかったのだ。

 小傘は知っている。幽香は、優しい妖怪だ。ここにいる人間達を傷付けるような真似はしない。しかし今の小傘は、幽香の持つ「大妖怪」という肩書に縋る他なかった。

目的の為に、幽香の名誉を傷付けた自分が、堪らなく悔しかったのだ。

 しかし、小傘のその選択は、怒りに支配された人々の心に静寂をもたらした。
いずれにせよ、人間達にとって幽香が脅威である事に違いはない。
あれだけ激しかった罵声が、次第に怯えの色へと変わっていった。

「お願いだよう……ッ。私が言っている事は本当だよう……みんな、イチヨちゃんを連れて、ここから逃げてよう……ッ。皆を守りたいんだよう……ッ!」

 泣きじゃくりながら、小傘は脅しとも懇願ともつかない声で皆に語りかけた。
皆、徐々に冷静さを取り戻していく。

その時、一人の老人が皆の前に現れた。
以前、小傘と幽香、そしてイチヨを匿ってくれた、この隠里の長である。
長は静かに、支度をせよと命じた。

……過程はどうであろうと、小傘の叫びは、隠里の皆を危機から救ったのである。

・・・

隠里からほんの少し離れた場所に、手入れされずに放置された畑があった。そこに一人、傷付いた末にこの世から忘れ去られた甲冑のように重く佇む一人の妖怪がいた。

彼女の名は、四季を司る大妖怪、風見幽香である。

 その向かい、しんとした静寂の中、無数の影が蠢いていた。あれは、現在この幻想郷を脅かしている妖怪の強硬派の軍勢である。百鬼夜行、後にこの国で語り継がれていく伝説の怪物達が群れを成して幽香の前に現れたのだ。数千、数万の悪鬼が血走った眼付きで幽香を睨む。怒りと畏怖の交わった空気の中、妖怪の群れは風に揺れる柳のように静かに彼女の方へとにじり寄っていく。幽香の後方には例の隠里がある。幽香は無言のまま、目の前に広がる妖の海を見つめた。この世の闇の集大成がそこにあった。……妖怪の闘争に、合図などない。互いに姿を現した時点で、戦いはすでに始まっているのである。


寒気がするほどの静寂の中、妖怪の一匹がおぞましい呻き声を上げながら幽香に向って襲い掛かった。夏の終わりを告げるひんやりとした風が一瞬、その場に流れた。たったそれだけの間に、幽香はその妖怪の首を切り落とした。それは、自然の摂理を超えた速さであった。恐らく、首を落とされた妖怪は自分が殺されたという事実にすら気付いていないだろう。夕暮れ、畑が真っ赤に染まる。暗がりに顔を隠しながら、幽香は一歩ずつ、妖怪達へと近付いていく。妖怪達は怯む事無く幽香へと挑んでいく。妖怪達の歪な咆哮と、肉を引き裂く音、血飛沫の舞う音だけが木霊していく。オレンジ色の西日に照らされながら、一匹、また一匹と妖怪達が倒れていく。恐怖を感じる暇もなく、痛みを覚える暇もなく――。


だが、数が数である。幽香も無傷ではいられない。妖怪達の爪や牙が容赦なく幽香の身体を切り裂いていく。だが幽香はその痛みを物ともせず、ただひたすらに虐殺を繰り返した。やがて、妖怪達のけたたましい咆哮は絶叫へと姿を変えていく。まるで地獄の具現である。彼らの痛みに咽び泣く声を聴きながら、幽香はさらに軍勢へと切り込んでいく。辺りに鮮血と四肢が飛び交う。こうなっては最早陣形もあったものではない。妖怪達は一斉に幽香を取り囲み、己が肉体で圧し潰すつもりで突っ込んでくる。単騎で国を崩す事すら可能とするモノノ怪が血の海を舞う。


もう、何も感じない。怒りも、痛みも、全ては生きる上での延長でしかない。暴力は何処までも魅惑的だ。そこには感情の付け入る隙など存在しない。生き物を殺すのは何処までも自然的だ。弱者に生きる価値などない。力こそ、暴虐こそ唯一平等な法だ。破壊こそが、確かな現実だ。ここに、感情はいらない。血潮によって形成された命に、意味など存在しない。

そういえば、何で殺し合いをしているんだろう?

楽しいから。それが正義だから。それこそが、『快楽』だから。

とても、とても穏やかな日々を過ごしていた気がする。しかし、そんなのは所詮戯れ。所詮、ままごとだ。――これこそが、鮮血と悲鳴こそが、私の全てだ。

幽香は、己の戦う意味を完全に忘却し、『あるがまま』に暴れ続けた。

返り血を浴びながら、殺戮の限りを尽くす。夕焼けに照らされる幽香の顔は、この時、笑っているようにさえ見えた。それは、戦いの中で生まれた最悪の怪異だけが浮かべる破壊の表情である。その瞬間、妖怪達は唐突に、これまで平坦であった地面が歪んでいくような感覚に襲われた。いや、地面ではない、この場の空間そのものが、まるで一枚の描かれた油絵であったかのように、赤く、紅く、朱く塗り潰されているのだ。距離、時間、物質、その全てが彼女の一挙手一投足によって逆転する。正気の者は、この場に足を踏み入れてはならない。

あれは、アレはこの世の物に非ず。



『無敵』


 
この言葉がここまで似合う妖怪は他にいない。

常人では恐らく目撃する事でさえ命取りとなるだろう。最早、ここで行われているのは戦闘ではない。これは、一方的な責め苦である。悪しき者が堕とされる無間地獄の真髄、その全てがこの場に凝縮されている。この場では、息をする事さえも、心臓を鼓動させる事さえも罪になる。赤く燃える世界の中心で、幽香は血に濡れた顔を不気味に歪ませた。永遠に繰り返される拷問が妖怪達を襲う。既に、死ですら救済には程遠い。絶命も許されず、逃げ惑う事も出来ず、ひたすらに地獄が広がり続ける。だが――。

自ら、戦闘の狂気に触れてしまった故か、幽香は幻聴を耳にした。

赤ん坊の泣く声が聞こえる。

この場に赤ん坊などいる筈がない。いて良い筈がない。幽香は耳の中に響き続ける泣き声をかき消すように、手当たり次第に妖怪の身体を撃ち潰していく。絶叫が鳴り響く。
しかし、いくら振り払おうとしても、泣き声は止んでくれない。

(……これは、誰の声……?)

 何処かで聞いた事のある声だ。これは何処で聞いたのだろう? 誰の声だろう?
疑問を振り払いながら、幽香は妖怪達の凶弾を躱していく。それにしても邪魔だ。それにしても耳障りだ。目の前に現れた妖怪の顔を拳で潰す。眼球と脳髄が破裂してその場に飛び散る。思わず笑ってしまう。死が、血反吐が、とても愉快だ。

(……邪魔しないでよ……良いところなんだから……!)

 その赤ん坊の声が、まるで自分を呼んでいるかのように聞こえた。既に、幽香は激しい返り血によって全身真っ赤に染まっていた。血に塗れながら、幽香は恍惚とした笑みを浮かべた。

邪魔を、しないで……。
今、幸せな気分なの。とても、最高の気分なのよ。

 破壊こそが私だ。殺戮こそが『私』だ。恐怖こそが『風見幽香』だ。

 これが――私の本性だ――。

 しかし、どれだけ頭で念じようと、赤ん坊の泣き叫ぶ声は止まない。
どうしたら止まるんだろう?

そう考えた時、一瞬、一輪の向日葵が脳裏に宿った。

 血に染まった真っ赤な向日葵。真っ赤な瞳――、大きく開いた花、まるで、一本の傘のような姿――。照り返す太陽の中、灼熱の真夏、一匹の可愛らしい付喪神、赤子の泣き声、何処までも無垢な、ある夏の一陽の産声――。

そこまで思い出した時、泣き声とは別にもう一つ、聞き覚えのある声が幽香を包み込んだ。

『幽香さん、辛かったね。頑張ったね』

 ……。

 そんな訳がない。私は今、こんなにも救われている。こんなにも悦んでいる。
一体誰だ? 勝手な事を言うな。私は、私は『化け物』だ。

『痛かったね、怖かったよね』

 違う。こんなの、私じゃない。私の両腕は血で汚れている。

 幽香は何度もそう唱え続ける。その時、ふと、誰かに頭を撫でられているような気がした。これは痛みを、恐怖を、癒そうとしてくれる者の手だ。幽香は自身の頬に触れた。血の煙によって染められた頬に、一筋の温かい雫が流れた。気付かぬうちに、幽香は涙を流していたのだ。

その柔らかな雫を指で掬い取った瞬間、思い知った。
ああ、そうか――。
 
私は、傷付いていたのか。

 誰かを傷付けているうちに、そんな事も忘れてしまっていたのか。

赤ん坊の泣き声が次第に弱くなっていく。どうすれば、この涙を止める事が出来るのだろうか? どうすれば、泣いているあの子を笑わせる事が出来るのだろうか?
そう思った途端、とある一本の傘を思い出した。


 そう、泣いているあの子は、向日葵と傘が好きなのだ。


「……ッ!」

 激しい戦闘の中で、幽香は我を忘れてしまっていた。イチヨ、あの子の名はイチヨ。何故、自分は戦っているのか、それをようやく思い出したのだ。幽香は正気を取り戻し、ふと辺りを見渡す。もうじき、陽が沈む。暗がりが広がる畑に、妖怪達の無残な死体の山が転がっていた。皆、その体躯を悉く破壊されていた。全て、幽香がやったのだ。それに気付いた時、自重を支えきれず、幽香はその場に倒れ込んでしまった。自分の身体を見下ろしてみる。全身傷だらけであった。いくら最強の妖怪といえ、ここまで傷付けば、もう呼吸するのもやっとである。

 ……しかし、よもやこれで全軍という訳ではあるまい。幽香は何とか無理やり立とうするが、力が入らない。あまりにも血を流し過ぎた。絶命してもおかしくない程の傷を負っている。もうじき日が暮れる。早く立たなければならない。

守りたい物があるのだ。守りたい人がいるのだ。

しかし――。

 畑の向こうに、数体の妖怪がいる事に気付いた。間違いない、今しがた幽香が屠った妖怪達で全部という訳ではない。今、遠くに見えるのは恐らく後方で控えていた妖怪達である。

……身体が言う事を聞かない。妖怪達は容赦なく幽香の元へと近付いてくる。
これまでかと、幽香は諦観の念に支配された。

同族である妖怪達に対し、これだけの反逆を行ったのだ。
生かされる筈がない。

 ……だが、これでいい。

 時間は十分に稼いだ。後は、小傘が皆を先導してくれる筈。
自分の命など、くれてやろう。

小傘と、イチヨが無事ならば、それでいい。

 そう考えているうちに、妖怪達が目前にまで迫っていた。彼らの統率者か、妖怪の一匹が代表として、その場に打ちひしがれる幽香に声をかけてきた。

 ――大妖怪ともあろう貴女が、何と無様な。

「……何とでも言いなさいな。もう、好きにするがいいわ、もう……」

 幽香は力なく、自嘲気味に笑った。
しかし、妖怪は一切の笑みを見せず、何処までも慎重に言葉を続けた。

 ――こんな目に遭ってもなお、意志は変わらないというのか、風見幽香。我々の軍勢に加われば、ある程度の「優遇」は約束するというのに――。貴女が大事に守っている物、その真意は分かりかねるが、いいだろう。目溢しをしてやってもいい。貴女の背に広がる人の隠里に関しても同様だ。命だけは奪わないでおいてやる。どうだ、風見幽香、今ならまだ、取り返しのつく事もある筈だぞ――。

 厳かに提案する妖怪に、しかし、幽香はおかしそうに笑い声で返した。

「……アンタ、この光景を見てまだ分かんないの?」

 私は、ただ、あの子の平和を守りたいだけ。
幽香はその言葉を最後に、瞳を閉じたまま沈黙してしまった。

……ここで、幽香が妖怪達の条件を呑めば、恐らく、後方の隠里の安全は約束される。そこで保護されているイチヨも同様だ。だが、幽香から言わせれば、そんなのは『平和』とは呼ばない。漫然と妖怪達に管理されるだけの人生など、生きているとは言えない。そう、例えば――。

 誰に脅かされる事もなく、見渡す限りに咲く向日葵の中で自由に泣き、笑い合う事――。
それこそが本当の命である。

――愚かだ。それは、愚かな選択だ。大妖怪、風見幽香――。
 ……ええ、それで結構。
 
妖怪は手に持った武器を静かに振り上げた。幽香は最後の瞬間を待った。

その時である。

 後方から、誰かの気配が近付いてくるのが分かった。何度も何度も畦道に足を取られ、派手に転びながらこちらの方へ向かってきている。あの危なげな気配、間違う筈もない。その瞬間、幽香は力の入らぬ身体を無理やり動かし、その気配の方向へ向かって力の限り叫んだ。

「駄目……こっちに来ては駄目よッ! 小傘ッ!!」

 人間達を逃がすために隠里へと向かった筈の小傘が、この場に現れたのである。
しかし、小傘の持つ力はあまりにも微弱である。
妖怪達は動揺する事なく、小傘の事を見つめたまま静止を保ち続けた。

 幽香の必死の叫びを聞き入れず、小傘は幽香をかばう様に妖怪達の前に立ちはだかった。妖怪の凶暴な眼球がじっと小傘の華奢な身体を見つめている。小傘の足は危ういほどに震えていた。よく見れば、小傘の身体はボロボロである。恐らく、幽香を助ける為に隠里からここまで全速力で野山をかけてきたのだろう。全身切り傷だらけの状態で、鼻血と、大粒の涙を垂らしながら、それでも小傘は真っ向から妖怪を睨みつけ、震える声で高らかに言い放った。

「……幽香さんに……触るな……ッ!!」

 それは所詮、力のない付喪神の虚勢でしかなかった。しかし何故か妖怪は、掲げた武器を小傘に振り下ろす事はしなかった。……どうやら、妖怪は小傘ではなく、その後方に庇われている幽香の方を見つめていた。小傘に守られながら、幽香は、真顔で妖怪を見つめていた。感情の読み取れない顔であった。幽香自身、咄嗟の事で表情を動かせないでいたのだ。

だが、そこにある二つの瞳は違った。
先ほどまでの、命を諦めた者の瞳ではない。
これは、執念と信念の入り混じった瞳である。

 家族に、手を出すな。

言葉にせずとも、幽香は妖怪にそう訴えていた。妖怪もその圧を感じ取ったのか、無言のまま、しばし硬直してしまう。この子に手を出せば、殺す。幽香は無表情のまま、妖怪を脅していたのだ。……やがて、妖怪は振り上げた武器をそっと収める。
何が起こったのか、小傘は困惑の表情で妖怪を見つめた。

――奇妙なものだ。この、何の力も持たぬ付喪神が現れたせいで、我々の勝機は完全に無くなってしまったらしい。

満身創痍となった二人を見下ろしながら、妖怪は何処までも重い声で呟く。

恐らく、彼らにとっても、これが最後の賭けだったのだろう。

ここで幽香を妖怪側の軍に引き入れる事が出来れば、停戦協定を白紙に戻す切り札として利用出来た筈であった。しかし、幽香はもうどう足掻いても、どれほど譲歩しても、妖怪達に加担する気はないらしい。時間から考えても、ここが限界である。

もう、妖怪の賢者と博麗の守護者の取り決めに従う他に選択肢が無くなってしまったのだ。

 人間と妖怪の戦は、今この時を持って終焉を告げたのだ。

 幽香の確固たる意志を前にして、妖怪達は観念したように撤退を始めた。
二人はよく分からない表情のまま、黙ってその光景を見つめた。

 ――最後に、風見幽香。聞かせてほしい。

 血に染まる畑から立ち去る直前、妖怪が幽香に向って問いかけた。


 ――風見幽香、人間は、そんなにも美しい生き物なのか?


 何処までも抽象的な問いかけであった。幽香は答える事が出来なかった。
だが、幻想郷最強の妖怪と、そんな彼女を決死の覚悟で守ろうとする付喪神、ボロボロな二人の姿が、その答えだ――。すべてはイチヨという、一人の無垢な赤ん坊の為だ。

 妖怪は、納得したようにその場から離れていった。静寂、血のむせ返るような臭いの中、取り残された幽香と小傘は脱力し、その場に倒れ伏してしまう。

 時代が終わる。
 新たな日々が始まる。


 ・・・


 傷付き、消耗しきった幽香の身体を支えながら、小傘は山道を歩いていた。ここに来る前、小傘は隠里の住民達を外にある洞穴へと案内した。一時的な避難場所である。そこにはイチヨもいる。あの妖怪達との戦いを生き抜いた二人は、休む暇もないままそこに向かっていた。

「幽香さん……終わった、終わったんだよ、何もかも……」

 小傘は幽香に向って懸命に呼びかけた。傷は深いが、回復出来ないほどではない。
数日安静にすれば、これまで通り普通に生活出来るようになるだろう。

「ええ、小傘……やっと、やっと……」

 幽香は必死に声を出してそれに応えた。戦乱の時代は終わる。幻想郷に、新たな秩序が訪れる。それは恐らく、人間達がもっと幸せに、安全に暮らせる世界の筈だ。
そうなったら、もう、何も恐れる物など無くなる。

「……ッ、幽香さん……会いに行けるんだよ、イチヨちゃんに……ッ」

 一体、どれほどこの時を待ちわびたか。
もう、争いは無くなる。安心してイチヨと会う事が出来る。

「小傘……また、一緒に暮らしましょうよ。三人で……それで、一緒に、イチヨを立派に育てましょう。人間とか妖怪とか、混血種だとか、そんなの、どっちでもいいわ。二人で……イチヨを、幸せにしてあげましょう……」

 二人は、イチヨの名の由来――『一陽来復』という言葉を思い出す。
不幸の後には、必ず幸せが訪れる。悪い事はいつまでも続かない。

「私さ、イチヨちゃんに言葉を教えるんだ……。本を読んであげて、私もそんなに自信ないけど、読み書きもちゃんと教えて……そんでさ、寺子屋にも行かせてあげようよ……イチヨちゃん、きっと、友達いっぱい出来るよ……」

「……ふふっ、小傘ったら、気が早いわよ……その前に、まずはちゃんとした住処を探さないといけないわね。これだけ不幸な目に遭ったんだもの。精一杯、イチヨの事を甘やかしてあげなくちゃ……イチヨの欲しい物は何でも買ってあげて、好きな食べ物をたくさん作ってあげて、それで……それから……」

 これからは、楽しい事や嬉しい事が山のように待っている。
一陽来復、これまでの不幸に見合うだけの幸福は必ず訪れる。
そうに決まっている――いや。


そうでないと、おかしい。
 

・・・

 時刻はすでに深夜――二人が洞穴に辿り着く頃、辺りはすっかり闇に包まれていた。
この洞穴、入り口は狭いが内部は意外に入り組んでおり、住民全員が避難するのには十分な広さがあった。よろよろと内部に入ると、隠里の住民達が不安げな表情で二人を迎えた。

……どうやら何事もなかったようである。二人は胸を撫で下ろした。
そこで、幽香が消え入りそうな声を絞り出した。

「イチヨ、は……私達の子供は――?」

 その問いに、その場にいた住民は何故か沈黙で返した。妙な空気が漂っている。そこで、横にいた小傘が、ヘロヘロの筈なのに無理して、いつものおどけたような態度で皆に呼び掛けた。

「みんな……もう大丈夫だよっ! 妖怪達は、幽香さんが追っ払ったからっ! それにね……もう、人と妖怪の争いはこれでおしまいっ! みんな、今まで通り……いや、今までよりずっと、もっと楽しく、自由に暮らせるようになるんだよ!」

 小傘が明るい口調で高らかに言い放った。しかし、それでも人々の表情が晴れる事は無かった。それどころか、小傘の知らせを聞き、陰鬱な雰囲気がより濃くなったではないか。途端、ぱっと陽気な笑みを浮かべていた小傘の表情がぎこちない物となっていく。

「あ、あはは……みんな、私が嘘をついているとでも思っているのかな……」

 誰も、口を開こうとしない。
返ってくるのは、洞穴の中に流れる湿った風の音ばかりであった。

……明らかに変だ。何かがおかしい。

「そ、それで……その……イチヨちゃんは……?」

 小傘が皆にそう尋ねる。
しかし、誰もそれに返事をしない。皆、重く俯くばかりであった。
……その時、ここまで皆を率いていた隠里の長が二人の前に現れる。

――ついてきなさい。

長は無感情のままに洞穴の奥を指した。

 二人は言われるままに長の後をついていく。
その間、住民達が遠巻きに二人の事を見つめていた。とにかく不気味であった。

 洞穴の奥に、何やら倉庫のような場所があった。何故か二人はそこに案内される。

何があるのかと入ってみると、そこには刀や鎧など、様々な武具が並べられていた。

「これ……何、どうしたの?」

 小傘が尋ねる。長は刀を手に取り、鞘を握りながら厳かに答えた。

 ――これは、人間と妖怪の戦場で回収した物の一部でございます。

 よく見ると、鎧には血がこびり付いていた。ますます、意味が分からなくなる。

 ――これからの戦に備え、我々が里の奥で密かに集めていたのでございます。

 小傘は一瞬だけポカンとした表情を浮かべた。

「……私の言ってた事、聞いていなかったの? もう、戦は終わったんだよ。もうすぐ、停戦協定が結ばれる、もう誰も戦わなくて済むんだよ……?」

 しかし、長は小傘の言葉を遮り、説明を続けた。

 ――いいえ、戦は終わりません。

 長の表情には、有無を言わせぬほどの意志が宿っていた。……真意が分からない。
小傘の肩に支えられながら、幽香が苛立った様子で問いかける。

「いい加減、回りくどいわ……何が言いたいの? それと私達の子は――」

 そこまで言いかけたところで、長は鞘から刀を抜き、静かに、鋭く言い放った。


――我々は、停戦協定を拒絶する――。


一瞬、長が言っている事の意味が分からなかった。

「……拒絶って……何で、何が……?」
 混乱する小傘に、長は何処までも冷徹に言葉を続ける。

 ――言葉通りの意味です。我々は、妖怪との共存を拒絶する。我々はこれまで通り、妖怪達との対立を強く望む。人間は、妖怪とは交われない……否、そもそも妖怪は、この世にいてはならない存在だという事が、今回の戦いで良く分かった。嫌というほど思い知らされた……。故に我々は、この協定を無にする為の策を用意したのだ。

――これが、私達の答えだ、醜い妖怪共め――。

 その言葉が合図であったかのように、今まで静寂を保ち続けていた住民達が一斉に武器を持って二人を囲んだのである。突然の出来事に、小傘は何も出来ずに狼狽える。皆、据わった目つきで二人に刃を向けている。どうやら、本気のようである。

「どうして……何でこんな事するのッ! もう武器なんて必要ないんだよ! もう誰も傷付かずに済むんだよッ! それなのに、何でそんな――」

 ――どうして? 決まっている。妖怪を恨んでいるからだ。妖怪を憎んでいるからだ。お前達妖怪共はこれまで、どれだけの人間をその手で殺めてきた? お前達のせいで、一体、どれだけの人間が犠牲になった? 我らは、お前達妖怪を決して認めない。決して、許容しない。妖怪共、次は、誰を殺すのだ? 何を奪うのだ? 停戦協定など、認めてたまるものか、我々は最後まで抗うぞ。お前達を、根絶やしにするまで――。

 以前、隠里の若者達が妖怪によって殺害される事件があった。その犠牲者の一人は、この長の息子であった。彼だけではない。隠里の住民は皆、妖怪達を恨んでいた。妖怪達を、彼らによってもたらされた抗争の日々を憎んでいたのだ。

 これでは、全てが振り出しである。

「……呆れて返す言葉もないわ。自ら戦いを望むだなんて。アンタ達みたいな少数の住民だけで息巻いても、妖怪の賢者による約定は確実に進められる。アンタ達にそれを覆す力などある筈がない。小傘、いいわ、もう。イチヨを探しましょう」

 幽香は乱暴に吐き捨てる。しかし、住民達は武装したまま、二人を逃がさないように囲み続けている。そこで、幽香は脅しのつもりで人間達を睨んだ。

「まさか、手負いだからって、私に勝てるとでも思っているの? だとしたら、その浅はかで愚かな思考を恥じなさいな。人間如きに何が出来る?」

 幽香の凶暴な視線に、住民達は真っ青な表情を浮かべる。
いくら瀕死の状態とは言え、幽香は大妖怪、交戦したところで話にならないだろう。

「ねぇ、みんなッ! もういい加減にしてよッ! 戦う意味なんかないじゃんッ! 全部終わったんだよッ! みんな、武器を収めてよ……ッ、私達、みんなとは戦いたくないよ……嫌だよもう、こんなの……もう、沢山なんだよッ! ねぇ、お願いだから、もう道を空けて……イチヨちゃんは何処? イチヨちゃんを連れて、ここから出て行くよ……それで、もう二度とみんなの前には現れないから……それでいいでしょう……? だから――」
 
 


 ――「持って」こい。




 長は、冷め切った声で住民達にそう命じた。
何故か、妙な寒気がした。



 住民達が持ってきたのは、水の張られた小さな桶であった。
 それは幽香と小傘の前に、静かに置かれた。



 桶の中を覗き込んだ瞬間、小傘は、精神の全てをそぎ落とされた。
 あって良い筈がない。こんな事、あって良い筈がない。



 幽香も、小傘も、その光景を、現実として受け入れる事が出来なかった。
 これは、悪夢だ。悪い夢だ。現実である筈がない。現実な訳がない。








 水の入った桶の中に、イチヨの死体が沈められていたのだ。








 桶に沈むその小さな死体は、まるで母の胎盤の中にいるかのように小さく丸まっていた。何処までも孤独に、力無く――。小傘は目を見開きながら、ゆっくりと両腕を水の中に沈ませ、桶の底で沈黙し続ける赤子を救い上げた。

「あ、あ……あ、あ……あ」

 その赤ん坊の表情は、怯えたように歪んでいた。苦しみの形相を浮かべていた。
 違う。違う。こんなの、現実じゃない。違う。違うに決まっている。

 こんな残酷な事が、『人間』に出来る訳がない。
あまりの衝撃に、表情を硬直させながら、小傘はゆっくりとその赤ん坊の頭を撫でてみた。



 額に、小さな角が生えている。



 これは、イチヨの角だ。



 この子は、イチヨだ。
 この子は、私達の子だ。



――この赤子は、後に我々人間にとっての災いの因果となるだろう。人間と妖怪の混血だと? そんな汚れた「生き物」が、生きていて良い筈がない。妖怪としての力が目覚めれば、この赤子はいずれ必ず人間達に牙を剥く。コイツは、この赤子の思念は――っ、妖怪の血によって汚染されているッ! 故に、殺した。こいつは、産み落とされた直後に死ぬべきだった……否、そもそも『生まれてくるべきではなかった』生き物だっ! 



――故に、殺した。正義の為に、我々が殺した――ッ!



 長は、放心し続ける二人に向って吐き捨てた。これまで二人が大切に育ててきたイチヨを、二人が命を懸けて守り続けたイチヨの事を、『全否定』したのだ――。

 何を言っているのか、理解出来なかった。

 目の前に広がるその光景を見つめながら、幽香は――その場にすとんと座り込んでしまった。

 感情が追い付かない。
 理解に近付けない。
 理解に届かない。

「イチヨは……私達の子は……」



 その瞬間、幽香の奥底にある、小さな箍が外れた。



 イチヨは、人間達の手によって殺された。

その事実が、枯渇した幽香の妖力となり、体内で沸々と煮え滾っていく。

静かに、一線を越えていく。
己の中に眠る狂気が、凶気が目を覚ます。

最後の理性が、崩れていく。
瞳孔が開く。
殺意が溢れ出る。

怒りが、全てを支配していく。
脳内が、呪いの言葉で満ちていく。




こいつらは、生きてはいけない。

生かしてはおかない。

生かして、なるものか――。





「……全員、殺――」
 だが――。



「殺してやる」



 それは、幽香の放った言葉ではない。

 それは、小傘から発せられた言葉であった。
 小傘は、冷たくなったイチヨの死体を抱きしめながら、慟哭の涙を流していた。

「――殺してやる――ッ、お前ら、全員――ッ」

 突然の絶叫に、その場にいた誰もが唖然とした表情を浮かべた。
小傘自身、このような感情を抱いたのは生まれて初めての事であった。
 
――純粋なる、殺意を孕んだ激怒であった。

「……お前ら、全員『人でなし』だッ! 死ね……ッ! 死んじまえ……ッ! 呪われろ……ッ、お前らなんか、全員……呪われてしまえばいいッ! お前ら、何も感じないのかッ、良心が痛まないのか……ッ、人の心を何処に捨ててきたッ! ……死んじまえッ! 全員、死んでこの子に謝れッ! うう……っ、うあああああああああ……ッ!!」

 洞穴に、小傘の泣き叫ぶ声が響き渡る。

無力な付喪神の呪詛は、この場にいる人間達を恐怖させた。だが――
 小傘の言葉に、誰よりも戦慄を覚えたのは、幽香であった。

 小傘の泣く姿を見て、初めて、実感してしまったのだ。一瞬、頭に眩い光景が蘇る。満開に咲く向日葵の草原で、無邪気に泣き喚くイチヨの姿を、それを楽しそうにあやす小傘の姿を思い出した。幸せに、優しさに溢れた思い出であった。

 その日々を、永遠に奪われた。イチヨを、奪われたのだ。

幽香は音もなく立ち上がり、武器を構える長へと近付く。
長の持つ刀は恐怖により震えていた。死を覚悟した者の目をしていた。

……きっと、初めからこれが狙いだったのだろう。

停戦の中止には相応の事態が必要になる。きっとここにいる住民達は、殺される事さえも織り込み済みだったのである。イチヨを殺し、怒り狂った幽香の犠牲になる事で、人と妖の協定を妨害し、戦争を長引かせようと目論んでいたのだ。……否、それは最早「目論見」とは呼べない。これは、全ての生き物を巻き込んだ「自決」でしかない。妖怪を憎むあまり、彼らは自身の命を持って、全ての平和を犠牲にして、妖怪達と戦い続ける事を選んだ。

……よく見れば、洞穴にいる住民達の数が若干少ない。恐らく、半分は別の場所に逃げているのだろう。ここにいる者達は、言わば生贄である。自ら犠牲になる事で、戦争の引き金になろうとしているのだ。協定が結ばれたら、妖怪達への仇討が出来なくなってしまうから――。

狂ってる。
ここにいる人間達は皆、戦の狂気に憑りつかれている。

――殺すなら、殺せばいい。元より覚悟の上だ。お前達のような妖怪は、速やかに滅ぶべきだ――ッ。さぁ、殺せ――。ここにいる全ての人間を殺せ。今更、命など惜しくはない――。憎いのだろう、恨むのだろう――さぁ、命を奪うがいい。妖怪らしく、暴れるがいい――私を、殺せ、この、妖怪――ッ。


「……なんて、醜い」


しかし、幽香は、目の前の人間を殺す事はしなかった。
溢れそうになる殺意を必死に押し殺しながら、侮蔑を込めて睨み続けた。
握った拳から、血が滴り落ちる。気を抜けば、怒りに支配されてしまう。ここにいる全ての人間を、皆殺しにしてしまう。それでは、こいつらの思うつぼである。

――この狂人共の犠牲となった我が子を、これ以上、辱める訳にはいかない。

幽香は唇を噛みながら、その場に蹲って泣き続ける小傘に手を差し伸べる。
小傘はその手を握り、イチヨの死体を抱きかかえたまま立ち上がる。これまで二人を取り囲んでいた住民達は、幽香の壮絶な威圧に恐れをなし、皆、無様に後退った。

「小傘……行こう……」

 二人は、動揺する皆をよそに、その場から離れようとする。

しかし、それでは計画が成り立たない。
大妖怪である風見幽香の犠牲になって、初めて意味があるのだ。
長は二人の背中に向かって叫んだ。

 ――どうした、敵を討たないのかッ? その赤子を愛していたのだろうッ? 妖怪のくせに赤子の世話など笑わせるなッ! 私が憎いだろうッ! ここにいる人間達が、この世界に住む全ての人間が憎いのだろうッ! 何故だッ、何故敵を討たぬッ? 何故、我々を生かすッ? お前の子供を、この手で殺したのだぞッ?

「黙れ、外道」

 一瞥もくれず、幽香は小傘の手を引く。
もう、これ以上関わってはならない。

ここの人間達は、もう、『人間』ではない。
尊厳を失くした、化け物達だ。

 イチヨの死を、こんな気狂い共の戦争の口実にさせる訳にはいかない。

これ以上、こいつらにイチヨの死を利用させてたまるものか。
幽香と小傘は口も開かず、怒りを抑えながら、足早とその場から去ろうとする――だが。

 ――その混血の赤子は、水に沈められ、悶え苦しんで死んでいったのだぞ――。

「……ッ!」

 その言葉を聞いた途端、幽香は足を止めてしまった。
そして、長の方へ振り返り、この世の物とは思えぬほどの悪鬼の形相で駆け寄る。
長は小さく悲鳴を上げた。
幽香は彼の首を掴み、張り裂けるように絶叫した。


「……お前達はッ、本当にッ、本当に可哀想な生き物だッ!!」


 否、長だけではない。
今この瞬間、この世界に存在する全ての不条理に対し、幽香は叫びかけているのだ。
あまりの気迫に、付近にいた住民達が腰を抜かし、悲鳴を上げた。
それでもなお、幽香は声の限り叫び続けた。


「なんて哀れなんだッ! なんて無様なんだッ! 良心を持たず、信念も持たず、簡単に人の領域を超えて……ッ! 何処まで私達の子を侮辱すれば気が済むんだッ! 言ってみろ、妖怪はどっちだッ? どっちが妖怪だッ? 私とお前達ッ、怪物は一体どっちの方だッ!? お前達の方が、よっぽどッ、怪物だろうがッ!! 鬼に魂を売り渡した人でなし共がッ! 全員、地獄に墜ちろッ! 二度とこの世に帰ってくるなッ! 血を流す事でしか前に進めないんだったらッ、誰かを傷付ける事でしか生きられないんだったら……ッ、『心』を……失くしてしまったのなら……ッ、『人間』なんか、辞めてしまえばいい……ッ!!」
 

 肩で息をしながら、幽香はありったけの思いをぶつけた。しかし、目の前の長は最後まで幽香の話を聞かず、口から泡を吹き、その場で気絶してしまっていた。

 怒りに全てを任せ、この場にいる人間達の命を奪う。
一人残らず、命を摘み取る。
幽香なら、大妖怪の彼女なら、やろうと思えば出来る事だ。

だが、出来なかった。

……風の音と共に、洞穴の奥から赤子の泣く声が聞こえたからだ。

ここにいる住民達は隠里の半分。その中には子を連れた親がいた。胎を膨らませた母親がいた。家庭を持つ男がいた。今、この場で何が起きているのか、それすら分からずにひたすら泣き続ける子供達がいた。やり場のない想いだけが溢れる。

「……幽香さん。イチヨちゃんの身体がね……冷たいんだ……とても……」

 小傘は幽香を諫める事はしなかった。
ただ、その腕に広がる、ありのままの感触を口にするだけであった。
幽香は頷き、小傘と共に再び洞穴から出て行こうとする。

その時、住民の一人が刀を握りしめながら二人の前に立ちはだかった。
そいつは、年端も行かぬ少年であった。

彼は、家族を妖怪に殺されたのである。誰よりも妖怪を憎んでいる筈である。
少年は恐怖で全身を震わせながら、情けなく泣いていた。

 これが、幽香と小傘の問いに対する人間達の『答え合わせ』である。

 少年は、絶叫しながら幽香に向って刀を突き刺した。素人同然の剣技であった。だが、幽香はそれを躱す事は無かった。鈍い音が辺りに響く。幽香の腹部から薄っすらと黒い血が滲む。

しかし、刀は突き刺さる事なく、音を立てながら、滑るように地に落ちる。腹部に刺す直前、少年は、咄嗟に刀の柄から手を放してしまったのだ。
……誰かを殺めるには、彼はあまりにも幼過ぎた。恐怖により動揺する少年を、しかし、幽香は一瞥もくれず、痛みも気にしないままに前へと進み続ける。

……今のこの少年に対し、どんな事が言えただろうか?
妖怪である幽香なら、尚更である。

だが――。

 ――ごめん、なさい――。

 それは何に対しての謝罪なのか、少年は、幽香の血で塗れた両手を震わせながら、力無く、立ち去る二人の背中に呟いた。幽香は、少しだけ顔を歪ませた。

 今の幽香にとって、その言葉は、刃を突き立てられるよりも痛い物であった。


 ・・・


 イチヨの死体を抱えながら、二人は太陽の畑へとやってきた。

 ここは、初めて三人が出会った場所である。イチヨを埋葬するには相応しい場所である。夏の終わりを告げる風に、萎れた向日葵が寂しげに揺れている。向日葵の中心に、イチヨを埋めようと決めた。二人は一切言葉を交わさず、黙々と湿った地面を掘るが、その途中、小傘は鼻を鳴らして泣き始めた。それでも幽香は表情一つ変えず、懸命に腕を動かした。

 冷たくなったイチヨの身体を毛布に包み、そっと底の方に寝かせる。

「……っ」

その光景から、小傘は目を背けてしまう。とてもじゃないが、見れた物ではない。
幽香は優しく、イチヨの身体に土を被せていく。

すると、幽香は唐突に小傘に向って声をかけた。
小傘は涙を裾で拭いながら幽香を見つめた。

「……イチヨは、どういう大人になっただろうね」
「……幽香さん……」

 これほど虚しい問いかけはない。小傘は答えられなかった。
それでも、幽香は重ねて小傘に問いかけた。

「きっと、優しい子に育ったわよね。誰にも壁を作らずに、人間とも、妖怪とも仲良くなれたわよね。きっと、偏見を持たない、素敵な大人になったわよね……」
「……ねぇ……ねぇ、幽香さん……ッ」

 幽香は、イチヨの死体を土の中に埋めていく。

「争いのない世界で、みんなから愛されるような、そんな、幸せな子に育ったわ。ええ、きっとそう。でも、いつかは喧嘩もするわよね、男の子だもんね。その時は、逃げずに受け止めてあげないとね。生きていれば悪さもするわよね。そしたら、精一杯叱ってあげて……その時は小傘、貴女が慰めてあげてね……」
「ねぇ……ッ! 幽香さん……やめてよ……もう、やめて……」

「この子が傷付いたら……誰かに虐げられたら……ッ、私達で、この子を認めてあげようね……ッ、二人で守ってあげようね……ッ、それで、それで……ッ!」





「……イチヨちゃんは死んだんだよ……ッ! もういないんだよ……ッ!」

「……分かってるわよそんな事……ッ!! 小傘も見てないで手伝ってよ……ッ!」



 再び、二人の間に虚しい沈黙が訪れる。
小傘は力なく、その場で泣き続けるばかりであった。
幽香は黙り込み、静かにイチヨを埋葬していく。

……全てを終え、二人は言葉を交わす事なく、いつまでもイチヨの墓の前に立ち続けた。

 その時――。

「雨が、降ってきたわね……」

 幽香の一言に、小傘はふと空を見上げる。
確かにどんよりとした雲が広がっていたが、雨は一滴も降っていない。

「いえ……確かに降っているわ……これは、雨よ……」

 幽香は小傘に背を向けながら言葉を続ける。
 声が、震えている。

「ねぇ、小傘」

 そう言って、幽香は小傘の方へ振り返った。


「どうすれば……この雨は止むの……?」
 幽香は大粒の涙を流しながら、小傘に問いかけた。

 風見幽香は、これまで泣いた事など一度として無かった。
 故に、知らなかった。涙が、ここまで辛く、苦しい物だったなんて――。

 ……小傘は無言で幽香に近付き、彼女の震える身体を静かに抱きしめた。
幽香は、嗚咽交じりに小傘へと語りかける。

「……ねぇ、この雨を止めて。こんな雨、大嫌い……止めて、止めてよ……痛い……苦しい……止めて、この雨を止めて……お願い小傘、止めて、いやよ……こんな、雨……っ!」

 小傘を抱きしめ返しながら、幽香は声を上げて泣き崩れた。
幽香を力いっぱい抱きしめ、小傘は大粒の涙を目に溜めながら――。

 ――その時、決意した。

「……良いよ、幽香さん……貴女なら……」



 それは小傘にとっての、最初で最後の『心変わり』であった。



「……幽香さん、私……貴女だったらいいよ……私、幽香さんの傘になるよう……! 私が、貴女を守るよう……っ! だから、だから……泣いても良いよ……私が、貴女の傘になるから……幽香さんの涙、私が全部、受け止めるから……っ!!」


 それは、忘れ傘の付喪神としてこの幻想郷に生み出された自分を根底から否定する言葉である。小傘は忘れ傘、彼女には正式な持ち主がいた。

その持ち主に忘れられたという事実だけが彼女の存在理由だ。
誰かの傘になれば、彼女の、『忘れ傘』としての存在は消えてしまう。

だが……今の小傘にとって、それはもう関係のない事であった。

目の前にいるこの大妖怪を、悲しい雨で濡らしたくなかった。

一頻り泣いていると、本当に一滴の雫が空から落ちてきた。雫は次第にぽつぽつと不定の音を奏で初め、土砂降りとなって幽香と小傘を包み込んだ。二人の傷を癒すかのような雨であった。小傘は何も言わず、手に持っていた傘を広げ、幽香の頭上にかざそうとした――だが、幽香はそれをやんわりと拒んだ。

「……ありがとうね、小傘……ありがとう……」
でも、今の私に、貴女の傘は優しすぎる――。

 ずぶ濡れになりながら、幽香は小傘の元から立ち去ろうとした。
遠ざかる背中に、小傘は自分の思いをぶつけた。

「幽香さん……私、ずっと忘れないよ。幽香さんが優しい事も、イチヨちゃんを愛してた事も、全部、忘れないからね……ッ! 幽香さん……私、楽しかった、幸せだった……ッ! 三人で過ごした日々は、絶対に忘れない……っ! 幽香さんッ、どうか元気で……幸せに生き続けて……イチヨちゃんの分も、沢山、沢山生きてっ! 『一陽来復』だよ……ッ、いつか絶対、幸せな時代がやってくるよ……ッ! 信じなきゃ……ッ! 信じて、生き続けなきゃ……ッ!」

 雨に打たれながら、幽香は一度だけ頷いた。この郷の誰よりも強い力を持つ大妖怪と、心優しき付喪神は、再びそれぞれの道へと戻っていく。

 それは、今の幻想郷が出来る前の、ある一夏の出来事――。

戦乱の狭間にて生まれた、人と妖の悲しき物語である――。











・・・

       








随分と時が過ぎた。

あれから幻想郷は一つの変化を遂げた。しばらくは激しい戦後の復興に追われ、安定した時代とは言い難い日々が続いたが、幻想郷の外から強大な妖怪が現れた事と、博麗の巫女の世代交代が行われたのをきっかけに、この土地には新たな法が定められた。
命名決闘法案(スペルカードルール)という、人妖問わず、無血の決闘を可能とする法である。これにより、幻想郷から争いは途絶えた。

……隠里の住民達はというと、しばらくは戦争を続行する為に動いていたらしいが、時代が過ぎ去り、彼らの恨みは次第に薄れていった。無事に停戦協定が確約された後も、一部の人間は頑なに妖怪を憎み続けていたが、次の、さらに次の世代になる頃には、妖怪達と戦争をしていたという事実さえ忘れ去られていた。不思議な事に、人間とはそういう物だ。後に、各地に広がっていた里は幻想郷の中心地で合併され、正式に『人里』として妖怪の賢者に保護されるようになった。

争いは終わったのだ。何もかも。

……風見幽香は、停戦協定が結ばれた後、しばらく幻想郷を放浪する日々を過ごしていた。しかしその後、結局元の住処である太陽の畑に戻り、これまで通り、そこに住居を構えて静かに暮らしているという。大妖怪としての脅威は今でも語り継がれており、稗田家の九代目阿礼乙女、稗田阿求が出版した『幻想郷縁起』に記された事もあって、今の幻想郷で彼女に手を出そうと目論む者は皆無となった。誰に脅かされる事もなく、逆に脅かす事もなく、幽香は本来の願いであった「静かな暮らし」を手に入れ、平和な幻想郷を日々謳歌している――。

……。

ちなみに小傘は。
ご存じの通り、例のバス停に入り浸っているのであった。

静かな雨の中、小傘はバス停のベンチに座り、呑気に鼻歌を口ずさんでいた。待ち人は、今日も訪れない。それでも、小傘は気長に待ち続けた。……今日は待ち人とは別に、他の誰かがここにやって来る予感があった。小傘は、早苗に返す予定のリュックを背負っていた。あれからしばらく借りっぱなしである。

その時、雨の降る小道の向こうから誰かがやってくるのが見えた。
小傘はふとその方向を見て、途端に嬉しそうに微笑んだ。

それは、この幻想郷最強の大妖怪、風見幽香であった。

「久しぶりね、小傘。……こんなところで何やってんの?」

 幽香は自前の傘をたたみながら小傘の横に座る。

「ここで、誰かを待っているんだ。ずっとね」

変なの、幽香は優しく微笑む。

「にしたって、アンタも変わらないわねぇ」
「幽香さんだって、何も変わってないよ」

 まぁ、別に変わる必要ないけど。二人は同時にそう呟き、同時に笑った。互いに、あの頃から何一つ変わっていない。そこで、小傘は背負ったリュックから一本の酒瓶を取り出した。

これは以前、勇儀からお礼としてもらった酒である。

「これ、幽香さんと一緒に飲もうと思ってたんだ」
「丁度良かった。私も、今夜は飲みたい気分だったの」

 静かな雨音の中、小傘と幽香は互いの杯に酒を注ぎ、ゆっくりと飲み干す。
とても良い夜である。上質な酒があって、旧知の友がいて、無言の空白を彩る雨の音が溢れている。そこでふと、顔を真っ赤にしながら、小傘は幽香に語りかけた。




「……私達は変わらないけど、世の中は変わったねぇ」
「ええ、そうね。昔じゃ考えられないくらい、平和になったわ」

「あれからどのくらい経ったっけ?」
「もう百年経った? いや、もっと? ……嘘、もうそんな経ったの?」

「ふふふ、時間が過ぎるのって早いよね」
「ついこの間の事だと思ってたのに、時間の流れって怖いわー」

「そういえば、幽香さんって最近何してんの?」
「相変わらずよ。向日葵の世話。あとね、最近は野菜とかも育ててんの」



 ……。



「へぇ、幽香さんも霊夢と戦ったんだね」
「ええ、人間のくせに強くてさ、生意気よね、霊夢って」

「霊夢は良い人だよう、この間だって、私の傘を拾ってきてくれてさ」
「まぁ、そうなんだけどさ」

「……変わってないとか言ってるけど、やっぱ何処か変わったよ、私達」
「そうかな……いや、確かにそうかもね」

「酒の席の思い出話って、なーんか気分が下がるよね」
「分かる。前向きな話がしたい。やっぱりさ、過去じゃなくて今なのよ」

「これからの話をしようよ。やりたい事とか、目標とか、夢とかさ」
「でも、夢ってのはちょっと違うかな。面映ゆくない? 何となくだけど」

「とりあえずさ、何か新しい事始めたいよね。新しい事、ずっと考えていたい」
「人里でベビーシッターとか始めるのは? アンタ絶対向いてるわよ」




 ……。




「イチヨちゃんが亡くなって、本当に長い時間が経ったね」
「うん……」

「ほんと、あっという間だよね。何もかもさ」
「……あの子のお墓にさ、凄く綺麗な向日葵が咲くのよ」

 まるで、本当の太陽みたいにさ。

「近いうちにお墓参りいくよ。その時にさ、また一緒に飲もうよ」
「ええ、そうね……っていうかアンタ、いつまでここで待ち続けるの?」

「……分かんないよ。けど、私にとって、これはきっと大切な事だからさ」
「ふーん……ま、頑張って」

「うへぇ、簡単に言ってくれるなぁ……心細いんだから、ちょっとは励ましてよ」
「何言ってんのよ。アンタなら何があっても続けるでしょ?」

「それは……まぁ、そうなんだけどさ」
「いや本当に。アンタってさ、アンタ自身が思ってる以上に凄いからね?」

「そ、そうかなぁ……えへへ、どうもどうも」
「うわー調子乗ってるよこの子」

「ねぇ、幽香さん」
「んー?」




「私、ちゃんと出来るかな?」
「アンタなら、絶対大丈夫。……って、あれ、お酒無くなっちゃった」





 ……。




「今夜は会えて良かったよ。またね、幽香さん」
「ええ……気が向いたらまた様子を見にくるわ」

「……幽香さん」
「ええ、小傘」



「私ね、あの時、本気で幽香さんの傘になりたいって思ったんだよ?」

「私もね、後悔してる。素直に、アンタの持ち主なってあげればよかったって」



「今からでも遅くないよー、お願いすれば、傘になってあげてもいーよー?」
「もー、簡単に言うんじゃないの。アンタにはまだ、やる事があるんでしょ?」



「……うん、今は、今はまだ、ただの忘れ傘のままで居たいんだ」
「……何度でも言うわ。アンタなら、絶対、大丈夫」




 雨は降り続ける。幽香は酒で頬を紅潮させながらバス停を出て行く。
空の酒瓶をリュックに戻し、小傘はじっと待ち人の訪れを待った。

永遠に続くかのような雨だが、この世に止まない雨など存在しない。
 
一陽来復、不幸は、いつか必ず終わる。いつか、必ず報われる。
 小傘と幽香は、それを誰よりも知っている。

 ふと、雨風が小傘の持つ傘をそっと揺らした。
 誰かが、無邪気に笑っているような感触だった。




 そう、あの子は――向日葵と、傘が好きなのだ。





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