豊聡耳神子
相も変わらず雨模様の中、小傘はバス停のベンチに座っていた。
今日は比較的に穏やかな雨であった。
ここまで来たらもうトコトン待ち続けてやろう。
珍しく気合を入れて待っていると、道の向こうから誰かがやって来るのが見えた。
目を細めてよく見ると、なかなかに派手な出で立ちをしている。
それに、遠くから見てもわかるほどの強烈なオーラを纏っていた。
まるで、ひれ伏したくなるほどの――。
彼女の名前は豊聡耳神子。
経緯は分からないが、最近幻想郷に住み着いた、小傘曰く、妙にえらそーな奴である。
「えらそーじゃなくて、ホントに偉いの」
神子は傘も差さず、静かにバス停へと足を踏み入れる。不思議な事に、その身は一切濡れていなかった。小傘とはこれが初対面の筈なのに、神子は何処までも気さくであった。
「あ、あなた……私の事を知ってるの?」
「知ってるというか、「知った」のよ、今、この場でね、多々良小傘君」
返答が何処までも歪である。これはもしやアレか?
天才は断片でしか会話をしないというヤツではないか?
「何か用があって来たの?」
「ええ、このバス停とやらに少し興味があってね」
神子はそういうと、ベンチに腰掛ける事なく、その横に静かに立てられている「時刻表」をまじまじと見つめた。
「……本来バス停というのは、その名の通り「バス」を待つ場所の筈なのに、これはとても奇妙ね。見たまえ小傘君」
神子に言われ、小傘はベンチから立ちあがり、その時刻表を見た。
「……これが、どうかしたの?」
小傘には神子の意図する物を汲み取る事が出来なかった。
小傘と神子では「物事を見通せる範囲」が違う。
神子は反省し、丁寧に指を差して説明する。
そもそも、初めから着目するべき事であった。ここはバス停である。
だと言うのに、時刻表には何も書かれていない。
「バスが来る時刻が、何処にも書いてないんだよ。これじゃあ、何を待っているのか分からないじゃないか」
幻想郷にとって、このバス停はただの「雨宿り」をする場所であった。
この地に乗り物の類は存在しない。故に、誰もその事実に気付かなかったのだ。
「本来、ここにはバスが停車する時刻が明記されている筈。それが書かれていないのにはきっと理由がある。数字の消失は、時間の忘却、もしくは経過に対する恐れを意味しているから、例えば……」
そこまで言って、神子はふと小傘の方を見つめ、何やらジッと考え込んだ。
「じゃあ、じゃあこの場所は、このバス停は、何のためにここに……?」
訪れる沈黙に、小傘は一種の不安のような物を覚える。
ひょっとして、自分は今まで、まるで無意味な事をしていたのではないか、と。しかし――。
「無意味、なんて事は無いだろう。そんな物、この世の何処にも在りはしない」
神子はふと優しく微笑んだ。
そして、ベンチに軽く腰掛けながら、そのままつらつらと言葉を続けた。
「この場所は、誰かの「願い」によって具現化された、一種の心象風景だ。そして小傘君、君がここにいるのは偶然ではない。恐らくだが、君も「この風景の一部」なんだよ。これが何を意味しているか分かるかい?」
小傘は心細そうな表情で首を振った。
「私の耳は、人の願いを聴き分ける力を持っている。ここにいると、何者かの願いが聴こえるんだよ。女性の声だ。その人は、頻りにこう言っている――」
『私は、あなたを待っている』
「まさか……」
小傘は、目を見開きながら神子を見つめた。
神子は重く頷き、徐に小傘の持つ傘に向かって耳を傾けた。
「聴こえる……『二つの声』が、二つの願いが、この場所で共鳴している。小傘君、このバス停と同じく、君にも誰かの願いが宿っている。これは、男性の声だ」
『私は、君を想う』
その瞬間、小傘は以前、永遠亭への道中にある吊り橋での事を思い出した。
これまで封印してきた、本当の自分の記憶である。
持ち主と、その恋人である女性の事を思い出す。
雨の日の夜、病弱であった女性の容態が悪化したという知らせを聞き、小傘の持ち主は家を飛び出した。その後、持ち主は事故に遭い、命を落としてしまった――。
二人は最後、顔を合わす事なく、この世から去ってしまったのである。
忘れ去られたバス停と、一本の忘れ傘。
雨の中、誰かを待ち続ける存在が、ここに二つ。
これは、まるで――。
・・・
「それでは、そろそろお暇するとしよう」
用は済んだのか、神子はベンチからゆっくりと立ち上がる。
しかし、隣に座る小傘の表情は冴えない物であった。
「神子、さん。私、どうすればいいの? 何をするのが正解なの?」
神子にこのバス停の真の正体を聞かされ、戸惑い続ける小傘。
しかし、神子は何処か気楽そうな表情で応えた。
「君は、これまで通り、『君のまま』でいたらそれで良い。安心しなさい。異変の解決はもう目前だ」
だが、神子の何処までも達観したような答えに、小傘は被りを振った。
「分かんない……分かんないようっ。もしかしたら、このままだと、取り返しのつかない事になってしまうかもしれない! そしたら、私は……私は……」
しかし神子は冷静に、諭すように言う。
「君は、自分の事を少し過小評価し過ぎだ。今までずっと、どんな日であろうと、懸命にここで待ち続けてきたんだろう? 一体、何が君をそこまでさせた? 確証のない鼓舞はあまり好きじゃないんだが、あえて、あえて言わせてくれ」
君ならきっと大丈夫なのである。
豊聡耳神子は真っすぐに言い放った。
「その在り方を見損なわずにいれば、きっと、君の望む答えが見つかるはずだ」
雨の中、神子は凛とした佇まいでバス停から出て行ってしまう。
しかし、取り残された小傘は、何処か怯えたような表情をしていた。
「どうしよう……、どうしよう……」
彼女が動揺するのも無理はない。
この異変を起こした犯人は、多々良小傘のよく知る人物だ――。