巻之壱 神託
◆◆◆
最近、射命丸文が、毎日のように博麗神社まで来てくれる。
それは博麗霊夢にとって、本当だったらすごく嬉しいことのはずだった。
それまで、長いこと会いに来てくれなかったから、なおさら。
怒りたいことも、話したいことも、宝物のようにたっくさん取っておいて。彼女に鬱憤としてぶつけてやる時が来るのを、ずっと待っていたのだ。
「……だから何度も言っているけど、」
けれど、楽しみにしていたはずの文の訪問を、今は素直に喜ぶことが出来ない。だって、
「聖域の異変は頑張って解決したの!」
文が此処に来てくれるのは「異変」のせいだって、霊夢は気付いてしまったから。
「確かに手帖には異変は霊夢の手によって解決?と書かれています。しかし……そもそも何が起きていたのか判らないのですが」
手帖を構える文は、決して「真実」を見逃さぬとばかりに、鋭い眼差しをこちらに向けている。真面目を画に描いたような、整った顔。それが、新聞に向き合う文の本当の表情であることを、霊夢は知っている。
「私が調べても何故かすぐに忘れてしまうのです」
「その厄介な情報の操作が異変の本体だったのよ」
けれど、そんな文を見るのが、今の霊夢にとって辛い。
「あんたら妖怪はみんな忘れて、安定した日常のままのほほんと暮しやがって!」
違う。違う。こんなこと、言いたい筈じゃないのに。
猛禽の爪に抉られたような痛みが全身を駆け抜けて、霊夢は文から目を背けてしまった。
「毎日同じこと繰り返して、まるで時間が止まったみたいだったのよ」
「俄には信じがたいですが……その原因が聖域にあったと」
気のせいだろうか。文の声音も、ほんのりと掠れているように聞こえる。今、文がどんな顔をしているのだろうか…そう考え始めると、自己嫌悪が膿となって霊夢を蝕んでいく。
「その話が本当だとすると、何故貴方は忘れなかったのです?」
「……んー…何でだろね」
何か。何とか、アイツのことを励まさなきゃ。痛みに耐えるように笑顔を作りながら、ふらふらと文の方へ振り返る。
「頭が良いから?」
「――………はぁ…」
けれど、精一杯にひねり出した上段に対して、文は呆れを露に、ため息を吐くだけだった。
「と言うか私も何が起きたのか良く判ってないし、他の妖怪に聞いてみたら?」
「判りました」
文花帖を閉じた文は、翼を大きく広げると、そのまま飛び立つ体勢に入る。
「ご協力くださり、ありがとうございました。それでは、私はこれにて――」
翠に揺らめいた玄翼が振るわれて、次なる目的地に向けて文は雄々しく羽ばたきだす。
先程まで傍に居た鴉天狗の背中は、みるみるうちに線へ点へと小さくなって、たえだえに漂う白雲にかき消されてしまう。
一枚の風切羽が、ひらり、清められた参道に落ちる。静寂に満ちた境内で、唯一それが、文が此処に来たことの証になったのだった。
「はぁ…」
緊張の解けた身体に疲労が急激に雪崩れ込んで来て、霊夢はその場にうずくまる。
「いつまで、こんなことが続くんだろ…」
ぽつり、こぼれ出た霊夢の問いに答えられる者は、幻想郷(ここ)には居なかった。
一つの異変が、聖域を起点に起こっていた。
それは、月の都や外の世界とも密接にかかわる大規模なもので、幻想郷に暮らすほとんどの妖怪や人間の記憶に影響をもたらした。
全てが忘れられる、時間が止まったような空間で、同じ「日常」の繰り返し。その日に起きたことも、見聞きしたことも全て記憶からかき消され、また変化のない一日が始まる。
その性質故に、ほとんどの住民が事態に気付くことさえ出来ずにいた中で、どういう訳か博麗霊夢は異変の影響を受けていなかった。「忘れなかった」ために異変の存在に気付けた彼女は、同じく影響から逃れた霧雨魔理沙と聖域まで乗り込み、見事、不変の女神にまで辿り着くことが出来た。
確かに、霊夢たちの活躍で異変は「解決」した。原因たる忘却も解かれることが約束され、今度こそ、幻想郷には変化のある毎日が戻って来るはずだった。
『こんにちは、霊夢さん』
……はずだった、のに。
『聖域で起きた異変について、お話を伺いたいのですが――』
まるで、レコードを繰り返し再生させているみたいに、文は一昨日も昨日も……そして今日も、同じことを問いかけて来た。それは、異変を「解決」させた今も、射命丸文は、毎日の記憶を忘れ続けていることを、意味していた。
「……」
判っている。今回発生していたのは、幻想郷にさえ留まらない、複雑な異変だった。そんな異変が、元凶を「退治」したからといって、即座に霧消する訳がない。重い傷を負った人間が、心身をゆっくりと癒すことを求められるみたいに、時間をかけて解消させなければならないのだろう。
だから、待っているだけで良い。慌てることはない。もう何日もすれば、アイツも異変の影響から解放されて、またいつもみたいに、追いかけっこする日々が始まるはず。
――そう、判っているのに。
「怖い…」
こぼれ出た感情が言霊となって、寒気を誘発する。一度よぎった恐怖は発作となって、霊夢の心をぎりぎりと締め付けていく。
……こわい。
こわい。こわい。
もしも、文の忘却が治らなかったらどうしよう――そんな最悪の可能性に、震え続ける。
何とかしてあげたい。文を解放してあげたい。なのに。
もう、自分には待つことしか出来ない。
「あぁ、駄目駄目!もうっ」
未だ雲が慌ただしく揺蕩(たゆた)う空を険しく睨みつけ、霊夢はふらふらと立ち上がる。
こうしている間だって、皆は頑張ってくれているのだ。少なくとも、あの祭壇(ピラミッド)で出会った不変の女神は、決して約束を違えるような奴じゃなかった。今、自分が信じてあげなくて、一体どうするのだ。
大丈夫。アイツもきっと、大丈夫だから――
「…どこか、気晴らしにでも行きましょ」
朦朧に霞む白雲から視線を逸らしながら、霊夢は外出の準備を始めるのだった。
◆◆◆
最近、射命丸文が、毎日のように博麗神社まで来てくれる。
それは博麗霊夢にとって、本当だったらすごく嬉しいことのはずだった。
それまで、長いこと会いに来てくれなかったから、なおさら。
怒りたいことも、話したいことも、宝物のようにたっくさん取っておいて。彼女に鬱憤としてぶつけてやる時が来るのを、ずっと待っていたのだ。
「……だから何度も言っているけど、」
けれど、楽しみにしていたはずの文の訪問を、今は素直に喜ぶことが出来ない。だって、
「聖域の異変は頑張って解決したの!」
文が此処に来てくれるのは「異変」のせいだって、霊夢は気付いてしまったから。
「確かに手帖には異変は霊夢の手によって解決?と書かれています。しかし……そもそも何が起きていたのか判らないのですが」
手帖を構える文は、決して「真実」を見逃さぬとばかりに、鋭い眼差しをこちらに向けている。真面目を画に描いたような、整った顔。それが、新聞に向き合う文の本当の表情であることを、霊夢は知っている。
「私が調べても何故かすぐに忘れてしまうのです」
「その厄介な情報の操作が異変の本体だったのよ」
けれど、そんな文を見るのが、今の霊夢にとって辛い。
「あんたら妖怪はみんな忘れて、安定した日常のままのほほんと暮しやがって!」
違う。違う。こんなこと、言いたい筈じゃないのに。
猛禽の爪に抉られたような痛みが全身を駆け抜けて、霊夢は文から目を背けてしまった。
「毎日同じこと繰り返して、まるで時間が止まったみたいだったのよ」
「俄には信じがたいですが……その原因が聖域にあったと」
気のせいだろうか。文の声音も、ほんのりと掠れているように聞こえる。今、文がどんな顔をしているのだろうか…そう考え始めると、自己嫌悪が膿となって霊夢を蝕んでいく。
「その話が本当だとすると、何故貴方は忘れなかったのです?」
「……んー…何でだろね」
何か。何とか、アイツのことを励まさなきゃ。痛みに耐えるように笑顔を作りながら、ふらふらと文の方へ振り返る。
「頭が良いから?」
「――………はぁ…」
けれど、精一杯にひねり出した上段に対して、文は呆れを露に、ため息を吐くだけだった。
「と言うか私も何が起きたのか良く判ってないし、他の妖怪に聞いてみたら?」
「判りました」
文花帖を閉じた文は、翼を大きく広げると、そのまま飛び立つ体勢に入る。
「ご協力くださり、ありがとうございました。それでは、私はこれにて――」
翠に揺らめいた玄翼が振るわれて、次なる目的地に向けて文は雄々しく羽ばたきだす。
先程まで傍に居た鴉天狗の背中は、みるみるうちに線へ点へと小さくなって、たえだえに漂う白雲にかき消されてしまう。
一枚の風切羽が、ひらり、清められた参道に落ちる。静寂に満ちた境内で、唯一それが、文が此処に来たことの証になったのだった。
「はぁ…」
緊張の解けた身体に疲労が急激に雪崩れ込んで来て、霊夢はその場にうずくまる。
「いつまで、こんなことが続くんだろ…」
ぽつり、こぼれ出た霊夢の問いに答えられる者は、幻想郷(ここ)には居なかった。
一つの異変が、聖域を起点に起こっていた。
それは、月の都や外の世界とも密接にかかわる大規模なもので、幻想郷に暮らすほとんどの妖怪や人間の記憶に影響をもたらした。
全てが忘れられる、時間が止まったような空間で、同じ「日常」の繰り返し。その日に起きたことも、見聞きしたことも全て記憶からかき消され、また変化のない一日が始まる。
その性質故に、ほとんどの住民が事態に気付くことさえ出来ずにいた中で、どういう訳か博麗霊夢は異変の影響を受けていなかった。「忘れなかった」ために異変の存在に気付けた彼女は、同じく影響から逃れた霧雨魔理沙と聖域まで乗り込み、見事、不変の女神にまで辿り着くことが出来た。
確かに、霊夢たちの活躍で異変は「解決」した。原因たる忘却も解かれることが約束され、今度こそ、幻想郷には変化のある毎日が戻って来るはずだった。
『こんにちは、霊夢さん』
……はずだった、のに。
『聖域で起きた異変について、お話を伺いたいのですが――』
まるで、レコードを繰り返し再生させているみたいに、文は一昨日も昨日も……そして今日も、同じことを問いかけて来た。それは、異変を「解決」させた今も、射命丸文は、毎日の記憶を忘れ続けていることを、意味していた。
「……」
判っている。今回発生していたのは、幻想郷にさえ留まらない、複雑な異変だった。そんな異変が、元凶を「退治」したからといって、即座に霧消する訳がない。重い傷を負った人間が、心身をゆっくりと癒すことを求められるみたいに、時間をかけて解消させなければならないのだろう。
だから、待っているだけで良い。慌てることはない。もう何日もすれば、アイツも異変の影響から解放されて、またいつもみたいに、追いかけっこする日々が始まるはず。
――そう、判っているのに。
「怖い…」
こぼれ出た感情が言霊となって、寒気を誘発する。一度よぎった恐怖は発作となって、霊夢の心をぎりぎりと締め付けていく。
……こわい。
こわい。こわい。
もしも、文の忘却が治らなかったらどうしよう――そんな最悪の可能性に、震え続ける。
何とかしてあげたい。文を解放してあげたい。なのに。
もう、自分には待つことしか出来ない。
「あぁ、駄目駄目!もうっ」
未だ雲が慌ただしく揺蕩(たゆた)う空を険しく睨みつけ、霊夢はふらふらと立ち上がる。
こうしている間だって、皆は頑張ってくれているのだ。少なくとも、あの祭壇(ピラミッド)で出会った不変の女神は、決して約束を違えるような奴じゃなかった。今、自分が信じてあげなくて、一体どうするのだ。
大丈夫。アイツもきっと、大丈夫だから――
「…どこか、気晴らしにでも行きましょ」
朦朧に霞む白雲から視線を逸らしながら、霊夢は外出の準備を始めるのだった。