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飲む者の居なくなった珈琲を片付けるため、典は暗い廊下をひたひたと歩く。
高山の頂近くに建つ屋敷はこの季節でも肌寒くて、典はふるり、尻尾を膨らませる。
厨房まで辿り着き、ふと視線を下げると、珈琲に映る自分の顔と目が合う。すっかりと冷めてしまった焦茶色は、まるで今の自分を表しているようで、そのまま乱暴に流しへと捨てる。
荒い吐息。頬から滴る汗。落ち着かせようと目を閉じれば、先程去ったはずの鴉天狗が、残像となって頻りに彼女の瞼に映し出されるのだった。
「あぁ、典よ」
主人の書斎まで戻ると、飯綱丸は既に作業を再開させていた。鴉の羽根で出来た筆で星図に書き込みを続けながら、ご機嫌な様子で典に話しかける。
「ここしばらくの『日記』は、まとめ終えているか?」
「はい。異変が始まったと見られる日から本日まで、全て」
「よろしい。では早速、文の手帖と照合しよう。ここに持って来てくれ」
「かしこまりました」
典は本棚から一冊の手帖を取り出すと、飯綱丸のもとまで持参する。自分たちの動向を細かく「書き残した」記録に飯綱丸は満足げに頷くと、文花帖を横に並べてぱらぱらとめくり始める。手帖を読む深緋の瞳にはやはり熱がこもっているように感じられて、典は小さく拳を握る。
「……飯綱丸様。一つ、お聞きしても良いでしょうか」
「構わぬ。申してみよ」
意を決して、典は問いかけることにする。
たとえ飯綱丸様にとって射命丸文がどのような存在だったとしても、今の「右腕」は菅牧典なのだ。堂々とその「真実」に胸を張って、誇りを持てば良い――けれどやはり菅牧典は、甘えることを許さない。自分になくて射命丸文にあるものは何なのか、求めずにはいられない。
これからも、飯綱丸様(このおかた)にとっての「白狐」であり続けるために。
「最後に射命丸殿にかけられた問いですが…あれは、どういう意味でございましょう」
『お前は、後悔しているかい?』
真剣な眼差しを浴びた飯綱丸は嬉しそうに微笑むと、開いていた文花帖をそっと典に差し出す。
「では、典よ。射命丸の記録を読んで、お前は何を考える?」
文花帖を受け取った典は、一文字さえも見逃すまいとページをめくり始める。安易に回答を出すことなく、質問で返すことでこちらでも考えるよう促すのは、飯綱丸の常套手段だ。初めは意地悪だと口を尖らせることもあったその振る舞いも、しかし今の典にとっては、この上なくありがたい配慮だった。
「……良く、書かれていると存じます」
しばらく読み進めた典は、言葉を組み立てるように唸る。
「過日の記憶を忘れてしまう異変にあって、些細な事柄まで余すことなく記している…真相を曝こうという強い執念が、伝わってきます」
「そうだな」
自らの動向や取材だけでない。聖域近くで目撃した知人たちの些細な言動も写真やメモとして記録に残し、対象の出来事について忘れているかどうかまで確かめている。そうして膨大に積み上げて来た情報を踏まえ、異変の影響や範囲について、時期ごとに分けてまとめている。
「自らの翼で根気良く取材を続けた故に、誰も認識出来ずにいた『異変』の発生に気付き、たった一羽で今日まで立ち向かってきた。この記録は、単純な情報だけでない、射命丸の長き『戦い』が刻まれていると言って良いだろう」
「忘れている」ことを示す膨大な数のチェックマークから、消えてしまった射命丸文の時間に想いを馳せる。「戦い」という飯綱丸の言葉が、現実的な重みをもって典の身体に染みこんでいく。
「これを読んで『何も出来ていない』と批判する者が居たら――私はその者の顔面を、鷲掴みにしてしまうかもしれぬな?」
冗談めかした飯綱丸の発言は、しかし悪寒となって典を震え上がらせる。妖の色にめらめらと燃え立った瞳には、異変の存在を聞かれない天狗たちが、文に関して謂われない中傷を続ける光景が、きっと既に映し出されていて。……このような眼が典のために向けられることは、きっとないのだろう。
「…しかし、飯綱丸様。射命丸殿の返答は、決して謙遜しているようには聞こえませんでした」
「良く見ている。その通りだ」
「あの者は、何故…」
『――なにも、できなかった』
あの返答は、間違いなく射命丸文の本音だった。だからこそ、典には分からなかった。
飯綱丸から最上級の賛辞をいただける程、緻密な記録を書いた。異変の本質ともいえるところまで、後一歩まで迫っていた。
なのに「何も出来なかった」とは、どういうことだろう?
「そうだな…敢えて言語化するならば、」
難しい顔で考え込む典の頭を、飯綱丸は梳かすように撫で始める。
「文は確かに『何も出来なかった』のだよ」
――必ず、典にも分かる時が来るよ。
そう確信するような優しい手つきに、典は何故か、安堵よりも寂しさを覚えていた。