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「妖怪の山」の頂近く、人間どころか神妖さえも登攀(とうはん)を躊躇うような雲上の斜面に、大天狗、飯綱丸龍の屋敷は構えられている。
一年を通して八方からの颶風(ぐふう)に翻弄され、冬には文字通り空気さえも凍りつくこの地を飯綱丸が選んだのは、此処が最も星空の観測に適した地であることが大きかった。大気の壁さえも挟まらない、ありのままの星影と向き合うことの出来るこの地で、飯綱丸は欠かさず星空を仰ぎ、星々(かれら)と対話しているのである。
星は、様々なことを教えてくれる。天に生きる彼らは、現在地上で何が起きているか、全て見通すことが出来る。天上から照らし出したあらゆる見識をつなぎ合わせ、これからどのような出来事が起こるか、読み取ることが出来る。そして、星空には「言語」がある。あらゆる天文現象を文字として空に綴り、全能たるその「予言」を、我々に指し示してくれるのだ。
だからこそ、彼女は星々(かれら)を「支配」する。満天の料紙に敷き詰められた白色の文字を読み取って、指し示す現在を見通し、未来を「操る」。五百年以上も前、洛中を雲雀の鳴く焦土に帰した戦乱を、雷鳴轟く流星から「予言」してみせたように。その営みこそ天狗にとっての原点であり使命でもあろう、と飯綱丸は考えていた。
「…おや」
その日も、飯綱丸は自らの部屋で、星々との対話を書きつけていた。時間ごとの星宿の配置を網羅した星図一枚一枚に、惑星の軌道や流星の方角、その他あらゆる天文現象の出現を記録し、星々(かれら)の報告を再現して――ふと、黒羽の筆を動かす手を止める。
「これは……?」
深緋の瞳が、興味深そうに見開かれる。彼女が目を止めたのは、夜半に至る前に流れ落ちた、一筋の流星。通例の流星群から外れたその星は、けれど昨晩観測された流星よりも、強い輝きを放ち、長い軌道を辿っている。
気になる。この流星は、何を語りかけている?
現在も続いている例の異変に関係したものか、あるいは……
「――あぁ…」
なるほど、そういうことか。
流星の軌道をつぅ、となぞりながら、飯綱丸は深緋の瞳を綻ばせる。起点となっている方角に重なっているのは、幻想郷の――そして、とある天狗にとって要ともいえる、朱塗りの神社。
それは、この神社に住まう巫女が、強い願いを星に託したことの証左。彼の少女が、いかなる「願い」をこめたのだろう、と考えると、たまらなくいじらしくて、温かい気持ちになる。
さてはて、この願い、どのように叶えてみせようか――悪戯を楽しむ子供のようにくつくつと笑っていると、部屋の戸を叩く音が聞こえて来た。
「飯綱丸様」
蜜を垂らしたような甘ったるい声。僅かに時間を取って叩かれるリズム。それは側近である管狐――菅牧典が帰って来たことを意味していた。
「射命丸殿を連れて参りました」
――来たか。
待ち望んでいた客の訪れに、飯綱丸は緩めていた口端を、さらに大きく歪ませる。
「ありがとう。ここに通しなさい」
「かしこまりました」
返事と共に、重い音を立てて戸が開かれる。典の後ろから姿を現した一羽の鴉天狗に――射命丸文は、飯綱丸の姿を認めるなり、夕陽色の瞳を険しく輝かせている。警戒、畏怖、覚悟、いずれにも通っているようで異なる複雑な眼差しは、吹雪に垣間見た「あの時」と比べ、さらに強烈で洗練されていた。
「射命丸文。参りましてございます」
飯綱丸の前まで通された文は跪くと、良く通る声で名乗りを上げる。
「そう畏まらなくて良い。顔をあげなさい」
「はっ」
文が再びこちらを見上げたのを確認すると、飯綱丸は文のすぐ前まで歩み寄って、身体を屈ませる。ちょうど文と視線を合わせる形で向き合うと、若鳥を見つめる親のように微笑んでみせる。
「久しいな、文よ。息災にしていたか?」
「はい。飯綱丸様におかれましては、日頃より多大なご高配を賜り、厚く御礼申し上げます」
あくまで硬い表情を崩さない文の肩をぽんぽんと叩きつつ、飯綱丸は満足げに頷いてみせる。
「ちょうど良い豆が手に入ったのだ。珈琲でも飲みながら話をしよう」
「…はっ」
飯綱丸に促されるまま、文は来客用の卓に、彼女と向かい合うように座る。程なく、香ばしい湯気が辺りに立ちこめて、黒々と渦巻く珈琲が、典の手から配膳される。ミルクも砂糖も机上には置かれていないが、二人とも気にする様子もなくカップに口を近付ける――お互いに、珈琲はブラックで飲むのを好んでいた。
「さて。お前を呼び出したのは他でもない。最近、気になる話を耳にしたものでな」
焙煎された香りを顔いっぱいに楽しむように微笑みながら、飯綱丸は本題に入る。お茶菓子の希望を問うような穏やかな声音ながら、深緋の瞳は真っ直ぐに文を見つめている。
「お前が聖域付近で、何やら取材を続けているらしいとの噂だ。……それは真(まこと)か?」
想像していた通りの問いに、文は夕陽色の瞳を強張らせる。
文花帖に書きつけた情報を見る限り、文は相当の期間、聖域まで取材に通っていたはずだ。異変の影響を考慮したとしても、飯綱丸であれば必ずこちらの動向を握って来るだろうと「確信」していた。
「はい。間違いございません」
そしてその時、文は事実をありのままに語ると、あらかじめ「決めていた」のだった。
はっきりとした文の答えに飯綱丸は頷くと、純粋な好奇心を表情として映し出す。
「一体、何を取材していたのだ?聞かせておくれ」
「かしこまりました」
世間話を綿として包み込んだ「命令」に、文は準備していた「原稿」通り、飯綱丸へ報告を始める。
聖域を起点に、何か不可思議な異変が発生していること。聖域の住民の中にも避難を余儀なくされた者が存在していたこと。その異変は、何らかの原因による情報の「操作」が本質であり、自分も聖域について取材したことを全て「忘れてしまっている」こと……
「……なるほど。事情は把握した」
相手によっては荒唐無稽と一蹴されかねない文の報告を、飯綱丸は真摯に聞き終える。
「しかし、我々天狗は聖域に入ることが規則で禁じられている。それは判っているな?」
「はい」
――来た。
肩甲骨の辺りに緊張が走るのを感じつつ、文は頷いてみせる。
「たとえ内部に入っていないとして、その境界付近を取材するだけでも、規則違反の意志を疑われかねない、極めて危険な行為だ。お前はそれを承知の上で、通い続けていたのだな?」
「はい。その通りでございます」
「……そうか。良く、分かった」
ふぅ、と大きく息を吐いて、飯綱丸は思案に暮れる。怒りを滾らせた典の視線をじりじりと背中に感じながら、文は飯綱丸からの「命令」を静かに待つ。
飯綱丸が確認した通り、どのような事情があれ、今回の文の取材は、天狗社会の規範に抵触しかねない、危険な行動だ。保守的な天狗達から糾弾されるのは勿論、山姥を初めとする聖域の住民から抗議が来ることだって考えられる。天狗内部だけでなく、外交問題に発展する懸念さえあるのだ。
しかも先程、文はその危険を承知で取材を続けていたことを、飯綱丸に明かした。これは「射命丸文は取材のためなら禁を破りかねない」と認識させるには十分過ぎる情報だった。
ならば、飯綱丸龍は大天狗として、文に罰を下すしかない。
天狗社会の秩序を護るため、聖域の住民に天狗としての意志を伝えるため、今回の異変について取材を止めろと命令しなければならない。それこそが射命丸文の狙いだった。
…これで、良い。追加で罰則がつけられるかもしれないが、この際些細なことだ。
飯綱丸様の「命令」をもって、今度こそ。
私は今度こそ、この取材を「諦めることが出来る」――
「ならば、文が心置きなく聖域に入れるように、私から働きかけてあげよう」
「…………は?????」
だからこそ、次に聞こえた飯綱丸からの提案に、文は呆けた返事しか出来なかった。
背後では、先程まで文を睨んでいた典が、同じようにその場で固まってしまっている。それが当たり前の反応だろう。
だって、今。この大天狗は一体、何と言った?
天狗社会を乱しかねない言動をした文を許すどころか。自らもそれを援助すると?
「聖域の住民たちが避難しているらしい話は、私も聞いていたのだがな。お前の報告を受けて、ようやく合点がいった――なるほど、極めて重大な異変が聖域で発生したと、認めて良いだろう」
未だ呆然としたままの文たちを他所に、飯綱丸はまた一口、美味しそうに珈琲を嗜む。
「そして、この異変は聖域だけではない。天狗社会――いや、幻想郷全体に波及し得る緊急の問題だ。であれば、速やかに捜査を進め危険を啓蒙するのが『報道機関』である天狗(われわれ)の責務であろう?」
聞き分けのない子供を諭すような、穏やかながら強い声音が、文の背中に悪寒を走らせる。今にも翼が飛び出てしまいそうな震えを前にして、文はようやく、己の過ちを悟る。
「幻想郷の危機が間近に迫っている――そのような時に、決まりごとに座して滅びを待つのは『正しい』と、お前は考えているのか?」
楽しそうに試してくる深緋の瞳に、射命丸文はぎゅっと唇を噛む。
肯定出来ない。出来る訳がない。ここで「正しい」と頷けるのならば、文は初めから、この異変の取材などしていない。
……どうして自分は、こんな簡単な事実を忘れていたのだろう。
飯綱丸龍という大天狗が、この程度の浅知恵、見抜けないはずがない――否。それさえも、きっと正確ではない。
「文が聖域で取材していた」事実を把握した時点で「射命丸文がどのように動くか」など、彼女は全て判っていたのだ。
「――!お待ちくださいませ、飯綱丸様ッ!」
やっとのことで我に返った典が、大慌てで飯綱丸を諫めようと身を乗り出す。
「それは『口実』があれば天狗が聖域に入っても良い『前例』を作る、ということでございます。軽々に判断すれば、後に思わぬ禍根を残してしまうことになりましょう。たとえ射命丸殿であろうと、そのような権限を安易に与えてはなりませぬ!!!」
三日月色の瞳に文への敵意を漲らせた典の咆哮は、しかし今の文にとっては、この上ない助け舟でもある。けれど飯綱丸は、うんうんと心底嬉しそうに頷くと、可愛い眷属に穏やかな笑みを向けて。
「そこを最善の方向へ導くのが、大天狗(わたし)の役目であろう?」
――あぁ。本当に飯綱丸様(このおかた)は、なんと頼もしいのだろう。
「典の言う通り、此度の件、極めて難しい舵取りが求められる。天狗内部に聖域の住民、果ては幻想郷全ての勢力と対話し、誰にも禍根を残さぬ落としどころを見つけねばならぬだろう――だからこそ、文よ。『お前は何も考えなくて良い』などという無責任な放言は、私はせぬ」
まるで背中に後光が差し込んでいるような神々しさに、文は恍惚と見とれてしまう。
「疑問があるのならば、全て聞くが良い。懸念が残っているのならば、全て話すが良い。文(おまえ)の前に立ち塞がる『壁』、私が塵も残さず祓ってみせよう」
力強い言葉に抱きしめられ、目頭がじわじわと熱を持ち出す。差し出された手を取って、このまま全て身を任せてしまいたい衝動が膨らみ続ける。
「……さぁ。どうする?文よ」
猛禽の瞳が、文の全身を捉える。慈愛の笑みからこぼれ出る獣の八重歯に、全ての策が断ち切られたことを文は悟る。
「お前は、聖域での取材を『望む』か?」
答えよ、射命丸文。
もっともらしい「枷」に甘えるなど、この飯綱丸龍(わたし)が許さぬ。
射命丸文(おまえ)の願いだけを伝えよ。射命丸文(おまえ)の声だけを聞かせよ。
たとえそれが、どれほど拙く醜い叫びだったとしても構わぬ。
この飯綱丸龍(わたし)が、全て叶えてやる――
「………わ…」
湯気をあげた頬を、一筋の汗が伝う。喉は既にからからに干上がっていて、声が満足に出て来ない。
「わたし…は……」
過熱した頭を強引に働かせ、文は思考を巡らせる。正面では、深緋の眼を光らせた飯綱丸が、決して急かす様子もなく文の返事を待ち続けている。
「天狗の規則に反する」という「枷」からは、完全に放たれた。今度こそ、本当に文の選択次第だ。
飯綱丸であれば、誰の秩序も侵さぬように導いてくれる。その確信が、文にはある。
だとしたら、文に断る選択肢などないはずだ。掌からすり抜けていた「真実」を今度こそ明らかにし、異変を引き起こした者の喉元まで迫る。今までの「射命丸文」が抱いて来た願いを叶える、絶好の機会であると言えよう。
たった一度、ここで頷くだけで…
……
…けれど。
「これ以上の聖域での取材は、無用であるものと考えます」
「……ほう?」
緊張に固まった、けれど明瞭な文の返事に、飯綱丸は興味深そうに口端を綻ばせる。
「何故、そのように考える?」
再びの問いに、文は静かに目を閉じる。暴走する言語に手を伸ばし、あらゆる自問と葛藤を掻き分けた末、瞼の裏に映ったのは――やはり、自分が最も愛する巫女の顔だった。
「霊夢によって、異変は既に『解決』されているからでございます」
「博麗の巫女が?」
「はい。異変に伴う影響をいち早く把握した賢者たちが、回避する手段を霊夢に授けたとのこと」
文は手持ちの鞄から、一冊の文花帖を取り出す。それは、過去の「射命丸文」が、聖域の異変を突き止めるために、あらゆる場所へ飛び回った軌跡が刻まれた手帖。今や「化石」のように埋もれ隔てられた記述を今再び拾い上げ、文は失われた時間を補完する。
「推測ですが、私が聖域で撮影した写真――こちらに映る祭壇(ピラミッド)が異変の本丸であると考えます」
夕闇を背景に聳える祭壇(ピラミッド)の写真を、飯綱丸に差し出す。蜃気楼の如く陽炎(かげろ)う、現実のものとは思えない建物を、しかし飯綱丸も、真剣に見つめる。
「そして、異変の存在に気付いた霊夢が此処まで乗り込み――首謀者を、倒したものと」
忘れていた古傷が疼くような痛みを、文は真っ直ぐに噛みしめる。
『異変は霊夢の手で解決された』
『情報の操作で皆が忘れるが、霊夢だけは忘れなかった』
『異変の存在に気付いた賢者たちが、影響を避ける手段を、霊夢に施した』
これらは全て、ある日の「射命丸文」が、文花帖に記録していた情報だ。霊夢だけが「忘れなかった」結果、異変が起こっていることに気付き、解決させることが出来た、と書かれている。
では――異変が解決されるまでの間、霊夢は何を感じていたのだろうか?
どんなに面白い話を聞かせても、明日には皆忘れてしまう。どんなに楽しい想い出を共有しても、明日には握っていた手が消えて、取り残されてしまう。
まだ十数年しか生きていないような人間には、あまりに過酷な試練だ。まして、博麗霊夢という巫女は、幻想郷に住む皆から愛される存在なのだ。たくさんの「友達」との温もりに支えられて、博麗霊夢は生きていた――それが、こんな。
どれほど、心細かったことだろう。
「現在、私が忘れているのは聖域に関わる記憶のみ。人里を初めとする地へ飛んだ時のことは、問題なく記憶しております。霊夢が異変を解決した事実を踏まえると、おそらく首謀者にて異変の後処理をしている最中なのではないかと考えます」
「つまり、この異変はむしろ、終息の段階にある……聖域の他への影響は、消えた後というのだな?」
「はい。程なく、聖域に残された影響も薄れていくことでしょう」
ただし、それが何時になるかは分からない。結局、「真実」をつかむために聖域に飛び込むことは、自らの記憶が消される危険を背負うことになる。
「真実」を取材するためには、霊夢からの話は聞かなければならない。たとえ過去の「射命丸文」が何度書き残していたとしても――現在(いま)の射命丸文の耳で直接聞いて、書かれている通りの真相か、確かめずにはいられない。けれどそれは、過去を忘れてしまった自分を霊夢に見せつける、最悪の所業でもあった。
せっかく、元通りの「日常」を、その手につかんだ後なのに。もう辛い思いをしなくても良いんだって、安堵していたはずなのに。
自分は、あと何度、博麗霊夢(あのこ)を苦しめれば良いのだろう?
「また、ほとんどの住人は、この異変について認知さえしておりません。自分たちは変わらぬ日常を送り続けていたと、皆信じております」
それならば。「真実」を曝こうとする営みこそが、彼女を傷つけてしまうというのなら。
「異変が解決し、名実ともに元の『日常』が戻りつつある今……敢えて此度の『真実』を報道することに、何の意味がありましょうか?」
射命丸文(わたし)は、この取材を諦めることを選ぼう。
「……」
一連の発言を聞いていた菅牧典は、その場に唖然と立ち尽くしていた。
射命丸文という天狗は「真実」に執念を燃やしていたはずだ。他者へいかなる迷惑を与えるかなど考えもせず「真実」を曝き、それを報道することが使命だと、頑固に主張していたはずだ。
だからこそ。典には理解出来ない。元々、天狗の規則を破ろうとしてまで、異変の解明を試みていたはずなのに。文にとって、今回の申し出は、願ってもない「施し」であるはずなのに。
――この短い時間で、一体何が、射命丸文の考えを変えさせたのだ?
「ふ…ふふふ……」
三角に立った狐耳が、主人の声を聞き取る。抱えきれなかった喜びが溢れ出ているのが伝わる声音に、典はハッと目を見開かせる。
「あっはははははっ!!!!!!」
自分は今まで、こんなにご機嫌に笑う飯綱丸様を見たことがあっただろうか――ささやかな疑問が頭に浮かび上がって、典は反射的に耳を絞らせた。
「良くぞ申した!お前の決断は、幻想郷の報道を司る天狗として、最善の判断である」
「もったいないお言葉でございます」
文は驚き一つ顔に出さぬまま、事務的に一礼する。まるで飯綱丸がどう反応するのか「判っていた」ような文の態度に、典はどす黒い感情が湧き上がるのを強引に押し込める。
この瞬間、此処は「飯綱丸と文だけの空間」になったことを、典は本能で悟ってしまったのだ。
「それでは大天狗として、改めて命令しよう――『射命丸文よ。聖域の取材から、今すぐに手を引け』」
「はっ」
「ただし、天狗として、此度の異変の仔細を把握するべきだという方針は変わらぬ。そこで、これまでお前が得て来た情報について、詳しくまとめられたものがあるとありがたいのだが……」
「その件でしたら、こちらをお使いください」
先程の文花帖を文から差し出され、飯綱丸は初めて虚を突かれた顔を見せた。
「……良いのか?」
子供から贈り物をされたような、驚きに満ちた声で、飯綱丸は問う。
「その手帖は、お前の取材記録をまとめた、大切なものだろう?」
「はい。ですが、此処にあるはすべて『記事には出来ない』情報でございます故――どうか飯綱丸様(あなた)がお役立てください」
迷いのない声で、文は頷いてみせる。真っ直ぐな眼光をたたえた文と数瞬の間、視線を交わらせると、口端をゆっくりと綻ばせる。
「分かった。これは私が大切に預かろう」
飯綱丸は文花帖を掌に包みこむと、親指で二、三度表紙を撫でる。
「全ての始末が済み次第、典から返させるつもりだが、それで良いか?」
「はい。構いません」
「うむ…お前はゆっくり身体を休めると良い。大義であった」
「はっ――それでは、失礼いたします」
一礼と共に立ち上がった文は、そのまま踵を返す。黙りこんだまま扉を開けに先導する典にも会釈をすると、部屋を出る一歩を踏み出そうとして。
「あぁ、そうだ文よ。もう一つだけ問おう」
けれど、背中に聞こえた飯綱丸の声に、足を止めた。
「お前は、後悔しているかい?」
優しい問いかけが、夕陽色の瞳を震わせる。今度こそしっかりと形を取った感情が、背中でめらめら噴き上がって、鴉の翼を形成していく。
「……そんなの、判っているでしょう」
爪が食い込むほどに拳を握りしめ、僅かに頭を俯かせて。熱を持った瞼を瞑った裏に映ったのは、やっぱり「彼女」の顔。
「――なにも、できなかった」
「……そうか」
絞り出された幼い声に飯綱丸は一度頷くと、慈愛に満ちた光を、深緋の瞳に宿して。
「ならば、行っておいで」
その声に、文字通り背中を押されたかのように。文は翻した黒翼で空気を薙ぎ払いながら、飯綱丸の屋敷から羽ばたいていった。