Coolier - 新生・東方創想話

慈鳥の愛した巫女

2026/06/26 00:05:54
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巻之弐 巣立

◆◆◆

 もう日が高いというのに、真っ白な霧が、境内を取り囲むように立ちこめている。時折聞こえる鳥の鳴き声は、心なしか無機質で味気ない。喩えるなら、レコードから繰り返し音が流れているだけ、みたいな。
 『……だから何度も言っているけど、』
 視界を侵食する霧の向こうから、なんとか見えるのは、おめでたい紅白に着飾った、巫女の姿。
 『聖域の異変は頑張って解決したの!』
 あぁ……そうだった。
 自分は今、この前起こった聖域の異変について、彼女に聞こうとしていたんだ。
 聖域での異変を解決したって文花帖に書かれていたから、その仔細を記事にしたいと思って……
 ……
 あれ。

 …そもそも「聖域の異変」とは、どういう異変だっただろう。

 『その厄介な…――…の操作が…――…本体だったの…――…』
 獲物を捕らえた猛獣の如く、霧が巫女の姿を呑み込み始める。なんとか、巫女に声をかけなきゃ。手を伸ばさなきゃ…そう分かっていても、全身が縛りつけられたみたいに動かない。何も出来ないまま、輪郭が掠れていく巫女から、目を離せずにいる。
 『あんたら…――…みんな…――…』
 霧に蝕まれるのに比例して、声もたえだえに掠れていく。けれど、微かに聞こえるその声音が、釘付けにされた瞳を、赤々と輝かせる。
 …彼女は自分に対して「怒っている」。何か、助けを求めようとしている。
 『…――…日常…――…とくらし…――…』
 聞かなきゃ。彼女が伝えようとしていることを、何としても聞き取らなきゃ。ぎりり、締め付けられるような痛みに歯を食いしばりながら、耳に全神経を研ぎ澄まさせる。
 けれど、巫女を貪る霧は、ちっぽけな抵抗など嘲笑うかのように、さらに彼女を激流のように覆い尽くしていって。いかに意識を集中させようとも、声はもう、ほとんど聞こえなくなってしまって。
 『…――…いにち…――…かんが…――』
 深紅に良く目立つリボンも、綺麗に映える黒髪さえも、すっかり霧に包まれて、見えなくなって。
 気が付けば自分は、白々と立ちこめる世界で、独りぼっちになってしまった。
 『……』
 足下まで霧が這い寄る様を見てなお、呆然と立ち尽くす。冷たい空気が身体を立ち昇って来てもなお無抵抗のまま、思考に耽る。
 ……
 ………?
 此処は、どこだ?

 ――何故私は、此処に居る?

「――…っ!」
 身体を勢い良く跳ね上げさせた衝動で、射命丸文は意識を覚醒させた。
「…ぅ……はぁっ…はぁっ…」
 水中に閉じ込められていたかのように、荒い呼吸を繰り返す。全身からの汗に衣服の貼りついた不快感を覚えながら、赤褐色に燻んだ眼で辺りを見回す。闇に包まれた視界に見えるのは、日ごろ自分が原稿をまとめるのに使っている文机。耳を澄ませると、眷属にしている鴉のうち一羽が、早くも眠たげに鳴き始めているのが聞こえる――夜明けはもう近いようだ。
「はぁ…」
 自分は、眠っていた……のか。
 のしかかる怠さに眉を顰め、前髪をぐしゃりと掻き上げる。――…あれは、夢、だったのか?そもそも私は、どんな夢を見ていた?記憶の底まで辿ろうと試みても、錠で固く封じられているように、呆気なく阻まれてしまう。
 ふらふらと起き上がると、糸で操られたかのように、文机の前まで歩いていく。ぱちり、卓上灯を灯すと、暖色に照らされた円の中心に、自身が取材を記録している手帖――文花帖を取り出す。抵抗するように指先で走り出す震えを強引に黙らせると、文は意を決して、手帖のページをめくり出す。
 書かれていたのは、確かに自分の文字だった。挟まれていたのは、確かに自分の写真だった。…けれど奇妙なことに、射命丸文には、それを書いた記憶も、撮った記憶さえも残っていなかったのだ。
 背中がざわざわと騒ぎ立つのを感じながら、文はページをめくり続ける。分かったことは、この奇妙な現象は、一日だけでなく、ここ最近、何日も繰り返し観測されているということ。そして、奇妙な現象は、どうやら聖域で起こっていた異変が関係しているらしい、ということ。
 特にここ数日は「聖域に関して取材した情報」だけが、切り分けられられた洋菓子のように、記憶から脱落しているのだ。
 筆を持ち、記憶のない箇所をチェックし続けていると、一枚の写真に目を留める。沈みゆく夕陽を背景に映し出されていたのは、巨大な祭壇(ピラミッド)。それも、その存在さえ蜃気楼であるかのように、ところどころ輪郭がぼやけている。まわりに飛び交う三角錐の飛翔体は、まるで鳥たちがねぐらに還るかのように、祭壇(ピラミッド)に集まっている様子。はっきりとは覚えていないが…これが今回の現象の「本丸」といったところだろう。
 疲労に燻んでいた瞳に、微かな炎が宿る。網膜の底まで焼き付けるように写真を見つめながら、文は思考に耽る。
 本当にこの祭壇(ピラミッド)が異変の中心なのだとしたら、真実をつかむには、この中に入らないといけないだろう。それは即ち、聖域に侵入する必要があることを意味する。本来、天狗が聖域に入ることは、規則で禁じられているが――けれど。今、幻想郷で起こっていることを明らかにするためには。その禁を破る選択肢も、あるいは…
 今日から自分が為す使命を見定め、緊張と覚悟で、身体を震わせたその時、ふと、既にチェック済みだったある文章が、文の視界に飛び込んで来た。

 ――「異変は霊夢によって解決?」

「――がァッ!!!」
 刹那、熱した刃物で抉られたような激痛が、文の胸を走る。天狗の生を得てから経験したことのない程の精神の動揺に、思わず机に突っ伏してしまう。
「がッ…がぁっ……」
 息さえもまともに出来ず、しゃがれた鴉の声だけが、口からこぼれ出る。重たい頭を何とか起こすと、頬を伝う汗が紙上にこぼれ落ちて、文字を滲ませていく。
「なん……だ……?」
 傷口から熱が広がっていくような感覚に、文は呻き声を上げる。ぱちぱち、稲妻が走り抜けるように、意識が明滅を繰り返す。そして、真っ白に瞬いた視界に浮かび上がったのは、件の巫女――博麗霊夢の姿だった。
「れぃ………む…?」
 表情を苦悶に歪めつつ、文は思わず霊夢の名前を呟く。
 何を貴方は、私に怒っているの?どうして貴方は、そんなに寂しそうな顔をしているの?
 貴方は何を、私に伝えようとしていたの?
 覚えていない。何も、思い出せない。思い出すことなど、決して出来ないはずなのに。

 ――どうして、辛そうな霊夢の顔だけ、はっきりと見えているの?

「…」
 鈍い動きで、文は身体を持ち上げる。ぼんやり照らされた文花帖のページは、汗ですっかり濡れてしまって。けれどその中で「異変は霊夢によって解決?」の文字だけは、一切曇ることなく、文の視界に突き付けられていた。
「あぁ…」
 先程まで溢れていた気力は、跡形もなく吹き消されている。後に澱んでいるのは、原因さえも分からない恐怖と後悔だけ。
 そしてそれは悲鳴となって射命丸文に訴えている。
 ――これ以上、霊夢を悲しませたくなったら、聖域の異変については調べるな、と。
 ふざけるな、と怒鳴り返したかった。本物の記憶かも分からない曖昧なもののために取材を断念するなんて、自分の信念が許せなかった。
 ……けど、出来なかった。
「これ以上は、」
 この幻覚は「正しい」記憶の欠片であると、自分の勘は肯定していた。
 何が起こっていたか、自分が何をしてしまったか確かめるのさえも。今の射命丸文には、怖かった。

「調査を、断念します」

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