【空】ーー幻覚?
私が聞き返すと、さとりが頷いた。
さとりに誘われるまま、
往来を歩いていた。
極楽蓮華の咲き誇る街並みを、
イカれた表情の月が見下ろしている。
往来を行き交う妖怪たちの視線を感じる。
きっと、善行を施したくて堪らないのだろう。
誰も獣になりたくないだろうから。
そのお節介は、ひどく利己的だ。
歪んでいるようにすら感じる。
それに晒されても嬉しくない。
歩み寄って来そうな奴を睨んで牽制する。
いまは、さとりの話を聞くのが優先。
幸い、睨んでなお邪魔をしてくる輩はいなかった。
【さとり】はい。あのとき唐突に、
視界が極彩色に染まりました。
【さとり】まるで高速で回転する
万華鏡の中を転げ落ちるような……。
【さとり】情報量があまりに多すぎて、
立ったまま気絶しそうでした。
すんでのところで、持ち堪えましたが。
【空】……幻覚。
あのとき。
拳の獣に対抗するため、
さとりが悔悟の棒を構えた、あのとき。
不意に動きを止めた彼女は、
幻覚を見ていたと言う。
唐突に襲いくる幻覚。
思い当たる節があった。
大樹の天使が降臨する直前。
【空】蟲群街の蟲妖たちも、幻覚を見てた。
リグルさんが、そう言ってたんだけど。
【さとり】十中八九、それが今回の元凶の持つ、
閻魔のオーパーツの力なのでしょう。
対象に幻覚を見せる力。
【さとり】どのような道具なのか、
私には想像もできませんが。
他に説明のつけようもありません。
私は天を仰ぐ。
見慣れた煤煙の見当たらない、
濃紫の天蓋。ニタニタ嗤いの月。
【空】もしかして、あれも幻覚だったりする?
【さとり】可能性はあります。
元凶が私たちに、あれを見せる
必然性が判りませんが。
さとりの返事を聞いて、途端に不安になる。
外界の情報のほとんどは視覚に頼っている。
それが信用できないのなら、
それは世界そのものを信用できないのと同じ。
無意識に右手がホルスターに伸びて、
拳銃のグリップを確かめていた。
たとえ視界が信じられなくても、
この感覚だけは私を裏切らない。
少しだけホッとした。
【さとり】新たな仮説があります。
聞いてもらえますか?
【空】なに?
【さとり】つまり私が読心できないのは、
視界に常に影響を受けているからでは
ないのでしょうか?
彼女は右手の人差し指を立てながら、
もう片方の手で第三の眼を撫でる。
【さとり】実際の感覚としての是非はさておき、
この街で私の読心は視覚と解釈されている。
【さとり】だから、視覚を操る元凶は、
私の読心能力を制御できるのではないかと。
【空】そうなの?
【さとり】仮説です。あくまで仮説。
そう考えると、しっくり来るという話です。
【空】ふぅん。
【さとり】どう思います?
【空】ん? うーん……。
でも、ない話じゃないと思うな。
【空】それ、あからさまに眼だもんね。
なんか……うん、何でもない。
煙草を咥えた私は、
何か気の利いたことを言おうとして、
何も思い浮かばなかったのでやめた。
意見を求められるなんて新鮮だ。
そんなことを思う。
お燐は私の意見なんて聞かない。
聞いても無駄だと判ってるからだ。
大したアイディアを出せるわけでもないし、
そもそも意見を表明しようとも思わない。
頭を使うのは苦手だし、面倒だし。
そういう私の性質を、お燐はよく判ってる。
とはいえ別に私に限った話じゃないとは思う。
元から、誰かの言うことを聞くタイプじゃない。
願望や目標が明確で、ビジョンの実現に熱心で。
我武者羅に、猪突猛進に突き進むような感じ。
【空】(さとりも、そういうタイプだと
思ってたんだけどな)
というか何なら、お燐より顕著に
意見を聞き入れるスタンスが無かった。
心が読めていたさとりは、
会話さえ省略しようとしてきていた。
まるで他者の意見の表明を避けるみたく。
どういう風の吹き回しーー
なんて、首を傾げるまでもないかもしれない。
思いついた言葉をそのまま口にする。
【空】自信ないの?
【さとり】…………。
無表情のままのさとりが無言を貫いて、
適切な返事のタイミングを逸する。
返事はなくとも、彼女の内心は判った。
私、馬鹿だけど勘は悪くないつもり。
頭を悩ませる必要がないのなら。
煙草に火をつけたタイミングで、
さとりの歩みが止まって、
【さとり】……私、何か間違ってますか?
声の調子が明確に不満げだった。
何も言わずにいると、彼女は
まるで私が悪だとでもばかりに睨んできて、
【さとり】お空さんも、ナズさんも、
言いたいこと言い放題で訳が判りません。
関係あるだの、過程がどうのこうのと……。
【さとり】心が読めないからですか?
何を考えてるのかさっぱりです。
【さとり】なぜ、そんなに反対してくるのですか?
別に、自分が苦しむわけでもないでしょうに。
【さとり】確かにあの権能は危険です。
ですが目的のために使えるものは、
どうであれ使うべきでは?
【さとり】私、何か間違ったこと言ってます?
【空】うーん……。
腕組みをして唸り声を出す。
きっと、さっきまでの私なら、
答えに窮していただろう。そう思った。
でも今は違った。
あの黒い炎の2度目の顕現を目の当たりにして、
私はすでにモヤモヤした気持ちに結論を出している。
【空】ーー例えば、こいしが
自分の手首を切ったりしたら、
さとりは怒る?
【さとり】怒ります。もちろん。
【空】どうして?
【さとり】どうしても何も、
あの子は、大切な私の妹ですから。
【空】そっか。
【空】それじゃ、こいしが
手首を切った理由が、
例えば天使を倒すためだったら?
【空】止める?
【さとり】止めます。
【空】ふぅん。止めるんだ。
【空】それじゃ、私が蟲群街で
天使になるって言ったとき、
お燐が私を止めたのは?
【空】それも正しいことになる?
さとりは少し怪訝な顔になって、
【さとり】……えぇ、正しいと思います。
彼女はお空さんのことを
大切に思っているようですから。
【空】私はどう?
【さとり】は?
【空】さとりのこと、
どうでもいいと思ってるように見える?
【空】私は、さとりのこと大切じゃない?
怪我しても死んでも、
自分が痛いわけじゃないから、平気?
【空】さとりには、そう見えてるんだよね?
どうしよう? 私、ひどい女だね?
【空】馬鹿だからかな?
それとも、殺し屋だから?
だから、当たり前の価値観が判らない?
【空】命とか心とか、想いとか。
何にも見えなくなってるんだね。きっと。
【さとり】それは……。
さとりは反射的に反論しようとして、
二の句が告げなくなったように黙ってしまう。
普段はあまりしない意地悪なやり口。
でも、こうまで言わないと伝わらないと思った。
自分を傷つける様を見せられる気持ち。
【空】私は、誰かを殺すのが仕事。
【空】命とか、想いとか、
正直、どうでもいいよ。
そんなの気にして仕事できない。
【空】でも私、
私の気持ちを踏み躙られるのは嫌。
何かを、大切に思う気持ちを。
【空】虫が良すぎるよね?
迷惑かな? 分不相応?
殺し屋が誰かを大事に感じるのは?
【さとり】そんなことは、ないです。
……いえ、そうあってはならない。
たとえ、どんな罪があっても。
【さとり】罰のために罪があるわけじゃない。
罪があるのは、償うためです。
悔い改め、善をなすためです。
【さとり】罪の有無は関係ない。
アナタの想いは、それだけで尊い。
閻魔代行として、それは譲れない。
さとりが真正面から私の目を見据えて、
【さとり】何も見えなくなってたのは、私です。
アナタに、そんな物言いをさせてしまった。
【空】さとりの覚悟は立派だと思う。
でも、全部は背負わなくていいよ。
【空】私にも手伝わせてよ。
何ができるのか、判んないけど。
私は煙草を踏み消しながら、
さとりに手を差し伸べる。
彼女の覚悟が美しいと確かに思った。
でも、それは彼女ひとりじゃ完成しない。
何もかもひとりで背負うやり方では。
助け合っていいはずだ。
私が殺し屋で、彼女が閻魔代行でも。
私たちはもう、友達なのだから。
【さとり】……世界を平和にする仕事です。
軽い気持ちで巻き込むことはできません。
【さとり】ですから、覚悟してください。
私と同じくらいの覚悟を、
アナタも背負ってください。
【さとり】できますか?
【空】うん。たぶんね。
【さとり】判りました。信じましょう。
差し出した手を、さとりが取る。
彼女の小さな手は暖かくて、
私を見上げる瞳は穏やかだった。
【さとり】改めて、お願いします。
お空さん。