【さとり】ーーいいですか。
事前の打ち合わせ通りにお願いします。
囁きかけてきたさとりに、
小さく頷いてみせる。
私は馬鹿だけど、
仕事のことなら必死で覚える。
自信はなくても、やるしかない。
【空】(本当にうまく行くかな……)
私にはよく判らないけど、
詰将棋染みた作戦のように思う。
さとりの状況判断に読み違いがあれば、
二人とも無事では済まない。
あっさり死ぬだろう。そう思った。
だからと言って、もっと良い手段を
私に思いつけるわけでもない。
【空】(信じるしかない、か……)
コートの中の拳銃に手を延べる。
長屋の影から、目抜き通りを窺う。
そこには奴がいる。
【空】(ーー虎の獣)
白蓮教徒の街に巣食う大型の獣。
その最後の1体。まだこちらには
気付いてないけど、その存在感は圧巻だ。
あれを調伏すれば、仕事は終わり。
でも、これまで通りにはいかない、と
さとりは断じている。
すでに彼女は作戦を始めてる。
獣に気付かれないよう近付いて。
その背を見送りつつ、煙草に火を付ける。
プランを順繰りに思い返す。
大丈夫。きちんと思い返せている。
深呼吸。気持ちをフラットに。
コートから拳銃を取り出して。
すると、それまで慎重に動いていた
さとりが、にわかに走り出す。
【さとり】ーー調伏します!
覚悟!!
目抜き通りに飛び出したさとりが、
悔悟の棒を構えて見栄を切る。
虎の獣がさとりの方を向く。
感情の色は見えない。
しかし地を鳴らすような唸り声をあげて。
ーーGRRRRRR!!!ーー
【空】っ!
私は目を疑う。
ーー虎の獣が2体いる。
悔悟の棒を構えるさとりを挟むように、
寸分違わず同じ虎の獣が。
さとりだけじゃない。私にも見えている。
虎の獣が分身できるなんて聞いてない。
ーーGRRRRRRRR!!!!ーー
瞬きする間もなく虎の獣はさらに増える。
2体から4体へ。4体から8体へ。
長屋の上に。路地の隙間に。あちこちに。
【空】これ、幻覚!?
目を凝らしても判らない。
乱暴に目を擦っても消えない。
どれかが本物で、他は全部、偽物。
そうと判ってても抗えない。
目で見る脅威の存在感。嘘とは思えない。
【さとり】閻魔代行者、
古明地さとりの名において。
ーー審判妨害罪を請求する。
それでも、さとりは怯まない。
悔悟の棒を駆動させる。
歯車の噛み合う音がする。
チクタク。
チクタク。
【空】……っ。
焦燥を飲み下すように、
ジリジリと煙草の先を焦がす。
まだだ。まだ、動けない。
アレを使おうとするさとりを、
見据えたまま、耐える。
【さとり】忌まわしき四大のひとつ。
あるいは誤りて出づる漆黒よ。
ヤマの権能喰らいし怨敵よ。
【さとり】御身の穢れを顕現せよ。
其の力の片鱗を零し注ぎたまえ。
我が身、悍ましき門とならん。
さとりの周囲に展開された
紫色の数式が、彼女の左腕に収斂する。
複雑怪奇な網目の陣が敷かれる。
ーーGRRRRRR!!!!ーー
虎の獣がひときわ大きく唸る。
複数に分裂した虎の獣たちは、
どれも全く同じ挙動で前脚を振りかぶり、
さとりを叩き潰さんと襲ってくる。
でも、もう遅い。
さとりが黒い炎を展開する方が早い。
そんな一瞬の中。そんな刹那の合間。
私は目を凝らしてさとりを見据える。
もし、今の状況が彼女の言う通りなら。
もしも、さとりの言葉が正しければ。
今この瞬間こそ、
もっとも彼女が危険に晒されている。
銃を構えたまま、全精力を視界に費やして。
【空】っ、そこっ!!
準備が功を奏した。
さとりの背に駆け寄る人影を見た瞬間、
もう私は引き金を引いていた。
ぬえの得物を携えて、
でも、ぬえではない彼女。
私たちが救ったはずの、白い服の。
【ムラサ】……っ!
彼女の右腕を私の銃弾が掠めていく。
怯んだムラサが、さとりの心臓に
突き立てようとしていた槍を取り落とす。
虎の獣たちの攻撃が止まる。
複数に分身していたのさえ、
いつの間にか1体だけに戻っていて。
【さとり】おや、ぬえさんではなかったのですか。
さとりが何でもないように振り返り、
忌々しげなムラサの顔を見て、
【さとり】まぁ、瑣末な問題です。
この状況、この瞬間で、私を殺そうとしたこと。
それこそが、全ての証明となる。
【さとり】つまり、アナタが犯人ですね。
DeSの根源。獣の作成者。
白蓮教徒の街を牛耳る影の支配者。
【さとり】何か弁明は?
【ムラサ】…………。
ムラサがさとりを睨む。
そして、チラと私を見やる。
ーーGRRRRRR!!ーー
不意に虎の獣が大きく叫んだ。
同時に、ムラサの姿が一瞬で見えなくなる。
虎の獣が大口を開けて、
さとりに噛みつこうとする。
さとりの視線が、私の方へ向く。
やるべきことは、もう判っていた。
銃をホルスターに仕舞う。
【空】……来い。
右腕をさとりに向ける。
【空】来い……!
あの時の感覚と熱量を思い出して。
【空】来い!!
『ーーくすくす。いいよ。お空が願うなら』
『ーー仰せのままに。私の女王様』
内なるその言葉とともにーー
私の身体が変わってくーー
【空】ーー核融合シーケンス、開始。
原子核、収束。セルフトカマク、形成。
放射性物質発生、制御。
【空】(あぁ……)
【空】(全能感が、身体に満ちていく……)
血管を流れる核エネルギーの灼熱。
空気さえも傅くような力の奔流。
何もかもが心地いい。
お腹の奥底に快感がドロリと渦巻いて。
満ちていく。
私が、満ちていく。
悦楽に喰われるように、
私は何もかもがどうでも良くなる。
作戦も。さとりも。
今これから放つ一撃に比べれば。
全部、一緒くたに融けて蒸発するくらい。
どうでも。
【ムラサ】ーーっ、クソ!!
正気!?
姿の見えないムラサが、
捨て台詞と一緒に離脱するのが判った。
でも、さとりに迫っていた虎の獣はーー
ーーGRRRRRRR!!!!?ーー
みっともなく、怯えて叫ぶだけでーー
そのさまが、どうしようもなく、滑稽でーー
【空】遅い。
ーーGRRRRRRR!!!!!!ーー
【空】喚くな。
甲高く空気が引き絞られる音がする。
全身を巡る核融合の力場が、
例えようもなく心地よく調和して。
そんな中で、さとりはーー
悔悟の棒を、虎の獣ではなく、
私に向けてきてーー
【さとり】告げる。
閻魔代行者、
古明地さとりの名においてーー
【さとり】ーー裁判執行役任命の儀を。
悔悟の棒が蒸気を排出しながら、
チクタクと大仰な歯車の音を立てて。
紫色の数式がキラキラと輝きながら、
さとりの周囲を回転して。
【さとり】汝、外なる神の意を拝す者。
力持つ数式に寄りて遍く世界を上書く者。
【さとり】第十一番盟約第二項に従いて、
汝を徴用するものとする。
クルーシュチャ方程式の解もって、命名を拝せ。
【さとり】にゃるしゅたん。
にゃるがしゃんな。
ここに、汝の名を霊視する。
【さとり】ーー汝、八咫烏の導きに拠りしモノ。
尊き者を導く路を拓くモノ。
我が呼び掛けに応えよ。
【さとり】ーー霊烏路空。
さとりの周囲の数式が、
一気に私の方へと流れてくる。
私の身体がーー
紫色の数式に飲まれてーー
『ーーあーあ。手綱が付けられちゃった』
『ーーいいよ。認めるよ。
今は、私の力もアナタたちのもの』
『ーーでも、これで終わりじゃないよ』
『ーー私が消えてなくなるわけじゃない』
『ーーいつでも、私はアナタと一緒だよ』
『ーーいつでも、私はアナタを見てる』
『ーーそのことを、忘れないでね』
『ーーお空』
【空】ーーッ!!
瞬時に意識がクリアになる。
ドロドロと泥濘にハマったような
悦楽の波が急激に引いていって。
それは、まるで、
視界がパッと開けたようで。
私が、私の目が、さとりを見る。
さとりに迫る虎の獣を見る。
やるべきことは、もう判っていた。
【空】出力解放方向制御、完了。
エネルギー圧縮率…80%…90%…100%、完了。
出力解放…2…1、イグニッション!
【空】スペルカード制限、撤廃!
伏せて、さとり!!
【空】『ギガフレア』!!!
ーーーーーーーー!!!
私の放った一閃が、虎の獣に直撃する。
獣の巨体が融解するように消滅していく。
虎の獣は叫び声を上げる間もなく蒸発して。
穴の空いた断面から紫の光と共に消えていく。
獣の向こう側の長屋が崩れる。
紫の光が爆発の余波に乗り、
目抜き通りを埋め尽くすほど広がって。
空気に溶けていくように、
チラチラと消えていく。
【空】やった……?
核エネルギーの放出を止めて、
制御棒と一体化した右腕を下す。
光の消えていく大通りを見つめて。
視界を遮る光が晴れる。
虎の獣はもういない。
ひとりの女の子が、後に残された。
黄色と黒の虎模様みたいな髪の子。
地面に伏せるさとりのすぐ前に。
【ナズーリン】ーーご主人っ!!
不意に声がする。
見ると、ナズーリンたちが走って来ていた。
見覚えのない女の子と、
その子に背負われたぬえの姿。
雲山もすぐそばに。
【さとり】ーーナズさん、彼女を頼みます。
私が彼女たちの来た理由を尋ねる間もなく、
さとりが立ち上がって土埃を払いながら、
【さとり】まだ、終わりではないので。
言って、駆動し続ける悔悟の棒を
半壊した長屋の上に向ける。
さとりが睨みつける視線の向こう。
そこに、彼女は立っていた。
白いセーラー服をはためかせて。
夜の帷のような暗い色の瞳を湛えて。
【ムラサ】…………。
彼女の目を見て気付く。
その瞳の色は、DeS中毒者と同じだった。
視点は合ってるのに、どこも見ていない。
真っ黒な虚無の向こう側を切望するような。
【ナズーリン】……ずっと、ぬえのフリを
していたのかい?
虎柄の髪の女の子を介抱しながら、
ナズーリンが眼光鋭くムラサを睨む。
【ナズーリン】何のために?
我々をコケにするためか?
【ぬえ】……どうしてだよ、水蜜……。
背負われたままのぬえが、
息も絶え絶えといった様相で、
けれどもムラサをしっかり見据えて、
【ぬえ】私の、正体不明の種を……、
どうして、お前が……。
【ムラサ】言い訳はしません。
私のために必要でした。
だから奪った。
背筋に冷たいものが走る。
淡々として理知的な口調の端から、
ドス黒い情念が隠しきれず溢れてる。
終わりじゃない。
ぜんぜん、終わってない。
さとりの言葉を私も痛感する。
【ムラサ】私の持つ、閻魔のオーパーツ。
拡張現実。
【ムラサ】ぬえの能力があってこそ、
私のオーパーツは完成しました。
【ムラサ】罹患者の現実に介入し、
心の内側に潜む罪を拡張し尽くして
擬似的な審判を再現できるほど。
【ムラサ】アナタの気紛れなところも、
実に都合が良かった。無限雑踏街で、
クスリを配る必要がありましたし。
【ムラサ】ですから、とても残念です。
こんな、どこぞの馬の骨に邪魔されたのは。
少しずつでも、上手く行ってたのに。
【ナズーリン】残念そうには聞こえないね。
いつから堕ちたのか知らないが。
【ナズーリン】恥を知りたまえよ。
都合のいい幻影に現を抜かしたりして。
【ムラサ】幻影? 現?
思考停止もいいところですね。
【ムラサ】気に食わない現実など、
拡張し尽くした果てに希釈すれば、
何もかも無かったことになるでしょうに。
【一輪】南無三って感じね。
ムラサの言葉とは思えないわ。
【一輪】現実から目を背けて、
堕落を受け入れるを是とするなんて。
【さとり】ーーそれで、どうするのですか?
【さとり】罪を悔いて、
大人しく自首するのなら、
減刑の余地もありますが?
【ムラサ】私が、諦めるとでも?
たかが閻魔の使い走り如きに?
盲目にも程がありますね。
【ムラサ】むしろ諦めるのはアナタの方です。
私が閻魔のオーパーツを通じて、
どれほど力を蓄えたか、教えてあげます。
【ムラサ】ーー拡張現実DeepSinker、解除。
ムラサが呟く。
途端、道いっぱいに咲いていた
極楽蓮華が、一斉に消えていく。
嘲笑う月を背に、彼女が何かを構える。
それは、何の変哲もない柄杓に見えた。
【さとり】お空さん! 彼女を!!
さとりが叫ぶ。
言われるまでもなく、
私は既に照準をムラサに合わせていた。
何かしようとしている。
何か、とんでもないことを。
そんなこと、嫌でも判ったから。
でもーー
【空】っ!?
一瞬の後、ムラサの姿が消えていた。
周囲を見回しても見当たらない。
さっきと同じように。
右手の制御棒の向ける先を失う。
さとりの方に視線をやるも、
彼女は私の方を見ていなかった。
【さとり】心が……。
彼女が第三の眼に左手をやって、
ポツリと呆けたように呟く。
一瞬、拳の獣のときのことを想起する。
でも、さとりは不穏な様子もなく、
周囲のナズーリンたちを見やって、
【さとり】……読めるようになりました、ね。
【さとり】っ!! 油断しました……!
お空さん、彼女は!?
【空】わかんない! 消えちゃったよ!
【ナズーリン】おい、何だい、この音……?
丸い耳をそばだてて、
ナズーリンが恐々と呟く。
聞き返すまでもなく、私の耳にも届いた。
地響きのような、轟々と唸る低音。
遠くの長屋が崩れていくのが見えた。
それは瞬くほどの速度で隣へ隣へ伝播して。
マズい。
何か判らないけど、
何かが私たちの元へ殺到してる。
【ナズーリン】なにが起きてる……!?
薙ぎ倒される長屋はひとつふたつじゃない。
まるで世界が崩れていくみたいに、
全ての長屋が轟音と共に消えていく。
圧倒的な速度で。
破滅的な力で。
それは三体の獣たちより強大な、
街ごと私たちを飲み込みかねないーー
【空】さとり!!
なりふり構わず、
さとりの元へ走り寄る。
無我夢中で彼女を抱きしめる。
轟音が耳を劈くほどになって。
【さとり】っ、ーー!!
さとりを抱えた私が、
その勢いのまま倒れる瞬間ーー
ーー迫り来る巨大な水の壁が、
私たちを誰ひとり逃さず飲み込んだ。