Coolier - 新生・東方創想話

緋焔のアルタエゴ 第三章_下

2025/08/06 00:28:26
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【ナズーリン】ーーやぁ、おかえり。
ムラサを救ってくれて感謝するよ。

アジトに戻ってきた私たちを、
緑茶を啜るナズーリンが迎えた。

ぬえと雲山の姿は見えない。
私の視線に気付いたか、
彼女が湯呑みを置いて、

【ナズーリン】二人はまだ別の獣たちを見張ってる。
当分、戻っては来ないだろうね。

【ナズーリン】あぁ、ムラサはそこに寝かせといて。
何か言ってたかい?

【空】いや、特に何も。

【ナズーリン】なら、いいんだ。
小言は後にして、今は休ませてやろう。

【ナズーリン】君たちは大丈夫かい?
なんだか、すごく嫌な気配を
旧血の池地獄から感じたけど。

【さとり】えぇ、何も問題ないです。

【空】…………。

微笑むさとりに、
刺々しい視線を送ってる自覚があった。

あの黒い炎。苛烈な代償を強いる力。
虚空曰く、忌まわしいモノ。

それを使わざるを得ない理屈は判る。
そして、その源泉となる動機も。

けれど、心は全然ついてこないまま。
どうして嫌な気持ちになるのか、
今も私は言語化できずにいる。

ムラサと呼ばれた彼女を、
部屋の隅に敷かれていた
粗末な布団に寝かせる。

彼女は気を失ったまま、目を覚さない。
呼吸はしてるから、死んだわけじゃない。
座るナズーリンの元にさとりが歩み寄って、

【さとり】少々手荒にやらざるを得ませんでした。
彼女、当分起きないでしょう。
その点は謝罪します。

【さとり】確認したいことがあります。
アナタに聞いても問題ないですか?

【ナズーリン】そんなの内容次第じゃないかい?

鼻白んだ風に彼女は言って、
チラとムラサを見やったかと思うと、

【ナズーリン】まぁ、言ってみなよ。
私で答えられることなら、答えるさ。

【さとり】ありがとうございます。
それでは単刀直入に。

【さとり】アナタたち白蓮教徒の
指導者は、どなたなのでしょう?

【さとり】まだこの街の在り様を、
把握しきれてないもので。
えぇ、確認のために。

【ナズーリン】そのことか。
いいよ、話してあげよう。

ため息を吐いた彼女は、
やや居住まいを正してから、

【ナズーリン】我々の指導者は
聖白蓮という尼僧だ。

【ナズーリン】雲山も、そこのムラサも、
彼女に従う形で仏門に入信している。

【さとり】アナタとぬえは?

【ナズーリン】私は監査役みたいなもんでね。
彼女の直接の信徒ではないんだよ。

【ナズーリン】ぬえは、そもそも仏門ですらない。
この地下世界で知り合っただけの縁だ。
まぁ、細かいことは置いといて。

【ナズーリン】ともあれ、我々は
彼女を指導者に据えて地上で活動していた。
数年前まではね。

【さとり】というと?

【ナズーリン】地上の人間に迫害されたんだ。
聖は魔界に封印されたし、
信徒の我々はここに追いやられた。

【ナズーリン】いわば、我々は残党のようなものだ。
かつて聖に教えを請うた信徒たちのね。
まったく、色即是空もいいところだよ。

【さとり】それが、白蓮教徒の街の始まり、ですか。

【ナズーリン】その通り。
我々は聖を失ったが、
彼女の教えも大悟への道も消えてはいない。

【ナズーリン】この地下世界でも
地道な布教活動をしていた。

【ナズーリン】今の信徒の大半は、
そうした活動で得た同志たちだ。
腹の底で何を考えてようが、ね。

【ナズーリン】しかし、そこのムラサや、
一輪も、ごしゅ……星も獣になってしまって、
開店休業状態だったんだ。

【ナズーリン】助かった、というのが本音だ。
今まで宗教団体としては、
ほとんど死に体だったからね。

【さとり】……では、アナタがたの指導者は
今この地下世界には居ない、
という理解で良いですか?

【ナズーリン】そう言ったつもりだけどね。

【さとり】絶対に?

【ナズーリン】しつこいな。
絶対に居ないよ。断言してもいい。

【ナズーリン】そもそも、ここと魔界は
空間的にも境界的にも断絶されてるしね。

【ナズーリン】彼女が居れば、
弟子が獣に変わるなんて
愚を見過ごせるわけもない。

【さとり】……そうですか。判りました。

さとりが至極残念そうにため息を吐く。
ナズーリンは釈然としない顔をしていた。
疑われて気分が悪いのかも。

煙草に火をつける。
途端、ナズーリンが眉に皺を寄せる。
パタパタと鼻の前を仰ぎつつ、

【ナズーリン】私は急用を思い出したから、
ここで失礼するよ。

【ナズーリン】次は拳の獣かな?
せいぜい頑張ってくれたまえ。

【空】えー? 感じ悪ーい。

【ナズーリン】対等な取引のはずだからね。
君たちはDeSの情報を知る。
私たちは仲間が戻ってくる。

【ナズーリン】不要なへりくだりはしない主義でね。
小動物妖怪の、ちっぽけな矜持さ。
大目に見てくれたまえよ。

【ナズーリン】それじゃ、また。

言って、ナズーリンがアジトを後にする。
さとりはまた何事か考えてるらしく、
顎に手を当ててブツブツ呟いていた。

手持ち無沙汰を感じつつ、
することもないので紫煙の行く末を
眺めていると、さとりがポツリと、

【さとり】……アテが外れました。
悪心を持つと獣に堕ちるというルールは、
いかにも極端な仏法の強制に思えたのですが……。

【さとり】別のアプローチが必要かもしれません。
仏法を課すことが目的ではないのかも。

【空】考えはまとまった?

【さとり】何とも言えない、というのが
正直なところですね。

【さとり】とにかく今は動きましょう。
幸い、手詰まりではありません。
獣を調伏すれば、手がかりはあるはず。

【空】…………。

煙草の煙を眺めながら、
私は何も気の利いた言葉を
思い付けずにいた。

獣の調伏。

そのために、閻魔代行の力が必要。
そのために、あの黒い炎を振るう。
そのために、さとりの代償が要る。

【空】(……判んないよ。私。
どうすればいいんだろう……?)

虚空に教えてもらうまでもなく、
あれはすごく嫌な気配がする。
できれば使わないで欲しい。

でも、どうしてそう思うのか判らない。

余計なお世話だと言われれば、
私自身でさえそう思う。

目的のために、
使えるものは何であれ使うべき。
そう言われれば、言い返せない。

そして、他に方法もない。
私は天使になったヒトを
元に戻すやり方なんて判らない。

『ーーそれが判るなら良いってこと?』

『ーーそれなら心配いらないよ。
再審請求が却下されなければ良いんだもの』

『ーーつまり、さとりよりも先に
お空が天使を倒しちゃえば、解決ってこと』

『ーーくすくす。簡単だね』

【空】……ッ!!

【さとり】お空さん?

【空】……なんでも、ない……っ!

怪訝な面持ちのさとりから顔を背ける。
思ってもなかった解決策を
不意に提示されて、心が揺らいで。

【空】(駄目だ、私……)

【空】(こんなんじゃ、虚空の思う壺……)

『ーーそれが、どうして駄目なの?』

『ーー言ったでしょ?
私、お空の味方だよ、って』

『ーー大丈夫。私に任せて良いんだよ』

『ーーもう、さとりに、
あんな思いさせたくないもんね?』

【空】黙って……っ!

【さとり】はい? 
何も言ってませんが……。

【空】ゴメン、なんでもないよ!
本当に、なんでもないの!

【空】私、疲れてるんだと思う……!
ちょっと休んでから行こ?

【さとり】…………。

【さとり】……まぁ、えぇ、はい。
それで問題ありませんが……。

さとりがテーブルについた気配。
私は壁の木目を見つめながら、
自分の中の浮ついた感覚に抗う。

黒い炎は忌まわしい。それは判る。
さとりにあんな思いさせたくない。
それも、その通り。

でも、だからと言って、
虚空の忌まわしさが
帳消しになるわけでもない。

けっきょく、二択になるだけだ。
さとりの犠牲を見過ごすか、
私が代わりに代償を支払うか。

そんなのって酷い。そう思う。
どっちかが犠牲にならないといけない。
どちらかが代償を支払わないといけない。

でもーー

【空】(こうなったのは、私のせい……)

あのとき。
私が虚空の提案を受け入れたとき。
私が核融合の力を振るったとき。

さとりの現象数式はかき消えた。
私の放った核融合の力を打ち消すために。
その事実を今、私は突きつけられている。

あのときの現象数式が残っていれば、
さとりが黒い炎に頼ることはなかったのに。

ーーと、

【空】……っ!

誰かが、私を見てる。

慌てて振り返る。
でも、感じた視線の主は判らなかった。

さとりは椅子に座って目を閉じていた。
ムラサは布団の上で眠ったまま。

なのに、まだ視線を感じる。
首筋がざわざわして。
間違いなく、悪意の混じったそれ。

【空】ーー誰!?

【さとり】……お空さん?
さっきから、様子がーー

さとりが困惑顔で
私に声をかけて来るや否やーー

ーーーー!!

いきなり天井が崩落して、
瓦礫と一緒に小ぶりな獣が落ちてくる!

【さとり】っ!?

ーーAAAAAAAAAーー

瓦礫をかき分けて、砂埃の中から
現れた獣が鋭く叫ぶ。
さとりが懐から悔悟の棒を取り出して、

【さとり】どうして、急に……!?
お空さん、ムラサさんを連れてーー

ーーAAAAAAAAAAA!!ーー

さとりが出口を見やった途端、
そこから別の獣の叫び声がする!

スイングドア越しに、
小ぶりな獣の影が見える。

それも、2体。
耳障りな、金属の擦れるような
軋む音を甲高く奏でながら。

【さとり】な!?

さとりが目を見開く。
合計3体もの獣の奇襲に、
彼女もまた困惑してるようだった。

私だってそう。
理由が判らない。原因が判らない。
何の前触れもなく、獣が押し寄せて。

【さとり】逃げられない……!
お空さん、ムラサさんを!
ここは私がーー

ーー!

ーーAAAAAA、AAAAAA!!ーー

天井をブチ抜いて現れた小型の獣に、
弾丸を喰らわせる。

穴は空いた。
中から黒い液体が溢れる。
効いている、ように見える。

さっきの血の獣とは違う。
再生しているようには見えない。
でも死んでない。まだ動いてる。

のた打ち回る獣に、
更に銃弾をブチ込んでいく。
2発、3発、4発ーー

ーーAAAA、AA、Aーー

ーーA、ーー

【空】動かなくなった。

黒い液体を垂れ流しながら
痙攣する小型の獣を踏みつけにする。

【空】死んだ? 本当に死んでる?

蹴りを喰らわせる。
2度、3度ーー

動かない。死んでる。
良かった。こいつらは殺せる。
代償がなくても、銃さえあれば。

胸がスッとして、心の底から安堵する。
獣の残骸を蹴り払う。
汚れたブーツの底を床板に擦り付ける。

でも、まだぜんぜん安心には至らない。
あと2匹残ってる。
シリンダを解放して、追加の弾を補充する。

ーーAAAAAAA!!ーー

呑気にスイングドアから
突入してきた2体の獣に銃を乱射する。

カラカラと床の上を跳ね上がる薬莢の音。
ブレていた私の心をニュートラルに引き上げる。

着弾するたびに奇声を上げて痙攣する獣。
滑稽なダンスみたいで微笑ましさを感じる。

シリンダを解放して弾を再装填する瞬間。
振るう暴力の合間に生の実感を得られる。

役に立てたような気がして嬉しくなる。
塞いでいた気持ちが晴れてスッキリする。

ーーAAA、AAーー

【空】……ふふ。

折り重なるように倒れた2匹の獣に
歩み寄って、高揚した気分の発散ついでに
生死の確認を兼ねた蹴りを見舞う。

【空】ん、片方、まだ生きてるね。

死体は重い。蹴りへの反射がないから。
ちょっとでも息があれば、
足先の感覚で判断できる。

ーーA、Aーー

思った通り、微かに呻く獣を
踏みつけにしたまま銃口を向けて、

【空】死んでてよ。大人しく。

ーー!!

残ってた弾丸を撃ち込む。
盛大に穴が空いて、
ブチ撒けられた体液が顔に掛かる。

……ひどいニオイ。黒くて、熱い。
不快ではあるけど、達成感の方が強い。
ゴシゴシと頬を擦る。口元が緩んでくる。

【空】うん、終わったかな。
あぁ、殺せて良かった。

胸を撫で下ろす。煙草に火をつける。
肺の中に気持ちいい煙が満ちる。

勝利の余韻ってやつ。
これでお金が貰えれば、
言うこと無しなんだけどな。

【さとり】……お空さん!

背後からさとりの声。
せっかく修羅場を乗り越えたのに、
重苦しい声音は焦ってもいるようで。

お小言でも言われるのかな。
殺しを楽しんでる風に見えたかも。
私はちょっぴり嫌な気持ちで、

【空】何? 後にしてくれる?
この一本が格別なんだから。

【さとり】そんな暇はないです!
すぐにここを離れるべきです!
ムラサさんも一緒に!!

【さとり】小型の獣がこんなに居れば、
すぐにでも大型の獣が押し寄せてーー

ーーOOOOOoooOOOoo!!ーー

【空】ッ!!?

聞こえてきた叫び声に戦慄する。
空気を震わせる怒号のようなそれ。

あのときに聞いたもの。
地面がはち切れるんじゃないかと思うほどの
凄まじい揺れを伴って。

【さとり】お空さん!!

さとりの声でハッとした私は、
まだ火をつけたばかりの煙草を捨てて、
寝ているムラサの方へ駆け出す。

けれど、接近があまりに早い。
局所的な地面の揺れが
瞬く間に近づいてくる。

ムラサを抱えようとする。
意識を失ったヒトの身体は重い。
満足に彼女を抱える暇もなくーー

【空】ーー駄目、間に合わない!

ーーOOOoooOOoo!!ーー

咄嗟に吐いた泣き言が、
拳の獣の咆吼に飲み込まれる。

天井に空いていた穴から
差し込んでいた月明かりが、途切れる。
暗い影が落とし込まれて。

そして、間断なく続いていた
揺れが不意に止まったかと思うとーー

ーーOOOooOOOoooOoo!!!!ーー

鼓膜を突き破るような轟音と同時に、
私たちのいたアジトの屋根が
拳の獣によって毟り取られる!

ひしゃげた屋根の瓦礫が雨霰と降る。
私たちは岩屋を取られた虫みたく縮こまって。

【さとり】っく、!!

【空】っ、この!!

拳の獣めがけて銃を乱射する。

弾丸は1発たりとも外れなかった。
なのに、拳の獣はみじろぎすらしない。
悠々と、毟り取った屋根を放り捨てて。

ーー駄目。
私の銃は大型の獣には通用しない。
あの獣に対抗することはできない。

なら、どうするの?
私に、どんな手段が取れるの?

また、さとりに頼るの?
あの黒い炎を顕現させて?
辛い思いを、また味わわせて?

【さとり】お空さん! ムラサさんを!

さとりが悔悟の棒を構える。

また、あれをやるつもりだ。
また、あの炎に自分の身を喰わせてーー

【空】で、でも……!!

【さとり】問答無用!!
私のことは気にしないでください!

【さとり】今はそんな場合じゃなーー
ーー。
…………。

【さとり】…………。

不意に。
何の前触れもなく。

さとりが黙りこくってしまう。
呆気に取られたように目を見開いて。

【空】え、え!?
さとり!? さとり!!

慌ててさとりの肩を揺する。
でも、何の反応もない。

目の焦点がどこにも合ってない。
私のことはおろか、
目の前の拳の獣さえ見ていない。

【空】どうしたの!?
さとり!! ねぇってば!!

【さとり】…………。

思い切り力を込めて揺さぶっても、
さとりは何の反応も示さない。
まるで機関のスイッチを切ったように。

ーーOOOOoooo!!!ーー

息を呑む間もなく拳の獣が
開いた手のひらを振り下ろしてくる!

私は何も決断できないまま。
さとりも様子のおかしくなったまま。
なす術もなく叩き潰されるーー

その瞬間、

ーー!!

猛然と迫り来る拳の獣の手掌を、
ピンクの雲の手が受け止める!

がっしりと組み合う二つの巨大な手。
それらはギリギリと軋むような音を立てて、
私たちの頭上スレスレで組み合って。

【ナズーリン】君たち、何してる!?

身軽に瓦礫の上を跳んできた
ナズーリンが、およそ正気じゃないと
言わんばかりに両目をひん剥いて、

【ナズーリン】ちょうど雲山が戻ってなかったら
死んでたぞ!? 何をぼんやりしてる!?

【空】で、でも、さとりが……!!

【ナズーリン】おい、おい!

さとりの服を掴んだナズーリンが、
彼女を激しく前後に揺する。

それでも、さとりの反応はない。
ナズーリンはグイッと彼女の
襟元を引き寄せて両目を覗き込んだかと思うと、

【ナズーリン】むぅ、これは……。
駄目だな……。

【空】駄目ってなに!?
さとり、どうしたの!?

【ナズーリン】話は後! 撤退するぞ!

【ナズーリン】雲山が獣を相手してる間に、
私のネズミたちに二人を運ばせてーー

【さとり】ーー閻魔代行者……。
古明地さとりの、名において……。

不意に、さとりが口を開く。

【さとり】ーー審判妨害罪を請求、する。

熱に浮かされたような口調で。
視線も判然としないまま。

それでも、悔悟の棒をしっかりと構えて。

【さとり】ふんぐるい……むぐるうなふ……。

紫色の数式たちが、
さとりの身体に収斂していく。

悔悟の棒を持っていない左手に、
びっしりと網目のような陣が敷かれて。

【空】伏せて!!

【ナズーリン】え、うわっ!!

ナズーリンを抱えた私は
そのまま地面に倒れ込む。

ムラサは、起きてない。
私は頭上の雲山を見上げて、

【空】雲山、早く!
こっち!!

拳の獣の猛攻を食い止めてくれていた
雲山は、私の声を聞いて、
すぐに意図を汲んで来てくれた。

空気が張り詰める音がする。
閻魔の悔悟の棒が演算する音がする。

チクタク。
チクタク。
チクタク。

【さとり】……開門。

【さとり】『劫火を灯す黒き左手(イォマグヌッソ・シニスター)』

途端、さとりの左腕が燃え上がる。
無間地獄よりも濃密な、黒い炎。

周囲の空気が一瞬で沸騰する。
さとりが声にならない叫びをあげる。

私には想像することもできない苦痛。
彼女の苦悶の表情に、
胸が張り裂けそうになる。

どんなに筋違いと言われようと。
たとえ余計なお世話だとしても。

痛いものは、痛い。
親しいヒトが苦しむのは、辛い。
そんな簡単なことなのに、私は判らなくて。

【空】……さとり!

知らず、私は叫んでいた。

見るに耐えない。
心、痛くて、砕けそうになる。

無力な自分が嫌になる。
何もできないことが苦しくなる。
役に立たない自分が無価値に思える。

壮絶な熱波の吹き荒ぶ中、
ただ1秒でも早く、この時間が
終わることを祈ることしかできずに。

【さとり】……閉、門……っ。

悍ましい熱の暴風が止む。
周囲の瓦礫が燃え上がる音。
さとりの身体が倒れ込む音。

【空】さとり!!

立ち上がった私は、
さとりのもとへ走り寄り、
倒れ込む彼女の横に膝をつく。

相変わらず、ひどい。
憔悴しきった彼女の顔は屍蝋のよう。
焼け焦げた左腕は瓦礫の燃え滓と大差ない。

こんな酷い目に遭っておいて、
元通りになるから大丈夫なんて、
ぜんぜん、そんな風に思えない。

【ナズーリン】……けほ、なるほどね。
さっきもこの調子で、
血の獣を薙ぎ払ったわけだ。

ナズーリンが雲山を伴って、
周囲の惨状を冷ややかに見据えたかと思うと、
苦悶の表情で倒れ込むさとりを見下ろす。

喜んでいる風ではまったくなかった。
言いたいことが山ほどあって、
それを懸命に飲み込んでいる顔だった。

案の定、彼女は大きなため息を吐いて、

【ナズーリン】素直にお礼も言えないな。
こんな有様を見てはしゃげるほど、
落ちぶれてはいないつもりだよ。

【ナズーリン】是非曲直庁は仏門の教えと
乖離してしまったのかい?

【ナズーリン】ジャータカの逸話じゃ、
火に飛び込んだウサギは帝釈天のお導きで
死ななかったと思ってたんだがね。

【さとり】……是非曲直庁の考えではありません。
これは、私の閻魔代理としての意地です。

左腕の再生が終わったさとりが立ち上がり、
額に浮かんでいた汗を拭った。

【さとり】この地の管理を任されました。
それは、妹と穏やかに暮らす唯一の道です。
感受性と読心能力が強すぎるあの子と。

【ナズーリン】視野狭窄に聞こえるね。
それに、手段と目的が逆転してないかい?

【さとり】逆転けっこう。
私は与えられた責務に縋るしかないのです。

【ナズーリン】痛くても苦しくても?

【さとり】ただ痛いだけです。
ただ苦しいだけです。
私が痛くて苦しい分には構わない。

【さとり】ただ、たったひとりの妹を
救えればそれで良い。
たとえ、この身が灰になっても。

【ナズーリン】ふぅん。そうかい。
ま、止めるつもりもないけどね。
そこまで思い詰めているのなら。

【ナズーリン】やっぱり視野が狭いとは思うがね。
何でもひとりで背負うものじゃない。
辛いときは誰かに頼った方がいいよ。

【さとり】私は辛くありません。

【ナズーリン】別に是非を問うてないよ。
ただの老婆心だ。

軽い調子でさとりの視線を躱した彼女は、
くるりと私たちに背を向けて、

【ナズーリン】一輪は、その辺に居るんだろう?
ムラサともども、回収しておくよ。

【ナズーリン】こんな状況を目の当たりにして
説教したい気持ちは山々だけど、
君の準備が整ってないみたいだからね。

【ナズーリン】またの機会にするよ。
それまでに、これだけは考えておいてほしい。

【ナズーリン】結果だけがすべてじゃない。
過程だって同じくらい重要だ。
我々の修行に意味があるのと同じ。

【ナズーリン】少なくとも私は、
君に全てを任せて良い気にはなれないね。

ナズーリンが冷たく言い放って、
雲山を伴って立ち去っていく。

ひどい言い草。
だけど、否定する気になれない。

だって、私も同じ気持ち。
あの黒い炎に頼ると言うのなら。

【さとり】…………。

さとりはその背中が見えなくなるまで、
ジッと彼女のことを見つめていた。

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