Coolier - 新生・東方創想話

セルトラダートの吸血鬼

2022/06/03 23:13:36
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 私が目を覚ましたとき、メリーはスツールに腰かけて本を読んでいた。
 真剣な彼女の面持ちが何だか珍しく感じて、私はベッドに横になったまま、しばらく眺めていた。いつの間にかナイトガウンも着替えて、見慣れたワンピースに袖を通している。掛けているボストンタイプの金ぶち眼鏡はインテリっぽく見えるけど、実は伊達であることを私は知っている。ハードカバーの本は魔術書みたいに重厚難解な雰囲気を醸しているけど、中身は『星の王子さま』だ。あれ一冊で並みの大学生なら数人囲えるほどの値打ちがあると聞いて舌を巻いた記憶がある。手で持てるフォーマットの物理書籍なんてブルジョワだけに許された高根の花だけど、ロマンチックで素敵だなって思う。
 視線に気付いたのだろう。スッと顔を上げたメリーは、私が起きていることを認めると、恥ずかしげに笑みを描く。

「起きたなら、言ってよ。おはよう、とか」
「えぇ、おはようメリー。私が無防備だったからって、変なことしなかった?」
「なーに? それ。仮にしたって言ったら、どんな糾弾が飛んでくるのかしら」
「べっつにー? メリーが寝てるときを見計らって、いつものアレをするだけだし」
「……え? え? いつものアレって何?」

 メリーが開いたままの本で口元を隠して、視線をキョドらせる。踏み込んでくるくせに切り返しの下手っぴな、いつものメリーだった。可愛い奴め。

「そろそろ夜になった頃かしらね」

 デバイスで時間を確認する。だいたい18時くらいだろうと予想をつけてたけど、時刻は18時37分22秒。30分近くも体内時計がズレてしまっている。我ながら、なんと呑気なことだろうか。ベッドから起き上がり、グッと身体を伸ばす。

「ちょっと、蓮子。いつものアレって何よ」
「え? 何のこと? また夢の話?」
「え? 嘘でしょ?」
「よく判らないけど、もう日没時刻も過ぎてるし、ちゃっちゃと活動に移るわよー」
「私がおかしいの? いや、そんなはずは……」

 羽織ったケープのボタンを閉めている間、メリーはずっと釈然としない顔を浮かべていた。スツールから立とうともせず。

「あ、別に私、メリーが寝てる間に、アナタにしてる悪戯なんて無いわ」

 仕方がないのでネタバラシ。もう! と頬を膨らませたメリーが勢いよく立ち上がって、

「疑心暗鬼になるところだったじゃない! 乙女の純情な感情を空回りさせないで!」
「疑心暗鬼なんかになってる場合じゃないでしょ? 吸血鬼メリー。私、アナタのことを当てにして、今後の作戦を立ててるんだから」
「そういえば、そうだったわ」

 思い出したように呟いて、メリーは機嫌を直した。フゥ、と頬に手を当てた彼女の様子は如何にも劇場型で、オペラも斯くやとばかりに力なく首を横に振り、

「あぁ、もう私は闇の住人なのね……大手を振って太陽の下を歩けないナイト・ウォーカー……陽だまりを散歩して、公園のハトに餌をやる穏やかな日々を送る夢は果たせないのね……」
「もう公園なんかにハトは来ないでしょ。あんな大きな有機生物が街中で見つかりでもしたら、Natureが黙ってないわ」
「あのね? そういうことじゃなくてね?」
「ボヤボヤしてないで行くわよー」

 無視して寝室のドアノブをひねる。オートで電灯の点いたリビングで4秒ほど待っていると、メリーは渋々といった感じでついてきた。顔色を見るに、ちょっと拗ねてる。心が痛むことこの上ないが、生憎、メリー劇場を堪能している余裕は無いのだ。
 デバイスで自律輸送六輪(ハニカム・キャブ)を手配する。幸い、マンションに待機していた常設機体がレスを返してくれた。行き先を伝え、iamからクレジットがリンクされるのを見送っていると、メリーが私の肩越しにニュッとデバイス画面を覗き込んでくる。

「『タチコマ』?」
「言ったでしょ? 最短距離を最速でって」
「あらま、あんまり本気にしてなかったのに」

 メリーが目をパチパチさせる。自律輸送六輪(ハニカム・キャブ)。正式な略称はCabとされているけれど、そう呼んだところで誰にも通じない。みんな、商標の問題で取得することが出来なかった『タチコマ』の愛称で呼びたがる。ギークの熱意は時代を超えて、なお衰えない。喋らないし個性もないし、熱光学迷彩も榴弾発射器(グレネードランチャ―)もなくて、ただ乗客を目的地に送るだけの六脚ヴィークルに過ぎないというのに。
 とは言え、一介の大学生が足に使うには便利すぎるし迅速すぎるし、何より高価すぎる。どの程度かというと、お嬢様で在らせられるマエリベリー・ハーンでさえ、よほど絶望的に寝坊したときくらいじゃなければ乗るのを躊躇するほど。
 けれど迅速な点と、ある程度人目を忍べる点を考慮して、採用することにした。トレーサビリティの権化みたいな京都市街で、プライバシーを確保できるアドバンテージを見逃すわけにはいかなかった。

 なんせ、手段と目的がバッチリ違法行為だもの。

 玄関で靴を履き、つま先をトントンする。自動で開いたドアを抜けて、共用廊下の窓から外の空模様を確認する。もう陽は暮れて、嵐山の稜線がわずかに紫掛かっている程度。後ろを向くと、ブーツの靴紐を結び終えたメリーが、事情のよく判ってなさそうな顔で小首を傾げる。

「どうかした?」
「どうもしないわ。メリーだな、って思っただけ」
「はい、メリーでございます」
「それは何より」

 言って、歩くのを再開すると、小走りで隣に並んできたメリーが不満げに唇を尖らせる。

「つーん」
「ん? ご機嫌斜め?」
「当然よ。何か企んでるときの蓮子って、いっつも説明不足なんだもの。振り回されてる私の身にもなって欲しいものだわ。そろそろ遠心力で千切れちゃうんだから」
「そうかしら?」
「そうよ」
「でも、推論と仮説をダラダラ話しても、かえって混乱するでしょ?」

 エレベーターに乗りながら肩を竦めてみせる。メリーはプイッと私から顔を逸らして、エレベーターのウィンドウガラスに寄り掛かった。星の瞬き始めた空を背にする彼女は、メルヘンのお転婆なプリンセスに見える。エレベーターが降下を始めた。

「のらりくらりね。自覚は?」
「んー、ある、かな……」

 匣の内側をスキャンするかのように、一瞬だけサッと影が差し込んだ。
 それに合わせて、メリーが表情を変えた。

 コマ撮りアニメめいて黒く切り取られたその一瞬には、メリーの変化を劇的なものに演出する視覚的な効果があったらしい。拗ねた表情から一変、愉しげに唇を綻ばせる彼女は、まるで人知を超えたナニカが乗り移ったようにさえ見えた。

「――じゃ、あえて言わない理由があるってことね」

 彼女が表情を変えたことの相乗効果だろうか。言葉の響きが奇妙に凛として、ナイフみたいに鋭く私の意識に切り込んでくる。認識にノイズが走る。空間が拡散と収斂を繰り返す。次元が虚数を孕む。違和感が私の皮膚を粟立たせる。

「だったら、訊かない。蓮子のこと、信じてるもの。きっと私を愉しませてくれるわ。そうでしょう?」

 私が彼女に異質を見出すとき、マエリベリー・ハーンは何か人知を超えたモノに接続している気がしてならない。私が未だにメリーを測りきれないのは、この胡乱な妄想に違いない感覚が、あまりにも当然の素振りで私の常識と世界観を蹂躙するからだ。

 拠所ない感覚に陥る。現実を構築する歯車の狂いに、たった一人で対峙してる気分。

「もちろんよ」

 チグハグなズレを飲み下すように、頷いてみせる。エレベーターが停止し、チンと軽やかにベルを鳴らす。まるでそれが現実改変の合図だったかのように、いつの間にかすべてのアンバランスは影も形もなく、そこにはただメリーと何の変哲もない空間が在るばかりだった。

「久しぶりだわ。タチコマに乗るの」

 メリーが棒立ちの私の横を涼しい顔で通り過ぎ、ロータリーへ出ていく。その背を追うように私もエレベーターから降り、すぐ外に待ち構えていたタチコマのバックドアから搭乗した。向き合う形に誂えられたシートに腰かけると、タチコマのドアは音もなく閉まり、微かな水平移動のGが、お尻越しに発進を静かに伝えてくる。

「かぼちゃの馬車って、こんな感じだったのかしらね?」

 車窓を流れる景色を見つめながら、独り言みたいにメリーが呟く。

「お城の舞踏会に行くわけじゃないわよ?」
「判ってるわよ。蓮子も私もシンデレラって柄じゃないでしょ。進行方向と逆向きに座ってると、なんだかテンション上がるって話」
「ヒロシゲを思い出すのかもね。あのときもボックス席だった」
「そうかも。旅行の記憶が想起されるってのは、確かにその通りだわ」

 囁くように言ったメリーが、それきり口を噤んだ。暗紅のベルベットの表面を、彼女の左手がさらりと撫でる。薄暗くなり始めた高野川の流れに沿うように、御所の方へ。繁華街が近づくにつれて、車内に差し込む街路照明が目に痛くなってくる。メリーは物憂げに、あるいは単純に退屈そうに、阿弥陀籤みたいに折り重なる空中回廊(スカイウォーク)や、トーキーで注意喚起を垂れ流す巡回丁稚装置(ジャニター)やらを眺めていた。
 神亀遷都以来一度も開いたことのない蛤御門を尻目に、タチコマはゆっくりと停車する。烏丸通り。御所の境界スレスレなのも相まって、この辺りは喧噪も遠い。

「最短距離を最速で来たにしては、仰々しいところねぇ」

 メリーが鼻白んだ風に辺りを見回す。繁華街に囲まれているというのに付近には誰の姿もなく、まるで都市のエアポケットのよう。まぁ、いくら天下の膝元たる首都京都の中枢とはいえ、定時後の行政区域なんてこんなものだろうとは思う。

「さて、行きましょ。誰にも見られないに越したことはないわ」
「不穏な台詞ね。結界省に殴り込みにでも行くつもり?」
「ちょっと違うわ。京都府警の庁舎に侵入するってだけ」
「……え?」
「ん?」
「……聞き間違いよね?」

 メリーが半笑いで尋ねてくる。真に受けるほど現実的じゃないけど、ジョークにしてはつまらないわよ。そうとでも言いたげな、ひどく弱々しい感じの笑みだった。

「ギャラリー 夕辻で起きた殺人事件の詳細を確認したいのよ」

 端的に目的を告げる。メリーは何も言わなかったけど、心なしか頬が引きつってるようにも見えた。私は続けて、

「もっと具体的に言うと、遺体の司法解剖の鑑定書を見たい。死因と致命傷は何なのか? 頸部の外傷から、本人のものとは異なるDNAは検出されたか? 現場の血痕から想定される失血量は、遺体の残存血液と矛盾しないか?」
「そんなこと知ってどうするの? 吸血鬼になった夕辻ミナに殺されたのでしょう? 吸血鬼に襲われたことを科学的に説明してくれる根拠なんて、鑑定書には載ってないんじゃないの?」
「逆よ、メリー。もし私の仮説が正しければ、私が知りたいことは全部、鑑定書に記載されてる」

 踵を返し、私は歩き出す。メリーとの問答を楽しむのも悪くないけれど、あまり時間を浪費したくはなかった。IoTカメラの犯罪係数計測パターンに引っ掛かるのも面倒だ。パタパタと小走りで私の隣に並んだメリーは、私の瞳の色を窺うように覗き込んできて、

「解剖鑑定書を見たいのは判ったけれど、どうして警察に侵入なんて」
「こっちの方が警備が手薄だもの。量子ネット上で警察の捜査関連資料サーバへのハッキングなんて、たとえスパコンが百万台あっても無理よ。可能性があるなら、資料サーバと同じサブネットに所属するローカル端末くらいね」
「だからって、警察署のローカル端末なら侵入できると考える根拠が判らないわよ。知らないけど、きっとIoTカメラとかセキュリティ・ゲートとか、生体情報認証(メタ-Auth)とかあるでしょう?」
「問題ないでしょう? 射程は半径8メートルなんだから」
「は? なんのこ――」

 途中まで言いかけたメリーが、まるで喉でも詰まらせたみたいに絶句する。自分の唇の端がニンマリとしてくるのを感じた。今の私、きっと史上最高に悪い顔をしていることでしょう。メリーの視線に、徐々に非難の色が滲んでくる。

「安心して。結界や境界の不正アクセスを伴う建造物侵入を取り締まる法律は無いから、別に犯罪でも何でもない」
「そりゃ、そうでしょうよ。バレたら結界省の実験用モルモットにされちゃうわ。まともに司法に裁いてもらう権利すら失うってことよ」
「バレないバレない。京都に吸血鬼がいるとか、個人が何の制約もなくスキマを操るとか、想定の範囲外も良いところよ。ましてや対策なんて、空が落ちて来たときのために支柱を建てておくようなものだわ。そんな在り得ざる懸念のために割けるリソースなんて、1bitたりともありゃしない」
「だとしても、そこまでして鑑定書を確認しなきゃいけない? 私、少しくらいなら回り道も悪くないかなって、思わなくもないけれど……」
「ふーん、ここまで来ておいて、逃げるんだ? 怖いの? 雑魚なの?」
「は? 逃げないんだが? 警察も結界省も怖くないんだが? 雑魚じゃなくて雑煮なんだが?」
「私、メリーのそういうノリの良いところ、大好きよ」
「……ノッておいて何だけど、私はときどき蓮子のことが怖くなるわ」

 そんなお気楽なやり取りをしているうちに、もう私たちは煌々と明かりの照る京都府警の建屋を前にしていた。厳めしい雰囲気の正門を通り過ぎ、なるべく人の気配のないところを探して外郭を散策する。
 どこも人気こそないけれど、少しばかり気を払って周囲を見れば、至るところにカメラが備え付けられているのが判った。それも当然で、防犯の観点から言えばカメラの存在を隠す理由なんてどこにもない。きっとどれもこれも、古今東西の犯罪係数パターンを網羅したDBとリンクしてるに違いなかった。いくら今のメリーが物理的な制約を超越するとしても、警察署を警備するカメラの前で一般市民らしからぬ不審な動きは晒せない。

「うーん……何というか、こう、うまいことカメラの死角になってるところってないかしら」
「私がカメラの設置者なら、そんなマヌケな仕事は死んでもしないわね」
「まぁ、そうよね……でも、8メートル分の空間跳躍ができると仮定すれば、まったくないとは思えないのだけど……」
「確かにそんな仮定に対応できるような防犯体制は組んでないと思うけど、そういうところ、出たとこ勝負なのね。何というか、蓮子らしいわ」
「えー、どういう意味よー、それー」
「度胸を褒めてるのよ。他意は無いわ。あ、ほら、あそこのカメラ、故障中みたいよ」
「んん?」

 メリーが視線をやった方を見る。
 なるほど、確かにレンズ部分が杜撰に梱包材で隠されているカメラがあった。
 それも目を凝らす限り、どうもひとつではないようだ。

「……なにあれ?」
「これ以上ないくらいのカメラの死角ね。確認出来る限りのカメラの俯瞰角度的にも、仰望角度的にも、あの一帯だけ誂えられたみたいに完全に監視の範囲外だわ」

 ポカンとする私の隣で淡々と分析したメリーが、訝しげに私を見てくる。

「……これもアナタの采配なわけ?」
「まさか」

 ブンブンと首を横に振る。そりゃ、警察署に侵入しても記録(ログ)に残らないような死角があればとは思ったけど、こんなご都合主義な展開を望むほどバカじゃない。

 壊れてるのが1台だけなら、幸運だったかもしれない。
 でも、見る限り少なくとも3台。雑に梱包材が貼り付けられたカメラがある。

 明らかに異常だった。そして異様だった。整然としたインフラの上で呼吸するのを当然に思う私の中の一般的な潔癖嗜好が、目の前のグロテスクな惨状に困惑していた。よりにもよって京都府警の足元に、セキュリティの死骸が適切な処置も受けずに散逸してる。

「罠だと思う?」

 メリーが目頭を指で揉みながら呻くように聞いてくる、

「誰が? 何のために?」
「安心したわ。蓮子も異常だと思うなら、私の頭がおかしくなったわけじゃないのね」

 言って、彼女はスッとポケットに右手を滑り込ませる。すると中空、ちょうど壊れたカメラたちの監視担当だったと思われる空間に、白い手のひらだけが出現した。一瞬ギクリとさせられたけど、どうやらメリーの仕業らしい。彼女はヒラヒラと振られる右手を真剣な目付きで見つめたかと思うと、小さく息を吐いて、

「……何も感じないわね」
「右手にセンサでも付いてるの?」
「いや、付いてないけれど。こう……罠とかだったら、あの辺りに入った時点で何か起きるかなって」
「疑いたくなるのも判るけど、罠である合理性が無さすぎるわ。言ったでしょ? 対策なんて想定の範囲外も良いところだって。カメラの故障を好機と見て、およそ尋常じゃない方法で警察署に侵入する誰かの存在なんか、もし真面目に議論する人がいたら、長期の休暇を勧める他にないわよ」
「じゃあ蓮子、この状況をどう判断する? 確かに前もって網を張ってるなんて馬鹿げてるとは思うけど、私には適切な説明が思いつかない」

 メリーが両手を挙げて降参の姿勢に入る。その気持ちは十二分に理解できた。私だって突拍子もなさ過ぎて理解を放棄してしまいたくなってる。忍び込んだ金庫の中に名前付きのWelcomeボートが掲げられてるのを見てしまった銀行強盗の気分だ。

「……たぶん、素直に受け取るしかないんじゃない? 同時に3つのカメラが破損したのよ。それも、ごく最近。で、新しいセキュリティカメラを導入する暇もなくて、おざなりな対処に留まってるっていう……」
「何それ? 同時に複数のカメラが破損するって、どういう状況? しかも、ちょうど警察署に密接したルートが死角になるような」
「私たちよりも先に、警察署に侵入した誰かがいたってこと……かしら」

 半ば冗談のつもりで口にしたというのに、その仮説は言葉にした途端に奇妙な納得感をもって、私自身の鼓膜から浸透して脳細胞を震わせてくる。

 ――そう。意図や介入なしに、この状況は生まれようがない。
 この場所。この空間。ここに、何者かがいた。
 その何者かが、付近のカメラを破壊したのだ。
 闇夜に紛れる自分の姿を、記録されまいと。

「――尋常じゃないわね。イカレてるわ。まさか警察署に忍び込むなんて大それたこと」
「ひょっとしてギャグで言ってる?」

 ポス、とメリーから突っ込みチョップを貰った。あくまで推測と仮定に過ぎないとしても、茶化さないとやってられない気持ちは判って欲しい。私の発想はメリーに顕現した能力という特殊な転換点があってようやく生まれるもので、その前提がないなら無謀という判断は至極真っ当だと思うのだけど。

「……何にせよ、想定外には違いないわね。撤退を考えるべきかしら」
「そう? 私は逆に冷静になってきたわ。前例があるのなら、私にもできる気がしてきた」

 ぐっぐっとストレッチするメリーが、想像以上に軽やかな足取りで監視の空白地帯に歩み出た。私が横からとやかく言うよりも早く、両手の親指と人差し指で作った長方形越しに警察署の外壁を眺め始める。
 メリーの指に切り取られた四角の領域が、辺りの闇を濃縮したように黒く染まって。
 彼女はその境界の向こう側に、警察署の内部を透かし見ているようだった。

「さてお目当ては……捜査一課資料保管室、かしらね。案内板を見るに。えぇと、2階の手前の部屋だから、多分この辺り……ビンゴ、ここね。明かりが点いてないわ。誰もいないみたい。お誂え向き過ぎて寒気がするわね」
「私は思った以上にメリーが能力を使いこなしてるのに寒気がしてる」
「ふふん、誰かさんのおかげで、練習する時間はたっぷりあったもの。それはそれとして……うん、なるほどね……」

 メリーが指で象った長方形を解除する。資料保管室の偵察は終わったのだろう。彼女は悩ましげに腕を組んだかと思うと、やにわに私の方を向いて、

「良いニュースと悪いニュースがあるわ」
「それってよく使われるフレーズだけど、情報のプライオリティに差異があるわけじゃないのよね。両方いっぺんに聞けたりしないのかな」
「私が二口女で、蓮子が聖徳太子だったなら、その方法もあったかもね。良いニュースは、資料保管室の物色は自由にできそうってこと。
 そう判断した理由が、悪いニュース。資料保管室の扉が規制線テープで封印されてたの。室内はひどい有様よ。デバイスやらメモリセルやら音声レコーダ、果ては紙なんてデッドメディアの資料まで。どれもメチャクチャに放り投げられてて、鞍馬の天狗風でも吹いたかのよう」
「先客がいたことは確かだってわけね?」
「署内の職員の仕業だったなら、始末書じゃ済まないでしょうね。きっと」

 頭を抱えたくなる。昨晩のアレを皮切りに、私が所属する世界の秩序がストライキでも起こしたんじゃないかとさえ思った。吸血鬼だけでも充分にお腹いっぱいなのに、天下の京都府警に殴り込みをかける未知のXの存在にまで首を突っ込んでいられない。オーウェルの二重思考(ダブルシンク)は、まだ技法として確立されていないわけで。

「……とりあえず、当初の予定に立ち戻りましょう。私は解剖鑑定書を確認したい。それさえ確認できれば、他のことには関与しないのが吉だわ」
「面倒に巻き込まれるのはゴメンだから、目的のブツだけかっ攫っちまって、あとはとっととずらかるって寸法ね?」
「言い方」
「合点承知でゲス。親分」
「言い方」
「あ、見つけたわ」
「嘘でしょ」
「ホントでーす」

 茶化す口ぶりながらメリーも私と気持ちは同じなようで、スキマからプリントアウトを引っ張り出す表情は複雑だった。指でつまんだそれを、彼女は見ようともせず、私に押し付けてくる。

「ねぇ、蓮子。本当に、罠じゃないと言い切れる?」

 腕組みをしたメリーは、さっきのおふざけモードはどこへやら、まるで私のことを責めてでもいるかのように冷めた表情で尋ねてくる。
 今度ばかりは、私もとっさに言い返せない。

「とんとん拍子にも限度があるわ。破壊されたカメラ……普通、ひとつでも壊された時点でセキュリティが反応するわよね? 荒らされた資料保管室……封印するだけして、見張りも置かず放置するかしら? プリントアウトされた解剖鑑定書……古典ミステリじゃあるまいし、どうしてわざわざ印刷してあるの? しかも何十枚も散らかってたわ。SDGs精神の欠片もない」
「…………」

 しばし、思考に意識を沈め込む。先入観(バイアス)を除去し、フラットにひとつひとつのマテリアルを解釈する。万難が排されてるのは、先客がいたから。では、官憲のリアクションが棚上げされてるのは? 求めてた資料が、持ち出しやすい形で大量に放られていたのは?

 同じ事件を、誰かが調査している?
 それも、行政が対応を放棄するほど想定外で、データのプリントアウトも碌にできないほどアナログな誰か。何か。

 ――それって。

「無いわ。ナシナシ。密室殺人のトリックに、どこでもドアを出すくらいナンセンス」
「何か思いついた?」
「なーんにも。状況証拠だけで断定ができるなら、ラプラスの悪魔が嬉々として復活するって話。信頼できない語り手が多過ぎたら、それはミステリじゃなくラヴクラフトかもって、土台そのものを疑わなくちゃいけなくなる」
「極論ね。芥川の藪の中も、外宇宙に繋がってるってこと?」
「その可能性はゼロじゃない。そういう話になるってことよ。まさしく悪魔の証明ね」
「ヘンペルのカラス」
「すべての馬は同じ色」
「キャロルのパラドックス」
「やめましょう。そこでそれを出されちゃうと、クオリアの話になるわ」

 私が両手を挙げて降参の意を示すと、メリーは唇を人差し指で突いて、

「確かに収拾がつかなくなるわね。馬の毛色で色彩検定もナンセンスだわ」
「ソクラテスじゃあるまいし、永遠に終わりのない議論は疲れちゃうわよ。幸か不幸か、時間は有限だしね。それじゃ、次の目的地に向かいましょ」

 折りたたんだプリントアウトをポケットに仕舞い、私はさっさと踵を返す。警報はない。駆けつけるセキュリティもない。私たちの蛮行を目の当たりにしたのは、今宵も天蓋に縫い付けられて手も足も出せない月と星々だけのようだった。

「他にも目的地があったの? てっきり、鑑定書を眺めながらの推理パートになると思ってたんだけど」
「もう目は通したからいい。推理することは何もない。結果的に、シナプスで併走させてた仮説のひとつが活性化したわ」
「なーに? じゃ、もう解決ってこと?」
「それは、まだ。もうひとつだけ、確認したいことがあるの。念のため」
「それってまた、『今はまだ、語るべき時じゃない』の発動対象になる?」

 メリーが過不足なくチャーミングな膨れっ面を見せて不満を訴えてくる。確かにせっかくメリーと一緒なのに、何も告げずに連れ回すだけというのも退屈だ。私は先ほどのタチコマをデバイスで呼びつけながら、メリーにフッと微笑みかける。

「あれ」

 言いつつ、人差し指を明後日の方向へ向ける。メリーの視線は指示した方へと視線を辿らせ、私の思惑通りに眉をひそめる。そこにあるのは、15mほどの高さを持つだけの、単なるビルの壁面だからだ。

「あれって言っても、壁しか見えないわ」
「そう、壁よ」
「壁が何なのよ」
「垂直に立ってるわよね。表面の素材は一般的にCFHP(カーボン・ファイバー・ヘキサゴン・プレス)で、静止摩擦係数はおよそ0.62。もちろん、角度は90°近いからcosθもほぼ0に近くなって、垂直抗力にも期待できないわ。

 さて、ここで問題。メリーはあの壁を垂直に駆け上がることが出来る?」

 タチコマがやってくるまでの短い間、メリーは終始ポカンと口を半開きにしていた。

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