重力に逆らうことが出来ないという枷は、なにも人間だけの特権ではない。
アイザック・ニュートンが林檎の落下から万有引力を見出したことから判る通り、この惑星に存在するすべての分子結合体は、星の真ん中を目指して落下し続けている。地面というものが存在するから、誰もがそのことを忘れているだけで。
タチコマは鞍馬街道をひたすらに北上し、私が入力した位置情報への最適ルートを駆け抜ける。233メートルごとに、私の量子口座から160円を引き落としつつ。痛みを伴うその事実から目を背ける私は、車窓を流れる花街の残像をぼんやりと追っていた。
「納得できないわ。蓮子が見たのは確かなの?」
窓枠で頬杖を突いたメリーが憮然とした口調で言う。どうも彼女は私からの問いに対して、自分自身の実現可能性からのアプローチを試みたらしく、自分には不可能だと悟ってからというもの、若干機嫌が悪い。
全能感に水を差してしまったわけで、ゴメンねって気持ちはゼロじゃなかった。
「間違いなく見てしまったから、わざわざ確認に行くのよ。壁を駆け上がる彼女を見た、という事実は否定も拒絶もできないから」
そんなわけで私たちを乗せたタチコマは、私が夕辻ミナに指示されたポイント目掛けて都市のテクスチャを縫うように進んでいる。昨晩の新興地区の、京都らしからぬ名もなき細道の果てへ。
タチコマのレイヤ表示曰く、目的地到着まで1分58秒。衛星画像と都市デバイスから導き出される運行予測モデルは、人間には知覚困難なマイクロ単位の時間の誤差すら発生させることはない。たった1秒の遅れも進みもなく、私はあの袋小路に連れ戻される。
「でも、痕跡とか残ってるのかしら? 翼を広げてたとは言え、蝙蝠みたいな翼だと羽根は落ちないでしょうし」
「痕跡は無いと思う。それを探すつもりもない」
私がそう断言すると、メリーはパチクリと瞬きをした。まるで資本主義を知らない子供が初めて紙幣を見たかのように。
「痕跡が無いと判ってるのなら、行く意味も理由も無いんじゃない?」
「意味も理由もあるわ。行けば、私の推論強度が上がるもの。SV900がSV950になる程度には、確認の価値はある」
「銀の純度だったっけ? コイン・シルバーがブルタニア・シルバーになるくらいなら、行くと行かないの差は大きいわね。銀貨と銀のアクセサリの比較はナンセンスだものね」
「それくらいの純度があれば、今回の銀の弾丸(シルバー・バレット)には、ちょうどいいはずよ」
徹底的に不快感を除外されたタチコマの緩やかな静止と共に、レイヤ上の数値が0になる。
昨夜の袋小路。あれから大して時間は経過していないのに、ようやく辿り着いた、という言葉を使いたくなってしまう。
私はタチコマのシートに腰かけたままデバイスを操作して、一般的な映像ライブラリサイトを開く。適当なタイトルを指示する。メリーがちょっとだけお尻を浮かせて、私のデバイスを覗き込んでくる。
映像はすぐに始まった。古いアニメーションだった。アルクェイドと呼ばれる金髪の美女が、月を背にするように市街地の屋根から屋根へ、軽やかに飛び移るシーン。
デバイスの上で映像をフリックする。操作の意図を瞬時に判断したデバイスが外部デバイスと連携し、アニメ映像を何の変哲もないビルの表面へ移動させる。さながらドライブインシアターのように。オールドファッションなシアター技術との違いは、京都の建造物にはほぼ必ず塗布されている双方向情報レイヤに拠る。投影ではなく、発光。受信した信号を、レイヤそのものが自発光して映像を鮮明に描写している。
この瞬間、推論は証明に
論理という銀で構成された弾丸の精製が終了した。
あとは銃を構え、照準を定め、弾を弾倉に入れ遊底を引き安全装置を外し――
――夕辻ミナという吸血鬼への殺意をもって、引き金(トリガー)を引くだけだ。
「終わったわ」
「終わってないわよ? ほら、まだ続いてる」
メリーが首を傾げる。どうやらいつの間にか、壁に映るアニメの内容に夢中になってたらしい。いいえ、終わり。そう呟いて、動画の再生をオフにする。メリーには申し訳ないけれど、タチコマは時速10km以下になると、90秒ごとに私の口座から160円を引いていくのだ。このままアニメを楽しんでいたら、私の量子口座が収斂崩壊してしまう。
私はデバイスの通話アプリを開き、夕辻ミナの連絡先をタップする。こちらから連絡して返答があるかは判らないけれど、他にアクセス経路が無いのだから仕方がない。
さて、吸血鬼退治を始めよう。
BETは済んだ。あとはCALLだ。
スピーカーホンをオンにする。最初は繋がらないものだと思っていたけれど、ミナは意外にもすぐ通話に出た。
『――思っていたよりもずっと早かったわね。びっくり。2日は引きずってくれるかと思ったのに』
「お生憎ね。その気になった私は、それなりにバイタリティがあるの」
『お友達を巻き込まれたから? 噂通り、仲が良いのね。妬けちゃうわ』
メリーが私のことを見る。驚きとか照れとか、色んな感情がごったまぜになった視線。デバイスと私の顔とを交互に見比べるメリーのことを、今はとりあえず無視しておく。締まらないので。
『その口ぶりだと、私のディナーになってくれるつもりはないみたいね?』
「えぇ、もう御託はたくさん。今どこに居るの? 位置情報通知は切ってるみたいだけど」
『家に戻ってるわ。なぜか知らないけど、ずっと詰めてた警察の皆様が、規制線テープだけ残して帰っちゃったから』
「そう。じゃ、これから行くから」
『えぇ、どうぞ。他に何かご質問は?』
「何も無いわ」
『本気さが窺えるわね。それじゃ、楽しみにしてるから』
そう言って、通話は切られた。私はそのままデバイス越しにタチコマへ目的地である『ギャラリー 夕辻』の位置情報を連携する。場所の承認を終えたタチコマが動き始めるまで、メリーはずっと神妙な面持ちのまま俯いていた。
「どうかした?」
「どうかしたも何も無いわ。どう考えてもおかしいでしょ。なんで警察が未解決の殺人事件の現場を無人にするのよ」
参ったな、と思った。メリーの指摘があまりにも妥当なものだったから。
その通り。どう考えてもおかしい。たかだか数日前に起きた事件の現場が無人になることもそうだけど、重要参考人であるはずの夕辻ミナが家に帰っているというのに、そのことを警察が察知してないらしいこともそう。日本の警察機構は相変わらず優秀だから、怠慢や予算不足で未解決事件を放置したりしない。ならばこの状況は、まったく別のプロトコルの介入によって、もたらされていると見るべき。
それは例えば、先の京都府警の惨状と同様の――。
「……端的に言うわね。メリー。ミナのもとに向かうのは、非常にリスキーだわ」
「それは彼女が吸血鬼で、結界省が介入してきているから、っていう意味で?」
「そうね。間違いなく結界省――つまり、国家安全保障局均衡管理課の意向は働いてる。『ギャラリー 夕辻』に警官がひとりもいなくなったのはそのせい。
理由は単純。避難のため。
『境界事故』が発生する可能性のある現場に、
ここからが心苦しい本題なんだけど……私はアナタに、ある意味では紛争地域よりも危険と言える『ギャラリー 夕辻』に、一緒に来て欲しいと言わなくちゃいけない」
私が言うと、メリーは意外だと言わんばかりの目を向けてきた。いささかの沈黙を経た末に、彼女は優美に微笑んで見せて、
「答えは決まってるけど、蓮子が私にお願いしてくる理由を聞きたいわ。えぇ、アナタの口から」
「理由その1:私がミナを退治する場に居合わせてもらわないと、アナタに掛かった吸血鬼化の呪いが解けないから。
理由その2:ここまで協力させておいて、美味しいところだけ私が持っていくと、メリーは間違いなくへそを曲げるから。
理由その3:私たちは秘封倶楽部だから」
「ありがと。とってもグッと来たわ。まぁ、答えは最初からYESなんだけどね」
「それこそ、そこに理由はあるの?」
「蓮子の挙げた理由と同じよ。だって私たちは秘封倶楽部だもの」
恥ずかしげもなくそう言って、メリーは向日葵みたいな満点の笑顔を見せてきた。たぶん、私が浮かべているそれも、大輪の花のようだとメリーに評されているに違いないと思った。人間の精神は肉体という檻の外へ出ることがなく、心と心が融和することはあり得ないからこそ、通じ合ったという観念は何よりも喜びをもたらすのだから。
BETは終わり、CALLも済んだ。
やれることをやり切った後で、運命に介入できない人間にできることなんて、精々が祈ることくらいだ。
だから私は、何もかもうまく行きますように、と心の中でそっと祈るのだった。