タチコマに運ばれて辿り着いた『ギャラリー 夕辻』は、たった数日で廃墟にでもなってしまったかのように不気味な静寂に包まれていた。
周囲に人家が無いからか、何の音もしない。時折吹く風が、張られたままの規制線テープと、前庭の芝生や花々を揺らす囁きをもたらすくらいだ。まぁ、あの草もあの花も不健全なまでの均整を保っている辺り、合成繊維で編まれたプリザーブドなのだろうけど。
ここまで私たちを運び回ってくれたタチコマに別れを告げて、周囲の様子に意識を巡らせる。いちおう、アングラのTracerouteアプリで半径100メートル内のデバイス有無を確認するけれど、真っ当な住居管理デバイス以外の不審な反応は無かった。もっとも、これもただの気休めで、結界省のモノはもちろん、警察の捜査用デバイスにさえ通用するかどうかは怪しいところ。なのでいつも通り、誰も見ていないことを目視で確認した後で、堂々と規制線の向こう側へと歩を進める以外、私たちにできることはなかった。
西洋風の屋敷には、明かりが灯っている気配もない。なにか
『――空いてるから、入って来てちょうだい』
インターホンから聞こえたミナの声に従い、扉を開く。ズシリと重たく、普段使いには難儀しそうなドアだと思った。扉の隙間から、濃密な闇が漏れてくる。後ろでメリーがゴクリと喉を鳴らす雰囲気があった。
突然、パッと明かりが灯った。
オレンジ色のシックな間接照明が、存外に広いホールの有り様を浮かび上がらせる。西洋風の甲冑、飾り彫りの凝らされた調度品、黒ずんだ金属の鳥かごや装飾品、そして紅いベルベットの絨毯におぞましく広がる、漆黒の染み。
背後で扉が閉まる音。
振り返ると、そこにミナの姿があった。
彼女は無言のまま私たちの脇を通り過ぎ、放射状に展開された染みの真ん中でゆっくりと振り返る。穏やかな微笑みを浮かべていたけれど、どこか心労を思わせる陰があった。
「ご足労、感謝するわ。良い夜ね。吸血鬼が狩りをするにはピッタリの」
「悪い夜じゃないのは確かね。吸血鬼を狩るにはもってこいだわ」
ピリリと空気が剣呑さを失って、横でメリーがミナを毅然と睨むのが判った。ミナは私の返答を受けてクスクスと笑って、
「今のアナタはヘルシング教授ってわけね。宇佐見蓮子さん。それでどうするの? 幸いウチはアンティークショップだから、対吸血鬼用の武器も揃えがあるわ。財布に余裕があるなら、買っておく?」
「結構よ。もう用意はあるから」
「あらあら、私のセールストークもまだまだね。それで? 宇佐見さん。アナタはどんな、とっておきの銀の弾丸を用意したのかしら?」
「えぇ、結論から言うわね――夕辻ミナ」
私はそこで呼吸を整える。鼓動が早まっていた。
私は不可視の拳銃を思う。今まさに吸血鬼を仕留めんと、銀の弾丸を込めた銃。
私はミナの顔を見据える。状況と物証。すべての証拠が、たったひとつの解を示している。
「――
メリーが息を呑む。確かに私の結論を聞いただろうミナは、しかし何も言わずに佇んでいるだけだった。まるで、その事実を突き付けられることを初めから知っていた囚人のように。静寂を破ったのはメリーだった。
「どういうことよ、蓮子? だって、アナタが言ったのよ? 彼女は吸血鬼を自称したのでしょう? 彼女のお父様の死体を見たのでしょう? 最後は壁を駆け上がって逃げて行ったのでしょう? それに私も襲われて、吸血鬼に――」
「すべてが狂言だった、ということよ。メリー」
そう、混乱する相棒に告げる。周囲に広がるアンティークの品々を物色しながら、ゆっくりと歩き出す。まるで三文ミステリに出てくる気取った探偵のように。
「そもそも彼女は、吸血鬼どころか殺人犯ですらない。遺体の解剖鑑定書を見たわ。死因は失血死。致命傷は頸動脈を貫いた2つの穴。これは確かだったけどね。解剖医の手に掛かれば、それが自傷なのか、それとも他傷なのかなんてすぐに判るのよ。
司法解剖鑑定書でミナのお父様は、鋭利な動物の牙を用いての自殺、と断定されていたわ」
恐らくその凶器は、きっと今もミナが身に着けているであろう、あの吸血鬼の牙なのだと思う。どうして彼女の父が自殺したのか。その理由は判らないけれど、吸血鬼に噛まれたという可能性は、すでに明確に否定されていたのだ。
「遺体に刺さっていた杭は、死後に刺されたものだとも書いてあった。これは状況証拠的にミナが刺したのは間違いない。だからそのときから彼女は、今回の吸血鬼騒動を起こす意思があったということになる。その語り部に選ばれたのが、
「私たち?」
「メリーに相談を持ち掛けた子がいたでしょう? あれも、この街に暗躍する吸血鬼の存在を印象付けるため。散々脅した最後に人並外れた脱出劇を見せつけて、その噂が広まれば、誰でも夕辻モリスの死と吸血鬼の存在を結びつけるわ。彼の自殺は、あたかも吸血鬼による他殺であるかのように語られる。まぁ、報道管制のせいか、その試みはうまく行ってなかったようだけど」
「その人並外れた脱出劇というのが、彼女が人間ではないことの証左なんじゃないの? 吸血鬼でもないただの人間に、壁を駆け上がって逃げることなんて、できるわけがないわ」
「もちろん不可能よ。だけど、そう誤認させることは難しくない。京都の建物に塗布されている双方向情報レイヤを使えばね。プロジェクションマッピングよ。壁を駆け上がる自分の姿を、壁自身に描かせただけ」
「それはそうだけど……」
メリーが納得できないとでも言わんばかりに顔を俯かせる。彼女の否定的な立場は、何よりも自分自身に起きた変化によって支持されている。さっきから探していた目当てのモノを見つけた私は、
「メリー、取って!」
「え、え?」
私が放ったモノを、メリーは反射的にキャッチする。手にした後に、それが何なのかを認識したメリーが、ひゃあ、と悲鳴を上げて手を離す。
彼女の手から零れ落ちて絨毯の上に転がったのは、純銀製の十字架だった。
魔のモノである吸血鬼なら、触れることすらできない聖なるモノの象徴。
「な、な、な、何するのよ蓮子! 私、吸血鬼化してるのに掴んじゃったじゃない!」
「でも、何ともないみたいね?」
「へ?」
虚を突かれたように固まったメリーが自分の両手をジッと見る。ややあって彼女は膝を折り、恐る恐るといった感じに足元の十字架を人差し指で突っつく。そこに特筆すべきリアクションは全く見当たらない。例えば皮膚が灼けるだとか、胸を押さえて苦しみだすとか。
「何ともないわ?」
「そうでしょうね。だってアナタは、吸血鬼になんてなってないもの」
「で、でも、だって……」
「メリーのは、単なる思い込みね。そもそも、自分で変だと思わなかった? アナタ、吸血衝動ないじゃない。私がアナタの横で無防備に寝てても、指一本触れなかったでしょ」
メリーには黙ってたけど、つまり私の検証はメリーの部屋で呑気に眠る時点で始まっていたというわけだ。メリーが容易く境界を捻じ曲げる能力を得てしまったのは驚愕の一言だけど、もともとメリーの能力はどんどん強まっていたわけで、ひょんな切っ掛けでどれだけ進化したところで、不思議はないのかもしれない。
「……言われてみれば、確かに……」
「――あまりウチの商品を手荒に扱わないで欲しいわ」
大きく溜息を吐いたミナが、メリーの足元の十字架を無造作に拾い上げる。
それはこの上なく明確な、彼女の敗北宣言だった。
私の論が間違っていたのならば、吸血鬼であるミナが十字架に触れるはずがないのだから。
「ずいぶん、あっさり認めるのね」
「もともと私の本懐じゃないもの。ただ父の自殺に意味と理由が欲しかっただけ」
十字架をテーブルの端に置いたミナは、ぽっかりと口を開ける虚穴のような視線を、その十字架に縫い留めたまま、
「昔から吸血鬼のオカルトに傾倒してこそいたけれど、それだってマニアの域を脱するほどの狂信じゃなかった。健康や金銭の不安もなかった。実の娘である私でさえ、どうして夕辻モリスが、あんなとびっきりの恐慌に襲われて、イカレた自殺衝動に駆られたのか、さっぱり判らない」
でも、と呟いたミナが私の目を見つめてくる。
彼女の特徴的な琥珀色の虹彩の輝きが、今はくすんでしまったように見えた。
「――判らないまま、父を狂った自殺者に貶められるのは嫌だと思う程度の孝行心はあった。私のホワイダニットなんて、そんなつまらないものよ」
「……謙遜ね」
彼女の告白に対して、私はその程度のリアクションしか返せなかった。
つまらないなんて、とんでもない。
並大抵ではない覚悟があったはずだ。肉親の亡骸に杭を突き立てる判断も。自ら父親殺しの化け物を名乗る決意も。それこそ、私の推し量れる閾値を遥かに超えた激情が。
私は探偵じゃない。シスターでも、警官でも裁判官でも弁護士でもない。ただの女子大学生の宇佐見蓮子でしかない。そんな私には、今まさに彼女が胸の内に抱えている感情をラベリングして、つまびらかに曝け出す権利なんてない。
「要件は終わり?」
「……えぇ、そうね」
「それじゃ、悪いけど帰ってくれない? もうこの場所に、アナタたちが求める神秘はないのだから」
「うん……そうする」
言って、メリーに目配せする。彼女も察したようで、コクリと頷き返してきた。今にも張り裂けてしまいそうなミナの在り様が心苦しくて、別れの言葉を言う気にもならなかった。
けれど私がエントランスドアに手を掛けたとき、ミナが思い出したように、
「言い残したことが2つある」
「……なに?」
「1つめ。アナタたちをサクラに仕立て上げようとしたのは、私の判断ミスだったわ。まさかこんな短時間で、しかも司法解剖鑑定書まで引っ張り出して秘密を暴きにくるなんて想像もできなかった。憎たらしいくらい、私の完敗よ」
思わず振り返る。力なく微笑むミナの表情は、どこか晴れやかだった。まるで肩の荷が下りた、とでも言わんばかりに。
『判って欲しかったの』
『審美眼、とでも言えばいいのかしらね?』
『誰もが価値を理解できるわけじゃないの。アンティークと同じ。優れた逸品と雑多な贋作の違いは、判る人にしか判らない。アナタなら、それが理解できると思った』
ミナが最初に口にした言葉の意味が、ようやく判ったような、そんな気がした。
「もう1つは?」
「アナタの推理、ひとつだけ間違いがあったわ」
「どこに?」
「さぁ? どこかしら?」
「……意趣返し、と取っていいのかしらね?」
「ご自由に。それじゃ、またいつか」
悪戯っぽく笑ったミナが、小さく私たちに手を振ってくる。
いつか、という言葉が、私の心に重く響いた。
彼女は殺人犯ではないけれど、死体損壊罪には問われるだろう。なぜなら彼女は人間だからだ。
人間だからこそ。
夕辻ミナにも、人間を律し、人間を赦すための規範が適用されるのだ。
「――えぇ、またいつか」
「ミナさん。今度、アナタとゆっくり話したいわ」
「私もよ。マエリベリーさん。巻き込んじゃってゴメンなさいね?」
「うぅん。いいの。それじゃ、また今度」
メリーが微笑む。その横顔を見ながら、いつか本当に、ミナと3人で話が出来たらきっと楽しいだろうな、って思った。色々なことを。オカルトや論理について。私たちが辿ってきた冒険の数々を伝えたら、きっとミナも驚くに違いない。
一夜限りの舞台にも、もう幕は下りた。演者も袖へ引っ込むタイミングだ。
そうして、私たちは彼女のもとを去る。
『ギャラリー 夕辻』の重たい扉が背後で閉じて、月と星々の輝きが静かに私たちを迎えた。