自動販売機で缶コーヒーを買う普遍性は、きっと人間が肉体を放棄しない限り永遠だ。指紋認証(FP-Auth)による電子決済で無糖のコーヒーを買いながら、そんなことをふと思う。
タチコマを乗り回すなんて贅沢をやってしまったから、ミナの屋敷からの帰りは徒歩だった。東大路辺りまで戻ってきたけれど、私の下宿までも、メリーの下宿までもまだそれなりに距離はある。今日は良い月だから、歩いたって罰は当たらない。今月は財布の紐を固めにしなくちゃ、と思いつつコーヒーを啜る。
「――ありがと! お姉ちゃん!」
「いえいえ、どういたしましてー」
元気いっぱいに手を振りながら走り去る少女に向けて、メリーはとっておきの優しさを披露していた。どうやら迷子になってしまったらしく道を尋ねてきた少女に、メリーはたっぷり3分ほど費やして、丁寧に道を教えてあげていたのだ。
少女の金髪が夜風に揺れる。
メリーと同じくらい、艶々と優雅なブロンドだった。
「ちゃんと教えてあげられた?」
「もう、馬鹿にして。当然でしょ。細かい通りの名前だってバッチリ暗記してるし」
「可愛い子だったわね。お人形さんみたいだった」
「おっと、浮気かしら? 普段からブロンドの美女を連れ回しておいて」
「思想信条の自由は憲法の保障範囲内でしょ。内心でどう思ってても、行動に移さなければセーフ」
「それって、目移りしたことは事実ってこと? とんだブロンドフェチね」
「私はメリーが髪を染めても、メリーのことが好きだけどな」
「そ、そう?」
えへへ、と照れくさそうに彼女は笑う。コーヒーを飲み干しながら、チョロいという言葉が脳裏を過ってしまう私なのだった。
「そういえば、何もなかったわね」
何かを思い出したようにポン、と手を叩いたメリーが不思議そうな顔で言う。一瞬、言っている意味が判らなくて首を傾げた。
「なんのこと?」
「結界省のこと。警察が避難するほどの『境界事故』が発生するかもしれないって、蓮子が。でも、あそこに結界の綻びは微かなものさえ見当たらなかった」
「そうなの?」
「本当よ。これでも私、最大級に周囲を警戒してたんだから」
メリーがフフン、と腕を組んでドヤ顔を披露する。言われてみれば確かに、何もなかった。私たちの侵入も退去も、誰にも何にも見咎められることはなかった。結界省の監査官が張っていたなら、警戒区域に入ろうとしていた私たちを止めないのも、おかしな話。
「じゃ、そこは私の推理ミスね。行政の仕事は複雑だし、私は内情をハックしてるわけじゃないし」
「じゃあそれが、ミナが言っていたアナタの間違いってこと? きっと、そうじゃないわよね?」
のんびりとした口調で、ずいぶんと痛い所を突いてくるな、と思った。
そう、それはミナの指摘した私の間違いとは違う。
結界省関連の推論を、私はミナに一言も喋っていないからだ。彼女にも指摘のしようがない。
それじゃ、私の推理のどこに穴があるのかと考えると、これがさっぱり判らないのだ。
実はさっきからずっと脳内の検証事項を洗っているのだけど、筋の通らないところはひとつもない。と思う。
だからと言って、ミナが嘘をついたわけでもない。とも思う。私の用意した銀の弾丸には確かに瑕疵があって、でもそれが判別できないのは、もどかしくて堪らない。長広舌を振るっただけに、彼女の意趣返しはボディブローのように効いていた。
「――あ、こんばんは、ハーンさん」
2人して思考に耽っていたところ、不意にメリーに声を掛ける人がいた。男性だったらいつものナンパかな、と思うところだけど、女性の声。ハッと顔をあげるも、私の知らない顔だった。たぶんメリーの学部の友達なのだろう。
「あら、こんばんは。また夜に一人で出歩いているの? この前、ひどい目に遭ったばかりなのに、大丈夫なの?」
「うん、平気。というかむしろ、積極的に……」
たはは、と笑った彼女の表情とは裏腹に、メリーの表情がサッと曇った。
「え……? どうして?」
「寝ても覚めても、あの瞳が忘れられなくて……変かな? 私」
「……メリー、もしかして」
「ん? あぁ、そうよ。私に吸血鬼の話を打ち明けてくれた子」
メリーがさらっと彼女の紹介をしてくれる。マクロ幻想社会学の講義でよく話す子だということ。たまにランチを一緒にすること。一息で彼女のプロフィールを伝えてきたメリーは、彼女に向き直ると腰に両手を当てて、
「変かどうかで言えば、ハッキリ異常よ。アナタは至極まともな科学原理主義者だったじゃない。なのに、殺されるかもしれないと思った吸血鬼を、今は探してるなんて」
「だよね……うん、自覚はあるんだ」
「なら」
「でも、気持ちを抑えられないの」
そう言った彼女の表情に、私はゾッとさせられた。
熱に浮かされているような、異端の宗教の教義(ドグマ)に染め上げられたような、燃え盛る虚無とでもいうべき瞳。精神科医じゃなくても判る。この子は何かに獲り憑かれてしまっていて、今すぐに重セラピーが必要なほどの重症者だと。
「……生憎、アナタの気持ちは叶わないわ」
逡巡の末、メリーが窘めるように語り掛ける。
「私たち、そのことでずっと活動してたの。それで、もう結論は出た。吸血鬼はいないわ。アナタの体験が鮮烈だったのも判るけれど、それは単なるトリックで――」
「単なるトリック!! あはは、セラピストと同じことを言うのね!! 年がら年中オカルトを追い掛けているアナタが!!」
道行く他人がギョッとするほどの激昂を見せた彼女が、ヘラヘラと笑いながら苛立たしげに自分の髪の毛を引っこ抜く。
私はもちろん、彼女と親交のあるメリーでさえ、その豹変ぶりに言葉も出ない。
「トリックなんて無いわ! 説明できるわけがない! 眼よ! あの瞳!!! あの瞳に捕らわれただけで、一切の身体的自由を剝奪されたのよ! 操り人形みたいに!! 自分の身体が! 自分の意思で動かなくなるあの感覚!! そうよ、あの目、め、眼が――
――あの宝石みたいな、
その叫びを聞いて――
――私とメリーは、顔を見合わせるしかなかった。