デバイスに着信通知はない。
知らず、ため息を漏らす。それを耳聡く察知したメリーが、キュッと眉をひそめて、
「あらあら大変。蓮子の幸せが逃げて行っちゃった」
「見かけたら捕まえておいて。今度は逃げないようにGPSをつけておくから」
「いいわね、それ。ドッグタグも付けましょう。どこの誰の幸せなのか、すぐ判るように」
メリーがダージリンを優雅に傾ける。私はテーブルの上に置いていたデバイスを鞄に仕舞った。せっかくメリーと一緒にいるのだから、秘封倶楽部に集中するべき。でも彼女は私が無理に意識をスイッチさせたことに気付いた風で、心配げに、
「もう3日だっけ? その、蓮子のお友達が行方不明になってから」
「……えぇ、そうね」
友達。果たしてミナを友達と呼んでいいのだろうか。
彼女とは大学に入って再会したときに連絡先を交換したきり、疎遠になっていた。会えば挨拶くらいは交わすけれど、逆に言えばその程度。それも月に一度あるかないか。
そこに大した理由はなかった。
だからこそ、なんだと思う。
私にも彼女にも積極的に親交を深める理由が特になかった。日々の生活を熟しているうちに自然と埋没していって、気付けば交流が無いまま、という感じ。
とはいえ、行方不明になったと聞けば心配にもなる。
――ましてや、お父様が亡くなっているともなれば尚更。
「私もニュースで見たわ。下鴨のアンティークショップ。私、あそこ行ったことあったから、ビックリしちゃった」
「え? メリー、行ったことあったの?」
「えぇ、たまたま。色々変わったモノがあったわね。お店に並んでる商品を眺めてるだけでも、けっこう面白かったわよ。例えば……ちょっと思い出せないけど」
「忘れちゃってるじゃない」
「しょうがないでしょ。ずいぶん前のことだし。何か買っていたら違ったかもしれないけど、何も買わなかったし」
メリーは悪びれもなく澄まし顔で言って、モンブランを一切れ口に運ぶ。いちいち頬を緩ませる様は実にキュートだ。きっと彼女が舌鼓を打つたび、世界のどこかから争いごとの種が消えるのだろう。
私もケーキを口にする。季節のフルーツケーキ。特に、瑞々しいブドウの甘さが濃厚で、とても美味しい。グルコースの摂取を感知した脳神経がβ-エンドルフィンを分泌させたおかげか、少しだけ胸のモヤモヤが晴れた気がした。
殺人と行方不明は私たちの管轄じゃない。秘封倶楽部が暴くのはミステリではなくオカルトで、前者の解決は京都府警の仕事だ。私には関係ない、と割り切ることは難しいけれど、デバイスで連絡を試みる以上のことが出来るとも思えない。
気を取り直して、メリーとの会話に勤しむことにしよう。
「それで、今日のテーマは何なの? メリー。ずいぶんと出し惜しみ気味だけど」
「あら、ようやく、その気になってくれたのね。嬉しいわ」
メリーが薄っすらと目を細めて笑う。傾国の妖狐もかくや、といった感じ。メリーのこういう妖艶な表情は妙な威圧感があって素敵だ。けっして一筋縄ではいかない予感を匂わせて。
「――最近、吸血鬼の目撃情報が広まってるの、知ってる?」
呼吸が喉に引っ掛かりそうになった。衝撃、からの空白、からの連想。それはあの日、ミナが私に見せてくれたペンダント。
偶然――に、決まってる。
メリーは、ミナのことを知らない。夕辻ミナと吸血鬼を結びつける情報はない。だからメリーにとっては、何の関係もない話題。そしてそれは、私にとっても同じはず。実際に起きた殺人事件と、吸血鬼の目撃情報。そこには何の因果関係も存在しないのだから。
「……いや、初耳ね」
「だろうと思った。なんたって表沙汰にはなってない、超裏秘ネタだもの。たまには私が、蓮子の鼻を明かさないと」
フフン、とメリーは自慢げだ。京都でドヤ顔選手権を開催したら一位になれそうなほど。色々と言いたいことがあるのは置いといて、私は率直に一番気になる点を尋ねてみる。
「表沙汰になってない超裏秘ネタなのに、なんで目撃情報が広がってるって言うの? 矛盾してない?」
「フフフ、私の情報網を舐めてもらっちゃ困るわね」
上機嫌なままのメリーは、美酒でも味わうかのように紅茶を口にして、
「直接タレコミがあったのよ。この私に。『ここだけの話なんだけど……』って。『こんなこと、ハーンさんにしか相談できないから……』って。この短い期間に、なんと2人も! これは私だけが握ってるウルトラ……Ultimet Sensational Scandalなんだって、確信したわ」
「うん。なんで言い換えたの?」
さすがというか当然というか、英語の発音が流暢すぎて面白かった。私がノベルゲーム製作者だったら、すんごい演出とSEでキメキメにしてたと思う。そんな感じ。
そしてメリーの天狗っぷりは、留まるところを知らずにボルテージを上げていく。野放図、無制限、青天井の倍プッシュだ。彼女は髪をかきあげたり、足を組んだり、オホホと笑ったり胸を張ったりしながら、ドヤ顔世界レベルへとのし上がっていく。
「私にだけ秘密を打ち明けるなんて、まったく困った子猫ちゃんたちだこと。でも仕方ないわよね。だって私ってば、女版藤岡弘、みたいなところあるし」
「いいの? その自己評価は、メリー的にはアガる奴なの?」
「あぁ、罪なオンナ……罪すぎて、もはや原罪よね……いけない、このままじゃ林檎を食べるイヴになっちゃうわ……」
「はいはい、そろそろ戻ってらっしゃいねー」
とっても幸せそうなメリーに、冷淡めな苦言を呈しておく。メリーはちょっと、というかかなり思い込み激しいので、そういう時に私がちゃんと導いておかないと、どこまでもどこまでも、あらぬ方向へ突き進んでしまう節がある。夢見る女の子なのだ。そのうち思い込みだけで空とか飛びかねなくて、冷や冷やする。
私が冷ややかな視線を向けていることに気付いたのか、メリーがようやく現実に戻ってきた。一緒にノッてくれない私を責めるように見据えてきて、やがて根負けしたのか恥ずかしそうに眼を逸らす。
「……いけず。蓮子ったら、いけずよ……」
「そうだねー」
氷点下の返事を投下すると、メリーは顔を耳まで真っ赤にしてプルプル震えだす。マナーモードかな? かわいいね。
冗談はさておき、メリーが罪な女、というのは事実だ。悪い意味で。ここだけの話、メリーにしか言えない話。彼女の周囲の人間が抱くメリー像が、透けて見えるよう。誰にも言えない話をメリーだけには言える、というのは信頼ではなく、単にメリーは変わり者だからどう思われても平気、という一種の異端扱いなのでは。私だって、ヒトのこと言えないと思うけど。
「で、その目撃情報とやらは、どんなものだったの?」
話を戻す。メリーは両頬を指先でクルクルと揉みほぐしながら、
「夜の街で吸血鬼を見た、っていう感じね。まぁ、当たり前なんだけど。私に話をしてくれた2人、時間も場所も違ったけれど、内容としては、ほぼ同じ」
「吸血鬼を見た……メリーに話してくれた人たちは、そう言ってたの?」
「蓮子が言いたいことは判るわ。なぜ吸血鬼だと思ったのか、でしょう?」
メリーが冷静に返してくる。ちょっとホッとした。浮かれてたようだったから、重要なことを確認し損ねてやしないか……なんてのは私の杞憂だったみたい。
「当然、私も疑問に思ったわ。彼女たちが何をもって、自分が遭遇した対象を吸血鬼と断定したのか。変な人でも、訳の判らないバケモノでもなく、吸血鬼に違いないと思ったのか」
「決定的な場面を見たとか? 誰かが実際に血を吸われてたとか」
「ご期待に添えなくて残念だけど、そういうスプラッタな話は無かったわね。でも吸血鬼なのは間違いないと思うのよ」
「どうしてまた?」
「2人が遭遇した状況がね。夜の大通りを歩いてたら、不意に『何かと目が合って』、身体の自由が利かなくなった。身体が勝手に、人気のない裏路地へと向かっていったって言うの。そして路地裏の先の袋小路に、誰かが立っていたって」
「目が合うと強制的に隷属させられる……魅了の魔眼(チャーム)ってところ?」
「そうだと思う。史実の吸血鬼と同じよね? 人ならざるモノの眼。宝石みたいに妖しく輝いてた……って」
「吸血鬼を史実と定義するのはどうかと思うけど……」
話の腰を折ってしまって悪いな、とは思いつつ、いちおう突っ込んでおく。
吸血鬼の瞳が人間を惑わすという描写は、確かにブラム・ストーカー時点で既に存在している。『燃えるような赤い目』と称された、視るだけで対象に催眠術のような影響力を及ぼす、一種の魔術行使。その瞳の異様さをもって、ドラキュラ伯爵が非人間であることが繰り返し語られていた。
「うん、それで?」
「その誰かは、こう尋ねてきた。『吸血鬼を見たことはある?』連れてこられた子が辛うじて首を横に振ると、誰かは続けてこう言った。『ならアナタ、ラッキーね。ほら見て。本物の吸血鬼なのよ。私は』そう言って、自分に生えてる牙を見せつけてきた……」
「うーん、なるほどね……」
腕を組んで唸ってしまう。メリーの語った内容を鵜呑みにするとすれば、それは確かに吸血鬼との遭遇以外の何物でもないだろう。なんせ正体不明のXは、自ら吸血鬼であると名乗りを上げているのだから。
「……で、それからどうなったの?」
「殺されるかもしれないと思った、って。そう言ってたわ」
メリーは重々しく口にした。吸血鬼の目撃談。それは前提からして疑義の対象となる。けれど少なくとも、メリーは相談相手から語られた恐怖を、蔑ろにしていないことがハッキリした。
「でもそうはならなかった。吸血鬼を名乗った誰かは、彼女たちに傷ひとつ付けなかった。さぞ愉快そうに笑ったかと思うと、そのままどこかへ飛び去って行ったんですって」
「飛んで行ったって、その、羽か何かで?」
「たぶんそう。バサバサって、風切り音が聞こえたと言っていたから。あまりに速すぎて、ちゃんとは見えなかったらしいけど……」
「…………」
頭の中で情報を整理する。議論のテーブルに乗せるべき観点は3つだ。魅了の魔眼(チャーム)、吸血鬼の行動、逃走方法。それぞれのイシューに、パッと思いつく疑問点を添付する。
・魅了の魔眼(チャーム)……どうやって実現する?
・吸血鬼の行動……なぜ吸血鬼だと明かした? どうして指一本触れなかった?
・逃走方法……どうやって実現する?
ざっと、こんなところだろうか。
とはいえ、判断を下すには情報が足りない。噂の真偽を確かめるためには、検証が必要になるな、と思った。吸血鬼の噂。正直、オカルト好きとしての血は騒ぐ。けれど私たちは秘封倶楽部なので、確たる証拠もなく鵜呑みにすることはできない。デマやガセ、勘違いやミスリード。それらの可能性を排除もできないようでは、探究者としては下の下もいいところだから。
「決まりね。それじゃ、さっそく調べに行きましょう」
メリーが楽しげに、唄うように言う。私が黙り込んでた数秒の間に、もう私のスターターがオンになったことを承知しているわけだ。こういうところ、メリーは流石だな、と思う。話が早くて、とっても助かる。
「えぇ、行きましょう、メリー。活動開始よ」
残っていた紅茶を飲み干して立ち上がろうとしたその瞬間、鞄に放り込んでいたデバイスが短く震えて着信を知らせてくる。出鼻をくじかれた私はメリーの顔を窺い、呆れ顔の彼女からの許可を待ってから、デバイスを確認する。
「――え?」
送られてきたメッセージは、夕辻ミナからの物だった。
行方不明になっている彼女からの着信。慌ててメッセージの内容を確認する。
『相談があるの。直接会って話したい。ここで待ってるから、ひとりで来て欲しい』
そんな短いメッセージに、位置情報が添付されていた。
大学と下鴨付近の中間くらいの位置。爆発的に増えた京都府民の受け皿となるべく整備されながら、どこへ行くにも絶妙にアクセスが悪くて、真っ新なゴーストタウンになりつつある新興地区の外れ。特に何があるわけでもない、都市の片隅に潜む死角。
「……お友達から?」
メリーが恐る恐る、といった感じで尋ねてくる。うん、と頷いた私はメリーにデバイスの画面を見せるかどうか少し迷って、見せないことに決めた。彼女を変に巻き込むような真似を、したくなかったから。
僅かな逡巡があった。私にはこのメッセージを、見なかったことにする選択肢もあった。
相談? 直接会う? ひとりで? いくつもの疑念が脳裏を掠めた。恣意的な無関心を発動させて、顔見知り以上の関係にまで発展しなかった彼女を黙殺する。それが賢い行動だという確信もあった。
そして私は何も見なかったことにして、メリーと楽しく秘封倶楽部に興じるのだ。
でもメリーに、そんなお利口な私のことを、許して欲しくはなかった。
「……ねぇ、メリー」
「思うにアナタは、煩雑で厄介で、本当に素直じゃないわよね」
言葉とは裏腹に、メリーは穏やかな表情で私をジッと見つめてくる。テーブルに肘をついて私を見据えるその瞳には、私の気付かない私の細かなところまで、克明に映っているような、そんな気がした。何もかも見透かされてるというか、私以上に私を理解してそうというか。
「いいわ。今日の秘封倶楽部はソロ活動ってことで」
「うん。ごめんね、メリー」
「気にしないで。どうせ蓮子の一番は私だって自惚れてるだけだもの」
イタズラな笑みを唇に描いたメリーに、それじゃと別れを告げて喫茶店を後にする。
出入り口のベルが軽やかに鳴る。日は暮れかけていた。茜から菫に変遷する風が、京の街並みを撫でていく。黄昏時、という言葉がどこからともなく湧いてきた。誰そ彼刻。私はまるで誰かに言い訳するかのように小走りで。
目的地をサーチする必要はない。デバイスの位置情報を読み取った都市の表層が、私の進むべき場所へのルートを、最適化したうえで掲示してくれる。京都を構成する建造物には、インテリジェントな双方向情報レイヤが塗布されていて、遍く市民のデバイスと通信して通信して通信して、お世話するのに必要な情報を映し出すことに余念がない。
見ず知らずの壁やパーティションの表面に、進むべき道、曲がるべき角、測るべき距離や歩行速度、到着予想時間が現れては消えてを繰り返す。不思議の国に導かれる純粋な少女を連想するのは、シームレスでファジーな都市の親切が示唆的なことを感じる、無意識下の反応かもしれない。都市に包まれている限り、人は迷わない。どれだけ複雑化しようと冗長化しようと、無秩序も堂々巡りも発生しない都市。人間という生物の容器としては出来過ぎだ、と皮肉る私がどこかにいる。
外壁塗装レイヤに表示される矢印を追いかける。
少しずつ日が沈んでいく。街並みは暮れなずんで、長く影を落としていく。
暗がりへ、暗がりへ。
追われる影法師が、都市の谷間に融けていく。在るべき境界が忘失されて。
「……はぁ」
息つく私が足を止めたとき、周囲はすっかり闇と呼んで差し支えないほど、黒に染まっていた。人の気配もない、忘れ去られたような袋小路。土埃に塗れたアスファルトには、まるで古代の遺物みたく、煙草の吸殻が打ち捨てられている。
物音はない。静まり返った路地裏。人の営みから切り離されたかのような錯覚。
誰の姿もない。ざらついた廃墟のマチエール。虚ろな月明かりの蒼白と、冷たい街路灯の白熱。18時07分36秒。がらんどうな京都の深奥に、私の吐息が波紋を立てて。
予兆は、蝶の羽ばたきめいていた。
降りてくる夜のために、セレナーデの楽譜を手繰るように。
「――来てくれたんだ。本当に」
キィ。赤錆びたビルの扉を開けて、彼女が街路灯の白い光の下に歩み出る。
蝋のように白い肌、無邪気な微笑みを携えて。
宝石のように輝く瞳、好奇心を淡く湛えて。
かつて微かに、ではあれど、共に憧憬を語り合った彼女が、夕辻ミナが立っていた。薄暗闇を裂く街路灯の光をスポットライトみたく受けるミナの姿は凛として、切り絵のように鋭利な佇まいをしていた。
「……取り乱したりとか、してないのね」
警察が、アナタの行方を捜しているというのに。
父親が、自宅でもあるアンティーク店で殺害されたというのに。
そのことを驚く感性自体はあったけれど、すんなりと飲み込むことができる程度には、私も達観していた。それは怯えて狼狽える彼女の姿を、私がイメージできなかったことも理由としては挙がる。
けれども、それ以上に――
「判らないな」
そう、不可解だった。彼女の行動が。彼女の意図が。
人並みに心配はした。安否を問うメッセージも送った。それに返答があり、こうして彼女の息災が判ったのは喜ばしい。
でも、こうして彼女と対面しても、なお思う。私は、いの一番にミナと逢えるような間柄じゃない。真っ当なプロトコルがあるはずだ。警察、マスコミ、大学、胸を張って彼女を友人だと言える人々……。そうした順序を違えて、プロセスが走っているような違和感。再会に際して抱く気持ちが、それに悉く塗り潰されて。
「判って欲しかったの」
後ろ手を組んだミナが、跳ねるようなトーンで口にする。蠱惑するように笑んで。まっすぐ私を貫く琥珀色の視線は、私を試すようでも揶揄うようでもあり、私の中の違和感と不和を加速させる。
「誰に?」
「蓮子さんに」
「私に?」
「アナタに」
「どうして?」
「審美眼、とでも言えばいいのかしらね?」
ミナが胸に手を当てる。鳩尾の辺りを撫でるその指の先には、きっとあのペンダントがあるはずだ。吸血鬼の牙だと述べられた、あのペンダント。
「誰もが価値を理解できるわけじゃないの。アンティークと同じ。優れた逸品と雑多な贋作の違いは、判る人にしか判らない。アナタなら、それが理解できると思った」
「言ってる意味が判らない。あまりに抽象的だわ。私は鑑定士でもカウンセラーでもない、単なる女子大学生。アナタの助けになれるとは思えないわね」
「父を殺したのは、私」
そう告白した彼女の顔には、何の憂いも罪悪感もなかった。
どこか晴々とした、清涼な空気感すらあった。
私は口を噤んだ。息を呑む、とまではいかなかったけれど、フッと意表を突かれたことは確かだったように思う。尊属殺人という罪は刑法の記述から削除されたけれど、親殺しのタブーが一緒に消失したわけじゃない。
背筋に冷えるものを感じた。
ミナの酷薄な微笑みは、親を殺したと宣う人間がしていい表情じゃなかった。
殺人を犯してなお笑う者は、もう人間ではない。
――鬼だ。
「……懺悔の対象を、間違えてるんじゃない?」
「えぇ。アナタはシスターではないものね、蓮子さん」
「そうね。それと同時に警官でも裁判官でも、弁護士でもないわ」
「でも、アナタは唯一、女子大学生の宇佐見蓮子であることだけは間違いない」
「ただの宇佐見蓮子よ」
「それが必要な定義なのよ。アナタの噂、ウチの学部でもよく聞くわ。相変わらず熱心なようね? オカルト探究。サークル活動。秘封倶楽部……で、合ってたっけ?」
我が愛すべき秘封俱楽部の名を、ミナが口遊む。たったそれだけのことに、たじろいでしまいそうな自分がいた。私たちが彩色したキャンバスの表面に、ガリガリと爪を立てられたような嫌悪感。
ミナが私を見つめる。その視線にコールタールのような粘性を感じた。ドロドロと私の身体に絡みつくような、汚されるような、そんな感覚。ある種の淫靡さを含んだ、堕落の御印かの如く。
「オカルトは好きよ。相変わらずね。だから何なの?」
「なら、当然知ってるでしょう? いまこの街を騒がせてる噂。吸血鬼の噂」
デバイスを取り出したミナが、まるで突き付けるみたいに画面を向けてくる。
「――っ」
今度こそ息を呑む。
彼女が掲げたデバイスは、無造作な死体とドス黒い血溜まりを映していた。
壮年の白人男性だった。死体の浮かべる苦悶の貌は、空虚な無念を湛えた瞳を明後日の方に向けている。だらり。真紅のカーペットに広がる血痕は血中のヘモグロビンが酸化して、質量を持った影のように広がっている。どろり。それらを世界のテクスチャに縫い留めようとしているみたく、ピアノブラックの杭が心臓の辺りを貫いている。ずぶり。
死んだ人間の画像データには、誇張も謙遜もなく、当然、躊躇いの類も一切ない。量子ネットを走査する倫理AIが、自動的に検閲してマスキングする類の画像。心的外傷性資格情報取扱資格でも取っていなければ、恐らくは一生見ないで済んだであろうスプラッタの極み。
「父よ」
彼女の、遅ればせながら、と言わんばかりの紹介は気軽で、三文小説に描かれるコメディのような薄ら寒い滑稽さがあった。
でも、ミナは冗談なんか欠片も口にしてはいなかった。
「蓮子さん。顔、真っ青だけど」
私を捉える琥珀色の瞳は、煉獄の炎に焦がれるようで。
「アナタにはイメージできるでしょう? この父の死体画像から」
歪めた口の端に、本来の人間の犬歯とは比較にならないほど、長く鋭い牙を覗かせて。
「私がこうして、父を殺さなくてはならなかった理由を」
ミナが求める答えを、私の脳が弾き出す。
金縛りにかかったように足が動かなくなる。
死体の首には2つの刺傷があった。5センチほど離れて穿たれた首筋の穴は、きっと頸動脈を引き裂いているだろうと思った。それはひどく象徴的でオーソドックスな傷痕だった。吸血鬼による吸血行為の犠牲者として。
死体の胸に杭、という構図も象徴的だ。その手法は往々にして、摂理に背いて起き上がる屍者を永遠に沈黙させるために用いられる。古くはルーマニアのストリゴイに。近代においては棺で眠るドラキュラ伯爵に。もう二度と目覚めないように、と。
例えば。
そう、例えば。
この画像の男性が吸血されて死んだのならば、きっとその胸には杭を打たねばならないだろう。吸血鬼の被害者は大抵の場合、吸血鬼の眷属として死から蘇る業を担うから。彼の『起き上がり』を阻止しようとするのなら、杭打ちは必要な行為だったという推論に至る。
「……どうして、胸に杭を?」
「父を屍食鬼(グール)にしたくなかったの」
デバイスを仕舞ったミナは、どこか哀愁を漂わせて呟いた。
「私、それなりに父を尊敬して生きてきたつもり。だから父を、理性も知能も失って、ただ人肉を求めて徘徊するだけの獣に貶めたくなかった。慈悲よ」
「死に至るほど、血を啜っておきながら?」
まろび出た質問は、我ながら寒々しかった。嘘のような、冗談のような、噴飯モノの荒唐無稽。
それを受けて、ミナは笑った。
燦然たる琥珀色の瞳を妖しく歪めて。肉食獣のように凄惨に笑った。
「だって、仕方ないわよ」
彼女が唇を舐めた。覗く牙の鋭さが、紅く柔らかそうな舌と唇から浮き出ているようだった。
「美味しかったのだもの。あんなにも濃厚で、あんなにも芳醇で、頬が落ちてしまいそうに甘くて……」
うっとりと酔ったように紅潮する彼女の在り様には、欠片ほどの人間らしさも残っていないように見えた。それは歓喜だ。鳥肌が立つほどの。ミナはもう果てに至ってしまっているのだ。そう思った。人間と呼んでいい領域の、外側へ。
人外。
そのような呼称が、きっと相応しい。
本当に彼女が肉親の血液を啜り、その滋味に恍惚としているのならば。
「……反吐が出るわ」
気付けば、そう口にしていた。
我ながら賢い選択とは言えない。私は自衛の手段を何も有していなかった。警棒もテーザーガンも十字架も、何も。彼女がその気になれば、私は太刀打ちできなかった。
しかしミナは、ただ薄ら笑いを浮かべて、
「真っ当な人間の感覚ね。愛おしいわ」
「それを期待して、わざわざ私を呼んだってわけ?」
「痛くて怖い思いをする『要件』の方が良かった? マゾなのかしら」
彼女が細く長く吐息を零す。唇を嘲るように歪め、白い牙を見せつけるみたく。
「私なりの親切心よ。オカルトに恋焦がれる顔見知りに、吸血鬼をお披露目するというね」
「優しいのね。感謝にでも咽び泣きながら、ひれ伏した方が良かったかしら」
「その必要はないわ。だって建前だもの。私、ただ単純に高揚してるのよ。気分がウキウキして、誰かに話したくて仕方がなかった。見せびらかせて、自慢して、ひけらかしたかった。でも、今どき吸血鬼なんて古典的な話題にノッてくれる人、そうはいないから」
「私に白羽の矢が立ったのは、そういう理由?」
「言ったでしょう? アンティークと同じ。誰もが価値を理解できるわけじゃない」
言葉の通り、ミナは得意げだった。あぁ、確かにその通りだ。認めよう。この科学世紀、翻案に翻案を繰り返し尽くした吸血鬼というモチーフを、原典から把握している人間は限られる。あまりにノスタルジアが過ぎる。ステージに立つアクトレスも、それを観るオーディエンスも、等しくオールドファッションなオペラハウス。
これが冗談以外の何だと言うんだ。
「……で、気は済んだかしら」
「えぇ、それなりに」
皮肉をぶつけたつもりだったのに、彼女は笑って受け流す。暖簾に腕押し、という感じ。もう真っ当な人間じゃないから、効かないのだろう。無防備に私から視線を切らした彼女は、ファンファーレを締め括った指揮者のように肩の力を抜いて、
「――要件は、これでおしまい」
眩しそうに手をかざして街灯越しに夜空を見上げながら、物語にピリオドを打つ。
……おしまい。おしまい?
違う。なにも終わってなんかいない。
私は手を握る。ギュッと。彼女のターンは終わり、手札はすべて晒された。必然、今度は私のターンだ。ダウンを選び、すごすごと引き下がるわけではないのなら。
「どうするつもり? これから」
「さぁね。好きにするわ。まだ読み途中の論文がいくつか残ってるし、昼間の安全な寝床も見繕わなきゃいけないし、もう一度、談志の『芝浜』を聞きたいし」
「自首する気、ないの」
「誰が? 何に?」
一瞬、ミナは呆気に取られたような顔をして。
「まさかとは思うけど、私が? 警察に?」
私の提案を明確にせせら笑って。
「蓮子さんって、人の話を聞かないタイプだったっけ?」
両手を大仰に広げたさまは、ステージ上のプリマのようで。
「どの面を下げて自首しろと言うのかしら? 父の血を吸い尽くして失血死させたから、殺人罪? 屍食鬼にならないようにと鉄杭を突き立てたから、死体損壊罪?」
言葉を重ねるにつれ、ミナは堪えきれないとばかりに苦笑を漏らし、ついにはアハハと笑いだす。ひとしきり笑ったかと思うと、ナンセンスだと肩を竦めて、
「確かにれっきとした犯罪よ。人間社会のルールに照らし合わせれば。でもそれは人間を律し、人間を赦すための規範じゃない」
右手を胸に置いた彼女がグッと上体を前かがみにして、チェシャ猫みたいに見下すような嘲笑を向けてくる。
「どうしてそれが、今の私に、適用されなきゃならないの?」
「アナタが本当に人間を辞めたのなら、そうね。アナタに背負うべき十字架は無いわね」
そうだ。
宣言だけで完結する不思議なんて許されない。
探究とはすなわち、探し求めることなのだ。あらゆる角度、あらゆる知性や理が検証に検証を重ね、分解と解剖に手を尽くし、論理と演算をいくつ展開してもなお及ばない、人類未踏の地へと手を伸ばす活動なのだ。
ミナの主張には一貫した彼女なりのロジックがあったし、物証もどうやらある。量子ネットを倫理監査AIが走査する現代において、死体の画像なんて、その場に居合わせない限り絶対に入手できない。
でも、疑いの余地もない完璧な証明だった、というわけじゃないと思った。諸手を挙げて給餌されたオカルトに飛びつくほど、素直な性分でもないと思った。ミナの理屈を受け入れるにしても跳ねのけるにしても、そこに充分な裏取りが無いまま判断を下すのは早計だ。
ただ、問題は。
「……ふぅん」
彼女が冷たくギラついた視線を投げてくる。
そう、問題は。
「証拠が欲しいんだ、蓮子さんは?」
彼女が靴音を響かせながら私に近づいてくる。一歩、二歩。
私はそれに合わせて後退りをする。一歩、二歩。
問題は、こうなることが判り切っていたことだ。証拠を求めるどころか、この場で疑義を表明すること自体、利口な行いではなかった。そんな人並みの危機察知能力が、私に備わってないわけではないのに。
「今度は私が問う番ね。どうするの? 警察でも呼んでみる? 試してみるのも悪くないかも。父の時には間に合わなかったけれど」
「……いちおう聞くけど、米粒をバラ撒いたら数えずにいられないとかは?」
「南スラヴの伝承ね。私が朝までお米の数を数えるか、賭けてみる?」
「あいにく、お米の持ち合わせがないわ」
「それはそれは、万事休すね」
ミナがくすくす笑いながら軽やかに言う。もちろん私は笑えない。残念なことに、これまで膨大に溜め込んできた吸血鬼トリビアを総動員しても、今この瞬間に役立ちそうな物は思い当たらない。
想像してた以上に打つ手がない。
状況は最悪で、ドラスティックな打開策も望めない。
チェックメイトは目前だけれど、それをニヒルに受け止めるのもキャラじゃない。頭の中の記憶保管庫へ手当たり次第にアクセスし続ける。考えろ。考えて。少しでも生き残る確率が高い行動を……。
それまでゆっくり歩いていたミナが、不意に地面を蹴った。
3メートル弱あった距離を一気に詰められる。
呼吸する暇すら与えられず、ミナが私の背後に回って両肩を掴んできた。
動けない。私は動けなかった。
肩の肉に彼女の指先が食い込む。鈍い痛み。反射的に振り返ろうとしたけれど、彼女の力は強く、身動きが取れない。
右の首筋に吐息を感じた。その感触に、ゾワリと背筋が震える。微かなシャンプーの香り。メリーが使ってるのと同じやつだ、なんて馬鹿げた雑念の一片。
目を見開く。声も出ない。私を見下ろして、月が青白く嗤ってる。明滅するトリフネでの記憶。たぶん、これが走馬灯というやつ。強張る身体。取り留めもない感懐の切れ端が、拾い上げるよりも早く滑り落ちて。
「……このままアナタを殺すのは、造作もないことだわ」
ポツリと彼女が呟く。言葉の一つ一つが形を得たかのように、私の首の皮膚をくすぐった。
「でも蓮子さんは、きっと、それじゃ納得しないわよね? 極度の貧血で霞掛かった脳細胞に、虚ろな恐怖を刻み込んだところで、自己満足にもなりゃしない」
「…………」
トクン、トクン。
自分の鼓動が、アンティーク時計の秒針みたいにペースを刻む。生身の害意に触れられて。速すぎもしないし、遅すぎもしない。ただ、少しだけ耳障りだった。この薄寂れた宵闇のノクターンには不釣り合いだ、と。
「安心して。このまま死ぬより、もう少し趣向を凝らした見世物を用意してあるから」
「……何の、目的で?」
「もう言ったでしょ? 二度は言わない。クドいのは好みじゃないのよ」
そう告げた途端、ミナの唇が私の首から離れる。
ドン、と背中を突き飛ばされて、思い切り態勢を崩した私は前につんのめった。したたかに顔面から地面に叩きつけられそうになるのを、かろうじて両手をつくことで回避する。
「さようなら」
満足げに呟かれる彼女の声。
慌てて振り返ったとき、もうそこにミナはいなかった。
視界の端に、素早く垂直移動する何かの影。反射的に目で追う。激しく風切り音。
――黒い翼を広げながら廃墟の壁を駆け上がっていく彼女の残像が、サブリミナル刺激のようにほんの一瞬、私の視界に飛び込んできて、それは瞬く間にビルの向こう側へと屋上を飛び越えて、そして――
私だけが、袋小路に取り残された。