男の名は石神井といった。京都府警署長室の来客用ソファにどっしりと腰掛け、無造作に足を組んでいる。人好きのする笑顔を表層(テクスチャ)に貼り付けつつも、室内に集まった他の者を委縮させる圧を発していた。
呼びつけられたのは、あの日、いの一番に現場へ駆けつけた者たちだった。警らの里村と倉田、刑事の伊沢と相馬。直立した彼ら四人を眺める石神井の視線は朗らかであり、相対する四人の面持ちとは対照的だ。
その場に居合わせる中でもっとも困惑しているのは、首都京都という土地柄にも、警察組織上層部の暗黙知にも明るくない里村であった。彼は自身の処遇や進退などの至極真っ当な心配を抱えたまま、石神井の形式ばった説明に耳を傾けていた。
「つまり」
石神井が指をピンと人差し指を立てて言う。
「まとめますと、こうなります。夕辻モリス殺害、京都府警周辺のセキュリティ機器毀損、捜査一課資料保管室への侵入および不正情報アクセスとその漏洩。これらに係る皆さまの捜査活動は無期限に停止されます。私の関与するところではありませんが、まぁ別の業務に当たっていただくことになるかな、と」
彼は愛想よく締め括る。国家安全保障局均衡管理課、俗に言う結界省の上級監査官(シニア・インスペクタ)は慣例として、自らの職権とそれに付随する行政組織間の越権行為の許諾範囲を色名によって示す。
石神井は『橙』の位を冠している。序列にすると下から二番目ではあるが、それでも警察組織への越権的な介入行為を正式に許可されている。
さらに格上の『藍』や最高位の『紫』に至っては、国連加盟諸国における国家機密の無制限の閲覧や更新・削除権、領域外生命体への優先的交渉権すら保有するとされている。
「……ですが、石神井監査官殿」
彼の言に逆らうように口を開いたのは里村巡査だった。彼は二度、三度、逡巡するかのように視線を漂わせ、やがて意を決したように石神井を見据えると、
「確かに昨晩の件については所轄の手に余るのは判ります。残された映像記録も、資料室の荒らされようも、まったくもって本官の常識で測ることが出来ませんから。しかし、夕辻家の事件は――」
「もちろん存じ上げておりますとも。けれど、それを判断するのは私です」
割り込んだ石神井の口調は有無を言わせぬもので、里村は即座に口を噤まざるを得なかった。石神井が立ち上がる。後ろに手を組んだ彼は、まるで落ち着きのない檻の中の灰色熊(グリズリー)のように室内を闊歩しながら、
「けっして勘違いしないで頂きたいのですが、別に私の『提案』はアナタ方に敵対する類のものではないのです。むしろ、その逆。かけがえのない人的リソースであるアナタ方の生命や世界を、保護するものです。えぇ、いわゆる『危険』から」
『危険』という言葉を口にした一瞬、石神井の視線が鋭く尖った。里村はもちろんのこと、少なくない修羅場を潜っている伊沢さえも、刹那、射竦められる。
恒常性の保全ですよ。そう呟いた石神井の視線は、既に穏やかさを取り戻していた。
「仕事を奪われたようで面白くない気持ちは理解しますがね。でも、嫌でしょう? 脳髄を啜る巨大ミミズに囚われるのは。親切な隣人が水道も繋がってない寝室で溺死するのは。愛する家族が肘から先だけ残して行方不明になるのは。秩序の喪失、常識の崩壊、当たり前の欠損。我々はそんな、科学的理解の範疇を超えた荒唐無稽から、人々と、人々が暮らす世界を守ることが仕事であり、その護衛対象は公僕であるアナタ方も例外ではない、というだけの話です。
さて、里村さん。アナタは信じますか? この街に吸血鬼が実在するなどと」
足を止めた石神井が、軽口のように尋ねてくる。
それを信じることは、常識的に不可能だった。なぜなら吸血鬼はファンタジーだからだ。手垢のついた空想上の怪物に過ぎず、生命科学的に根本から存在を否定されているからだ。
もし、そんなモノの実在を本気で信じているのならば。
それは現実と地続きの世界を否定することだ。それは人類の英知が組み上げた科学世紀への離別だ。昨日と変わらない今日が恒常的に続くことを前提とした文明に対するアンチテーゼだ。
そんな戯言を、石神井は受け入れている。
あたかも、それが当然であるかのような顔で。
「『
皮肉っぽく笑う石神井の顔を見て、里村は薄ら寒さを覚えた。
人々の生命と世界を守ると言った彼こそが、現実を蹂躙し、現代社会の理を蝕む『向こう側』の生き物であるかのように見えて。