博麗霊夢
「ううー、こんな夜中にお仕事なんて」
幻想郷の巫女、博麗霊夢は人里の依頼で例の『迷子のバス停』の調査へと出向いていた。時刻はすでに深夜、普段は寝ている時間なので、霊夢はすこぶるご機嫌斜めな様子であった。しかも、このバス停は雨の日じゃないと現れないときている。霊夢は何処までもどんよりとした気分でそのバス停が現れる場所へ向かった。
噂通り、そのバス停は確かに存在した。だが奇妙な事に、その屋根の下に備え付けてあるベンチに、誰かが座っているのが見えた。土砂降りの夜中だというのに、人がいるのはおかしい。霊夢は一応用心しながらバス停へと近付いた。
そこにいたのは、忘れ傘の付喪神、多々良小傘であった。
小傘は目を閉じ、むにゃむにゃと寝言を呟いている。
霊夢は何だか脱力した様子でため息をついた。
丁度、バス停にはこの鬱陶しい雨を防げる屋根が付いている。霊夢はすぐにバス停へと入り、うたた寝をしている小傘の頬を指先でぷにっと押してみる。突然の事に、小傘は「ひゃあ!」と情けない声を上げてベンチからずり落ちてしまった。
「アンタ、ここで何やってんのよ」
小傘は霊夢の不機嫌そうな顔を見てむーっと顔を顰める。
「私は、人を待っているんだよ」
せっかくの安眠を邪魔され、小傘は少々仏頂面をして応えた。霊夢は特に何も言わず、小傘の隣に腰を下ろし、霊夢はそのまま夜食のつもりで持ってきたおにぎりを頬張り始める。……相変わらず呑気な性格だなぁと、小傘は呆れた表情で霊夢の様子を見つめていた。
「人を待ってるって……アンタ、ここが一体何なのか知ってんの?」
霊夢は地面を指差して質問を重ねる。ここ、とはつまりこのバス停の事である。
小傘は「んーん」と首を横に振る。
「分かんない。けど何となく、私はここで何かを待ってなくちゃいけないような気がして……」
聞くところによると、小傘がこのバス停を発見したのは、人里で『迷子のバス停』の噂が広まってしばらく経った後だという。
暇を持て余していた小傘は興味本位でそのバス停に近付いたらしいが、バス停のベンチに座った時、突如、小傘はこれまで経験した事のない、不思議な感覚に襲われたのである。まるで念力で固定されたかのように、小傘はその場から動けなくなってしまったのだ。
雨が止むまで、小傘はずっとそのバス停で放心したように佇んでいたのだとか。
ここで誰かを待たなくてはならない。そんな気がしたのだ。
その日以来、小傘は雨が降る度にこのバス停を訪れ、その得体の知れない誰かを待ち続けているのである。顔も名前も分からない誰かを。……そんなあやふやな予感だけで、小傘はもう何日もこのような生活を続けているのだとか。随分と気が滅入りそうな話である。
だが、小傘自身は不思議とそれを苦痛とは思っていなかった。
むしろ彼女は、そうする事が正しいとさえ思っていた。
「よく分かんないんだけどさ、どうやらこのバス停は、私を必要としているみたいなんだ」
何だそりゃ。霊夢はそうぶっきらぼうに呟き、バス停を見渡し、耳を澄ます。夜の雨音だけが響いている。明らかにこのバス停には何らかの妖力が宿っている。しかし、どうもそれは悪い物ではないらしい。小傘に危害を加えるつもりもない様子だ。そうと分かれば、この件の解決は別に急ぐ必要もない。霊夢は大きな欠伸をして腰を上げた。
「……帰るわ。どうやら大した問題でもないみたいだしね」
霊夢のその言葉に、小傘は少しだけ悲しげな表情を浮かべた。雨の中、こんな場所で一人ぼっちで待つのは確かに退屈だし、何より寂しい筈である。しかし、小傘は霊夢に「もうちょっと一緒にいようよ」とは頼まなかった。これはあくまで自分だけの使命である。自分の勝手な都合で他人を巻き込む訳にもいかない。そんな小傘をよそに、霊夢はすぐに暗い雨の中へと飛び去ってしまった。痛いほどの静寂が小傘を包み込む。
「でも、待っていなきゃ……」
小傘は自分にそう言い聞かせ、再びベンチの上で浅い眠りに落ちた。
夢の中で、小傘は一人、寂しげに取り残されていた。
小傘はとある人物を待っていた。それは、かつて一本の傘であった頃の小傘の記憶である。小傘が待っているのは、他でもない、小傘の持ち主である。だけど、いつまで経っても持ち主は帰ってきてくれなかった。小傘は泣きながら、いつまでも持ち主の事を待ち続けた。
来ないって、分かってるのに。
……目が覚めた時、小傘は自分の身体に何かが被せられているのに気付いた。
それは、一枚の毛布である。
ベンチの横を見てみると、先ほどこの場から立ち去った筈の霊夢が憮然としたような表情で座っていた。小傘が唖然としていると、霊夢は無言のまま小さな網籠を小傘の方に差し出してきた。そっと籠を覗き込むと、中にはお菓子やホッカイロが入っていた。
「あんまり、無理しちゃダメよ」
霊夢は小傘と目を合わせる事は無かった。
……この素っ気ない態度は、恐らく彼女の内面の裏返しなのだろう。
小傘はクスクスと笑い、嬉しそうに霊夢の細い腕にもたれた。
「……ありがと、霊夢」
その暖かさの中で、小傘はただひたすら、「何か」を待ち続けていた。
霊夢は何も言わなかったが、何となく、励まされた気がした。
もう、寂しさは感じなかった。